第61話 ルカのはなし・令嬢たちはどう生きるか
陽は西へ傾いています。まだ周囲は明るく空は青で、空気は黄昏の手前。
校舎の正面玄関から正門の方角へ続く道を、一人歩いていく後姿が見えました。
私は「間に合った」と思いながら、階段を駆け下ります。周囲に他の生徒はいません。
「ナキル様!」
呼びかけると大柄なその人が立ち止まり、振り向いてくれました。灰色の髪に褐色の肌。髪から覗く獣の耳と、赤紫色の瞳。無骨な厳つい手には、小さな花束がありました。
「……ルカ?」
「そこまで、お見送りします!」
「見送りなら、さっき大勢でしてくれただろう」
小走りで追い付いた私を見下ろすと、ナキル様はほんの微かに笑って言いました。
今日はナキル様の留学、最終日でした。そのためお友達が主催して、送別会が行われていたのです。その会が終わった後も、ナキル様はお世話になった先生方や学院の関係者にまで律儀に挨拶をして回っていたので、こんな時間になったのです。
「でも一人だと、ちょっと寂しくないですか? 校門まで送りますよ」
私が言うと
「そうか。……感謝する」
グリオール家の若様は、簡潔に答えて頷きました。並んだナキル様と私、どちらからともなく再び歩き出します。
「『断罪』の日からバタバタで……ナキル様の送別会も、何となく忙しくなっちゃいましたね」
まだ一部に瓦礫の残っている学院の景色を眺め、私は話しかけました。
あの一大イベント、『パリス伯爵の断罪祭り ~お仲間の一網打尽と、乙女ゲーム風味の混沌を添えて~』から、早くも一カ月が経過しています。
建物は修理修繕が行われており、学院を囲む石造りの外壁も凄まじい速度で直してはいるものの、完全な修復には至っていません。
そういう状況もあるので、ナキル様の送別会も学院の食堂で軽い立食形式のパーティーが開かれただけでした。ナキル様のごく親しいお友達など、二十名ほどが集まったのです。みんなはもっと盛大にと思っていたそうなのですが、ご本人が遠慮したと聞きました。
「俺は元々、派手な催事はあまり得意ではない。簡素であれば、その方が気楽だ」
ナキル様の手にある赤と白の花束も、何となく居心地が悪そうです。
「じゃあ、今日の送別会くらいで、ちょうど良い感じでした?」
「そうだな……。しかし族長の息子としては、褒められたことではないか」
私が尋ねると、黒獅子獣人さんは苦笑いしていました。
上流階級の人には、他人を楽しませる派手な振る舞いや、感激させる技巧が求められる日もあるのでしょう。朴訥な青年のこの方は、それらが苦手なのです。
「ナキル様らしくて、良いと思いますよ」
そう言った私に、ナキル様は何も答えませんでした。しかしその沈黙は気持ちの良いものでした。そのまま歩いて、道の右手側に薔薇園が見えてきた辺りまで来た時です。
「断罪と言えば……これは、ルカに聞くことではないかもしれないが。……パリス家の処遇について、アマンディーヌ王国の方針は固まったのか? 全員、極刑は回避されたそうだな」
ぽつりと、ナキル様に問いかけられました。私は横で、「はい」と頷きます。
『邪神ソルトと交信して召喚&あわよくば力を手に入れようとしていました(と、現場で本人が自供)』という重罪をしでかした、ディアベラちゃんの極刑が回避されました。フューゼンが八方手を尽くして説得した国王陛下の、寛大な措置です。それによって、パリス一派として捕らえられた人達の刑罰も軽くなったのでした。結果として、死刑の人はいなくなったのです。
「でも、告発合戦がすごいらしくて……裁判で最終的な結論が出るまでは、まだ時間がかかりそうなんですよ。急いでも、半年か一年は先になるんじゃないかって」
フューゼンやマキアムから聞いた話しを、小声でこそりと伝えました。
この世界にも裁判があります。上級裁判とか、下級裁判とかあります。古今東西の裁判と同じで、やはり自白が大事です。でもわかりやすい自白の強要と言うか、エグい拷問などは主流ではありません。証言や記録を集めたりして、努力しています。しかし取り調べの透明性とかは、深く考えない方が良さそうです。
