梅雨。生霊のいる教室に、君と
私は生霊だ。
二限の始まりを知らせるチャイムが鳴り響く。
今日も私ひとりが残される。
誰もいない教室。
隣のクラスから聞こえてくる先生の声。
生徒たちのざわめきが小さくなり、やがて静かになる。
カーテンが揺れ、湿気を帯びた梅雨の風が吹き込む。
今日は夕方から雨が降るらしい。
憂鬱。
憂鬱な毎日。
私は鞄の中から文庫本を取り出し、それを開いた。
物語の登場人物は、みんな自分を持っている。
主体性。自主性。自己。自我。
どれも私にはないものだ。
廊下の窓の向こう側。
教員室でゆっくりしすぎたのか、それとも仕事が立て込んでいたのか。
廊下を小走りする先生と目が合う。
しかし、その視線は電気の消された教室の中を滑るように流れていった。
私は生霊だ。
今の私は誰にも見えない。
私は再び小説に目を落とした。
自分とそう変わらない年齢の女の子が、恋愛の機微に振り回されている様子が、滑稽であり、羨ましくもあった。
『つまんでいる指の先から熱情が染み、線香花火の炎の色を変えてしまいそうに思えた。』
そんな夏、私には一度も無かった。
薄暗い教室に、私だけが影をはりつけていた。
少し時が経ち、廊下をペタペタと歩く音がしたかと思うと、教室の扉が開かれた。
「あれ? 水瀬さんひとり?」
私は無言で頷いた。
「あぁ、移動教室か! 音楽の授業ダルいもんなぁ! サボりたくなる気持ちも分かる」
クラスメイトの光石くんは、自分の机に鞄を置きながら、勝手に何かを納得しているようだった。
「私、サボりじゃないよ」
「えっ?」
「なんて表現したらいいか分からないんだけど、私の体はちゃんと授業に出席してるから」
「マジ!? それって影分身の術じゃん!」
冗談だと思ったのか、光石くんは笑って話を合わせてくれた。
しかし、今のは冗談ではない。
私の肉体は、今頃、音楽室でみんなと一緒に授業を受けているはずだ。
そして、本来ならば、教室に残された生霊の私は、誰にも視認されることがないはずだった。
今まで一度も無かった事態に、私は少し動揺していた。
「光石くんは授業、行かないの?」
「あー……。もう授業開始から結構経っちゃってるからなぁ……。どうせ行っても欠席扱いだし、サボる!」
光石くんは、けだるそうに黒板の上の時計を確認した後、堂々とそう決意表明をした。
「そっか」と、呟いて、私は小説の文字の羅列を眺めた。
もう内容は頭に入ってこなかった。
どうして光石くんには今の私が見えているのか。
そればかりが頭の中を占めていた。
「ねぇねぇ、水瀬さん」
ふと気が付けば、光石くんが私の前の席に座っていた。
「何?」
「いざサボろうと思ったら、スマホの充電がヤバすぎてさぁ……。水瀬さん、何か余ってる小説があったら、今だけちょっと貸して欲しいんだけど……」
突然のことに驚きはしたが、申し訳なさそうな彼の表情を見ていると、私はすぐに冷静さを取り戻すことができた。
「カラマーゾフの兄弟なら」
「カラカラ族の兄弟?」
「カラマーゾフ」
「カラマー族」
「もう、それでいいわ」
呆れて、というか、諦めて、というか。
私はその小説を机の奥から取り出し、光石くんに手渡した。
「わぁ! サンキュー! カラマーゾフ!」
「下巻だけどね」
「いいね! それもまた一興!」
そう言うと、光石くんは黒板の方を向いて、途中からの長編小説を熱心に読み始めた。
騒がしい人だ、と思ったけど、決して嫌ではなかった。
適度な距離感を保ち、一定以上深くは詮索してこない。
きっと光石くんだって、気になることはたくさんあるだろうに。
曇天。廊下の白熱灯。
頼りない光の中、黙って活字を追う。
追いつけず、活字に逃げられ、集中力が切れた私は、そっと顔を上げた。
小柄な光石くんの背中は、あまり男の子らしくなかった。
しばらく静かな時間が過ぎ、授業終了のチャイムが鳴る。
教室に帰ってくる生徒たち。
その集団の中に私の体を見つけたのだろう。
光石くんは、勢いよく振り返った。
彼の驚きに満ちた表情。
「ね、言ったでしょう?」
半透明になって消えていく生霊の私は、そんなつまらない言葉しか吐けなかった。
◇
梅雨が深まり、日が沈むのが遅くなる。
それにつれて、生霊の私が教室に取り残される時間は、日に日に長くなっていった。
初めは移動教室の間だけだった。
しかし、今では、学校にいる間ずっと。
私の体が教室を出ていくと、生霊の私は教室に取り残された。
体が高校の敷地を出るまで、教室を出ることができなくなった私は、光石くん以外の人に気付かれることのないまま、自分の席にひとり座っていた。
あの日から、音楽の授業があると、光石くんは教室に戻ってくるようになった。
本人曰く――
「先生にめちゃくちゃ頻尿のやつと思われてるから大丈夫!」らしかった。
けど、そんな訳ないだろうと思う。
今も光石くんは、私の前の席で下巻のロシア文学を読みふけっている。
「ねぇ、水瀬さん」
光石くんが、こちらを振り向かずに、声をかけてきた。
「何?」
「さっき音楽室で、水瀬さんの体が、今度うちの高校で開かれる合唱コンクールの運営委員に選ばれてたけど、いいの?」