「まぁ、そうなるか……。パリス家と関わっていた者達は、己の身を守るために有る事無い事、告発するだろう。そうなると告発の内容も精査しなければならないからな」
彫りの深い横顔で遠くを見て、ナキル様が言いました。
グリオール家の次期族長という、裁判権に関わる立場の人なので想像はつくのでしょう。
他人の罪を重くして自分が軽くなるのなら、他人に重くなってもらいたいのも人心です。その辺りも考慮して、出来るだけ真実に近付きつつ適切な裁きをしなければならないのですが、これには時間も費用もかかるそうです。ぼやぼやしていて守られるほど、法と正義はお安くないのでした。
「はい。それに今はどうしても邪神の案件が優先なので……しばらくは、みんな塔の牢獄暮らしですね。だけどこの前会った感じだと、ディアベラちゃんも元気そうでしたよ」
「ディアベラに、会いに行ったのか?」
私の報告で、ナキル様がこちらを見ます。
赤紫色の瞳に浮かんだ小さな驚きは、「意外だ」という気配でした。
ディアベラちゃんが収監されている場所は、アマンディーヌ王国の王都にある城の一角です。通常の罪人とは違う、お城の『牢獄の塔』でした。貴族という理由以上に、今回の断罪で通常の牢獄は満員御礼なのです。そのためパリス伯爵をはじめ一定以上の身分がある貴族は、『牢獄』としては長らく使われてこなかった、塔の方へ入れられています。
微かな潮風を頬に受けながら、私は空を見上げました。
「ええーと……最近ちょっと挙動不審で、様子がおかしいから、見に来てほしいって頼まれたんですよねぇ」
先日、『牢獄の塔』で見た光景を思い出すたびに、心が彼方へ旅立ちそうになります……。
「何だと? 様子がおかしい……? ディアベラの様子が、おかしいのか?」
「あ、いえ! …………パティです!」
ハッとして手を振り、険しい表情になったナキル様へ訂正しました。あやふやなことを言って申し訳ありません。心が遠くへ行っていたのが悪いのです。
『挙動が不審になっている』
と、お報せがあった人はディアベラちゃんではありません。もう一人の重罪人、パティでした。
「パトリシア? ……そうか、あの娘も罪の意識に苛まれて苦しんで……」
「逆です。毎日元気いっぱいに、腕立て伏せや懸垂運動をしているんです」
「何があった??」
ナキル様の声のトーンが微妙に上がりました。私も浅く息を吐き、どこからお話しするか悩みます。
「何と言うか……侯爵令嬢の急変に怯えた看守さんからの報せで、一度様子を見てほしいと頼まれて、私が行ったんです。そうしたら……取り憑かれたように、一人で筋トレをしていました」
「ルカ。そのキントレというのは、何かの奥義か?」
「体を鍛えているんです。奥義ではありません」
大真面目な顔でナキル様に尋ねられました。仕方がありません。この異世界『マカローン』には筋トレの概念が無いのです。走り込みをしたり重いものを持ち上げたりして、身体を鍛えることはありますが、戦いなど使用方法は決まっています。
『筋肉そのものを美々しく発達させるのが目的』という発想はありません。
それゆえ見慣れぬ動作を繰り返す元・侯爵令嬢を見て、「何かを召喚する儀式ではないのか!?」と怯えた看守さんその他の報せを受け、戦巫女の私が確認に行ったのです。
「あんな繊細そうな娘が……? 彼女は魔導師ではなかったのか?」
事情を聴いてもナキル様は信じられないようでした。たしかにパティはいかにも陽光を避ける魔導師風というか、深窓の令嬢といった外見でした。あの頃の姿を思い出しているのでしょう。
「あー、きっと今まで引きこもって魔法使い過ぎて、具合悪くなっていたんじゃないですか? ずーっと同じ体勢でいるのって、それだけで体にも頭にも悪いんですよ。パティは衝動的に鍛え始めたそうですけど……充実しているみたいで、めちゃくちゃ明るくなっていましたよ」
「明るくなる……?」
少し下を向いた私の横で、ナキル様は更に怪訝そうな表情になっていました。
パティが入れられていたのは独房で、塔の最上階の、一つ下です。
罪が重い人ほど上階になります。一番上は『悪役令嬢』さんがいます。
そして魔法を封じられ特別室に入れられた、サフォー家の元・侯爵令嬢は
――筋トレを始めてから、人生は最高よ!!
薄暗い牢獄の中で煌めいていました。汗が。
私が会いに行った時点で、すでにキレッキレに仕上がっていました。たった一ヶ月で、あそこまで仕上げてくるとは……思っても、いませんでした……。
「では……牢獄に入ったら、以前よりも元気になったというのか?」
「そうなりますね。人間何が体に良くなるか、わかんないですね」
「日々の時間割は決まっている。そういう意味では、良いのかもしれないが……」
「他にやること無いし、夜更かしも出来ないですもんねぇ」
学院の美しい薔薇園を横に見ながら、私とナキル様はぼそぼそ語り合いました。
天才魔導師の元・侯爵令嬢パトリシアは、投獄されて自由を奪われました。今までのように、好きなだけ魔法の研究に没頭することも、徹夜も出来なくなりました。その結果パティは筋トレを始めて、何故か健康になりつつあるのです。何故だ。
「面会に来た私に『ルカごめんね~! 何かあの時ちょっと頭おかしくなってたみたい~!』って、ものすごいハイテンションで謝ってくれました……。ロビンちゃんのことも『マジで謝罪~! 私って何であんなに思い詰めてたんだろうね? バカみたいで笑っちゃう~!』って……。言われるこっちも、どうしたらいいのか」
牢獄の冷たく厳めしい鉄格子を挟んで、かつての親友にして、一度は戦った相手同士。そんなポップに楽しい謝罪って……あります?
「それは人格が豹変していないか? 大丈夫なのか?」
「う、うーん…………」
不審と心配の両方が混ざったナキル様のご指摘に、私も唸って返事が濁りました。
パティの人格が豹変した理由については、おおむね予想がついています。『転換の神ペッパー』さんが、パティの『前世の記憶』を別の記憶で『上書き』した結果でしょう。もうパティに、『乙女ゲーム』の知識は必要ないという話しでした。そんなパトリシアさんへ神から新たに『上書き』プレゼントされたのは、おそらく何かしら筋トレの知識と経験があり、アグレッシブだった異世界人の記憶と思われます。
別の記憶が過ぎますよ、神いぃーー!
『前世の記憶』を魂に仕込まれることが『運命』だとするならば。パティはどっちにしろ、運命にぎゅるんぎゅるん振り回されています。パティよ、君に自我は無いのですか……?
良いか悪いかはともかく、筋肉は裏切りません。
努力すれば、一定の結果がついてきてくれます。しかも今まで報われない恋に集中し、極度に『暗くて後ろ向き』な女の子だったパティです。『明るく前向き』な達成感や高揚感に、慣れていないのでしょう。ハイテンションの劇薬になっているものと思われます。
失恋には新しい恋と思っていた私は、己の浅はかさを深く恥じています。
とはいえ、あんな一人お祭り騒ぎは、いつまでも続くものではありません。
「パティもそのうち、慣れるんじゃないですか?そうしたら落ち着きますよ」
「それならばいいが……」
その頃には筋肉バッキバキ令嬢になっている気がしますが、悪くはないはずと思うことにしています。自分の限界に挑戦する心意気ってすごいと思います!
「んで、その時に、牢獄の塔でディアベラちゃんにも会ったんです」
私が説明するとナキル様は納得した様子で、「ああ」と軽く相槌を打ちました。
「パリス家は、高位の貴族だ。ある程度の品格を守る扱いはされているんだろう?」
「はい……。ただ、ディアベラちゃんは邪神と直接関わった人なので、超厳重に魔法をかけられた部屋に入れられていました」
特別な許可を得て入れてもらった最上階の部屋。その様子を思い出しつつ私は言いました。
久しぶりに会ったディアベラお嬢様は、金髪が真っ白……ということもなく。独房ではありますが質素な茶色のドレスを着て、椅子に腰かけて本を読んでいました。今までのような、歩くクレイジーリッチとはいきませんけれど。
――あら、一人勝ちの戦巫女様が、高笑いでもしにいらしたの?