急に知らされた事実に、私は黙ってしまった。
正直、やりたくない気はする。
ただ、他の誰かが面倒事に巻き込まれて嫌な思いをするくらいなら、私がやってもいい。
そんな気もする。
分からない。
私は自分の本心が分からない。
優柔不断な性格。決断力のなさ。煮え切らない感情。
全てがドロドロに溶け合って、生霊の私が形成されているようだった。
「他薦だったからさ、もし嫌だったら今からでも断っていいと思う」
分からない。
断った方がいいのか分からない。
「どうしよう。光石くん。私、どうしたらいいと思う?」
口に出してから、後悔した。
きっと変なやつだと思われたに違いない。
ただでさえ不気味な生霊の私だ。
嫌われてしまったかもしれない。
「僕、男の方の委員に立候補したからさ」
光石くんは振り返って、私の目を見た。
「最悪、適当にやって、適当にサボろうか」
「適当に?」
「うん。それで、適当に叱られよう、一緒に」
「それは、ちょっとヤダな」
私は笑った。
光石くんも笑っていた。
◇
合唱コンクールが近づくと、私は家に帰れなくなった。
私の体が登下校をして、生霊の私は夜の教室にひとり。
特に怖くも寂しくもなかったが、することがなくて、日が出て明るくなるまで暇だった。
机に突っ伏して、たまに光石くんのことを考えたりもした。
帰宅部の光石くんは、放課後よく教室に残って、委員会の仕事を適当にしたり、しなかったりした。
光石くん曰く――
「教室にいる水瀬さんの方が、話をしていて楽しい」だそうだ。
けど、そんな訳ないだろうと思う。
私の体は、友達が多い。
笑顔が上手で、傷つけたり、嫌われたりしないように言葉を選ぶのも得意だ。
周りの素敵な友達と、理想的な学園生活を送っている。
きっと、教室の外で私の体と話をしている方が、光石くんも楽しいはずだ。
そんなことを考えていると、光石くんが口を開いた。
「水瀬さん、これ。小説、ありがとう」
私の机の上にそっと置かれたのは、以前私が貸した下巻だった。
「どうだった?」
「おもしろかったよ」
「本当に?」
「う~ん。おもしろかったんだけど、正直、登場人物が多くて、ちょっとややこしかったかな」
それは私と同じ感想だった。
私もその理由から、中巻の途中で読むのを止めてしまっていた。
「小説の中だけでもややこしいんだから、現実なんて、もうごっちゃごちゃだよなぁ」
光石くんはそう呟いて、私を見た。
登場人物に際限のない現実から逃げた、生霊の私を。
それは、憐みでも、同情でもない。
澄んでも、濁ってもいない。
ただ、ひたすらに真っ直ぐな。
不思議な目だった。
すると、光石くん以外誰もいない教室に、女の子の声が響いた。
「よかった! 光石くん、まだ残ってた!」
「ん? あぁ、吉田さん」
吉田さんは、人がいないか確認するように教室を見渡した後、頬を夕陽に染めた。
「あのね、ちょっと話があるんだけど……」
私は、その先の言葉が聞きたくなかった。
強く、強く。
初めてこの場から消えてしまいたいと思った。
生霊として、この場にいたくないという純粋な気持ちなのか。
体として、この場にいたいという邪な気持ちなのか。
その両方か。
二人の邪魔をしたくないけれど、二人の邪魔をしてやりたかった。
もどかしさと、自分の不甲斐なさ。
涙が出そうだけれど、出せなかった。
まだ誰のものでもない光石くんと、私はもっと話をしていたかった。
気がつくと、私は通学路にある横断歩道の前に立っていた。
目の前の信号が、赤色から緑色に変わる。
私は、白いペイントを踏むことなく、学校へと踵を返した。
◇
あれから、生霊は現れなくなった。
梅雨も終盤に差し掛かり、相変わらず私は、大勢の登場人物に対して、八方美人を貫いていた。
入道雲とは違う、輪郭のぼやけた低い雲。
そんな曇り空と電線だけが映る水溜まりを避ける。
生温かく、じっとりとした空気が、私たちに夕立の気配を告げている。
せめて紫陽花でも咲いていれば、華やかな下校風景なのに。
「そうそう! 見て、水瀬さん!」
「何?」
隣を歩く光石くんが笑顔で鞄から取り出したのは、『カラマーゾフの兄弟』の一巻だった。
「この前貸してくれた小説の前半部分が気になったから、買っちゃった」
「そう……。けどそれ、私のと出版社が違う……気がする」
「えっ!?」
「私のは、上、中、下巻だったはずだけど」
余程ショックだったのか、光石くんは目を見開いたまま固まってしまった。
「あー……。でも、翻訳者が違うだけだから、内容は一緒だよ?」
「えー! せっかくだったら、水瀬さんの読んだ文章を読みたいんだけど!」
「じゃあ、明日学校に持っていって――」
そのとき、青葉を揺らして、強い風が吹き抜けていった。
「ん? 水瀬さん、今、何か言った?」
「うん……。私の家、すぐそこなんだ。もしよかったら、今から――」
乱れた髪を整えながら、私は言葉を紡いでいく。
長袖をまくった白いブラウス。スカートの皺。
そして、拭うほどでもない汗。
夏は、きっとすぐそこまで来ている。
そんな気がした。
お読みいただき、誠にありがとうございました。
この短編から何か感じるものがあれば嬉しく存じます。