上目線の高飛車な態度も健在でした。お元気そうで何よりです。
それでも私が小声で
「例の秘密のノートと長いお手紙、何とかして隠しておきましょうか……?」
と尋ねたら、その時だけは「お、お願いしますう……!」と土下座して可愛らしくなっていました。捕まって以来、お嬢様は一度もお屋敷に帰れていませんからね! この期に及んで、あんなもの誰かに暴露されたら、生き恥どころの騒ぎじゃないですよね!
という感じにディアベラちゃんの現状について、私が(部分的に端折って)お話しすると、ナキル様はどこか憂鬱そうに目を細めていました。
「戦巫女が『邪神ソルト』を倒すまでは……そうなるのも当然だろうな」
淡い吐息と共に呟いていました。横顔からして、彼は伯爵家やディアベラちゃんの断罪を喜んだり、他人事とは思っていないようでした。
グリオール家は、パリス家とは二十年来の不倶戴天な天敵の家柄です。しかし留学していた間に、ナキル様とちょっとは仲良くなっていました『ディアベラお嬢様』です。
本当は、『ちょっと』どころではないっていう……。思い出すと胸が痛んで、私はひっそり目を伏せました。
ナキル様は『禁呪』の『入れ替わり』の件を知りません。今も伏せてあります。
だから私も『ルカ』として、どんな距離感になるんだろうと最初はハラハラしました。『中身お嬢様』だった時のような、ラブりんちょアクセルベタ踏みに追い付ける自信がありませんでした。
が、ナキル様とは普通に『お友達』な感じで過ごしています。多少気が抜けたものの、こじれていないなら良いのです。ナキル様は厳しい一面はあるものの真面目だし、お話ししやすい人です。
仲良く薔薇園でジェラートは食べないけど、お見送りはしますよ!
「ええ、それと……ディアベラちゃんが『国外追放』になったとして……行き先も未定なんです。どこの国も地域も『元・伯爵令嬢』を入れるのを嫌がっていて」
目下、世界最大の懸案は『邪神との戦い』です。これが終わらないと話しになりません。その次の懸案について私が口にすると、黒獅子獣人さんも言いました。
「『邪神に魅入られた娘』だ……。進んで抱え込みたがる者はそういない。ディアベラを悪用しようという不埒者が、出てこないとも限らん」
「そうなんですよね……軽犯罪じゃないし。私も国の外へ放り出して終わりなんて、そんな追放は無理だとは思っていましたけど」
現実の壁の高さと厚さを前に、私も知らず顔を少し顰めました。
ディアベラちゃんの罪状は、食い逃げや落書きではありません。『私は邪神と関わった経験があります』という、ゴツい履歴書のお嬢様です。世間一般には伏せられていますが、ディアベラちゃんの『邪神召喚』は、すでに知る人には知れ渡っています。
なので、みんな「こっち来ないでえええぇ!」と言います。
ディアベラちゃんを悪用する人や、内通者とかが出てくることも考えられますので、監視も必要。『悪党パリス家の娘』ですから、正義の名の下に誰かに殺される危険もあります。そこを防ぐ手段だって必要です。
そんな部分にパワーやマネーなんか誰も使いたくありません。
政治犯や凶悪犯が昔から、『極刑一択』になってしまったのも仕方ないでしょう。王太子殿下も王様の説得には猛烈に苦労したようで…………ごめんね! そのうちジェラートごちそうするから許して! と言ったら、「いらない」と無表情で言われました。ご、ごめんフューゼン……。
「通常であれば、今のまま幽閉してしまうところだ。無人島を流刑地にして、そこへ送るしかないのではないか? だが監視の目が届く範囲となると、それも難しそうだな」
黒獅子の若殿から、常識的なご意見をいただきました。その通りだと思います。
ちなみにこの世界で、幽閉と終身刑は違います。
終身刑は、『一生かけて牢獄で懲らしめられていなさい』です。幽閉は、『餓死や病死するまで放置。もしくは酒浸りや毒とかでSA・TSU・GA・I』です。
それよりも優しいのが『流刑』や『追放』ですが
「うんー、無人島に追放はちょっと……。出来れば、パン屋さんの出来る場所が良いんですよね」
歩きながら腕を組んで、私は本音を打ち明けました。
正面を見ていたナキル様が、斜め下のこちらを見ました。褐色の精悍な顔立ちには、珍妙な生命体を見たような表情が浮かんでいました。
「……そんな場所では、追放刑にならないだろう? 強制の労役を課すとしても、通常ならば鉱山の採掘場などで働かせるものだ」
「そ、そこはわかっています! だけどディアベラちゃんだけでも、どうにかならないかと思って考えているんです。何か、イイ感じに……アイディア無いですか、ナキル様?」
私は両のこぶしを握り、相談を持ちかけました。無理を言っているのは百も承知です。ナキル様は、少し困ったように眉根を寄せていました。
「そう言われてもな……不可能ではないのか? まず『パン屋』というのは、どういうこだわりなんだ?」
「長い事情があるんです!」
「長い事情……?」
誰にも言えない、『戦巫女』と『悪役令嬢』の、長い事情です!
当然想像つかないでしょうナキル様は、眉間の皺と一緒に当惑も深めているようでした。
私も王国にこれ以上のワガママは言えません。そもそもお嬢様は最も当選確率の低い賭けに入れ込んで、当たった後の事ばかり考えて目の前にある現実を直視していなかったのです。お嬢様の責任です。
……ですけれども。
可能な限り、伯爵令嬢ディアベラ・パリスが心に思い描いていた『エンディング後』に、近付けてあげたいのです。彼女なりに『悪役令嬢』としてこれまでがんばったのです。がんばる方向とか全部おかしかったのは、まぁ一回くらい見逃すよ!
思い悩む私の横で、ナキル様が息を吐きました。
「俺には思いつかないな……。しかしもしルカの方で何かあれば、出来るだけのことはしよう。どれだけ沿えるかは、ともかくな」
そこには小さく和やかな笑みがありました。
「わ、いえ、ありがとうございます! 当てにしますね! 当てにしますね!」
「そこまで期待されるのも困るが……」
半ば冗談で身を乗り出した私に、若殿は灰色の髪の下で完全に弱った顔をしていました。どこまでも正直な人だと思いました。
こんなお喋りをしているうちに学校の正門が近付いていて、門の向こうには馬車が停まっていました。
「ルカ、見送りはここまでで良い。充分だ」
「あ、そうですか? それじゃ……」
門の少し手前でそう言うとナキル様は立ち止まり、ふと彼方を眺めました。
学院の門の向こう、視線の先にはマフィン島の美しい街並みと、更にその向こうには輝く青い海。そして遥か水平線には、これまで無かった黒い島影がありました。
「ここからは……『カヌレ島』が、よく見えるな」
「そうですね。今日は天気もいいから余計に……」
灰色の髪を風に吹かれるナキル様の言葉で、私も彼方へ目をやりました。
アマンディーヌ王国とクグロフ国の間にある海域には、大小の島々が存在しています。ダックワーズ学院のあるマフィン島も、そこに浮かぶうちの一つです。
最近、マフィン島からほど近い海域に、新たな島が現れました。
『邪なる神ソルト』の力によって出現した島です。
『邪なる聖域・カヌレ島』。あの島が出現することは、神々の均衡が崩れることや、戦巫女の召喚と同様に予言されていたそうです。あの島は『邪神』の拠点で魔の支配領域であり、俗に言うラストダンジョンなのです。
私と守護者仲間たちは、これから十日後。あちらへ乗り込んで邪神を殴ってくる予定です。周辺の防衛は騎士団や魔導士さんたちなどが担当するので、私たちは少数精鋭の特殊任務といったところでしょうか。
「……世界存亡の分水嶺にいるというのに、ルカ達に任せて俺だけがこの地を後にするのは、逃げるようで気が引けるな」
遠くに霞む島を見つめ、ナキル様が呟きました。
元々決まっていた留学期間です。気にしなくても良いと思うのですが、戦士気質のこの人は居合わせないことそのものが悔しいのでしょう。言葉からはそんな気配を感じました。
「それは違いますよナキル様。私たちが邪神を倒しても、戻った『日常』が運営出来なくなっていたら困るじゃないですか。フューゼンも言っていましたけど、スフレ領の辺りの安定や国交の正常化へについては、それこそタイミングが大事でしょ? 今のうちからナキル様に、下準備や根回しをお願いするしかないんですよ」
そう言った私の方へ向き直った黒獅子の若様は、不思議そうな顔をしていました。
「ルカはそういったことにも詳しかったのか」
「え、詳しいというほどでは……普通じゃありません?」
一般常識の範囲しか知りません。私が首をかしげると、若殿はそれ以上は言いませんでした。
そして
「これからは、日常的に顔を合わせることもない。戦巫女と仲間たちに、『正なる神シュガー』の加護と、武運があることを祈っている」
ナキル様から改めて、右手を差し出されました。
作法がわからないので、私が様子を見ながらおそるおそる握手をすると、正解だったようです。大きな手が握り返してくれました。痛くない程度に。
「ナキル様も、どうぞお元気で! 全部終わったら、またお会いしましょうね」
微笑んだ私を見て、黒獅子獣人さんが真顔になりました。
「ルカ…………最後に一つだけ、確かめたいことがある」
と、手を握ったまま、躊躇いがちに語りかけてきました。
放課後の正門付近に他の人はおらず、私とナキル様の二人だけです。風は静かで、陽射しまでもが淡い金色に霞んでいます。
――ん……? 何だろう、この緊張と伝わるドキドキ感と、切なげな空気は……?
そう思って眺めているうちに、ある特殊な言葉が脳裏で閃きました。私の中で、銅鑼がジャーン! と鳴り響きました。以前、『悪役令嬢』さんが言っていたのです。
『ナキルのお別れイベントを、まだやっていない』と……! ジャアアアアーーーーン!
たしか留学が終わるときに、「一緒に来てくれ」と言われるという話しだったような? え、でもそれは、『ナキル様ルート』のときのストーリーでは……?
「どうか嘘偽りなく、答えてほしい。もし俺の一方的な思い込みであったなら……その恥まで受け入れる」
「ふげ……っ!?」
私が脳内の混乱を膨らませている間にも、若殿様に真剣そのものな眼差しで申し出られて、堪えきれずに吹きました。
ここしばらく守護者仲間たちから『入れ替わっていた』件で、セクハラをされている私です。ディアベラお嬢様のヒロイン行為のお陰で、「これくらいはやっていた」とか言われて迷惑しています。
お触りし放題なんて私は許可していない!
それに『ルカ』が「おばけが怖い」と言い出して添い寝してもらっていたのは、さすがに嘘でしょ! ……嘘でしょ?
という、そっち系の対策にも追われていました。対ナキル様方面の防衛は、おろそかになっていたのです。多方面作戦は限度があるの!
「な……な、なな、何でしょう……? ……ち、ちなみにですね! 私はまだ戦巫女のお仕事が残っているのと、これでも一応は王国の男爵で、勝手に移動するわけには……」
握手を通じてドキドキ感が伝染してくるみたいで、こちらまで呂律もあやしくなりつつ申し上げました。私はナキル様を尊敬していますしお友達でいたいです、っていうコレは真実である一方、伝えたら一番関係が微妙に気まずくなる言い訳で、こんな時はどうしたら……! と思っていると。
「何だかわからないが、移動の要求はしない」
「え?」
綺麗な赤紫色の瞳で私を見つめたナキル様が、低い声で言いました。
「俺が知りたいことは、一つだけだ」