第46話 ルカのはなし・王太子殿下とリターンマッチ 前編
お父様と美女の不倫現場を目に焼き付けてから、一週間が過ぎました。
私は中庭にある噴水の傍に腰掛けて、詩集を読んでいました。少し離れた場所ではいつも通り、メイド服姿のロビンちゃんが控えています。
本日はパリス伯爵のお屋敷を訪れるお客様も、午前中だけでした。
なので午後からは静かで、何ということもない穏やかな昼下がりでした。
でも蜂蜜色の金髪をしたお嬢様たる、私の心はハリケーンです。
クロードお父様と、フォーサ公爵夫人のリリアナ様が愛人関係でした。
典医であるセシル先生と、カーミラお母様みたいな関係と想像されます。
元々クロードお父様は、先代お后様のティアイエル様の愛人になってのし上がったほどの男性です。甘い囁きと魅惑のテクニックで、うら若き美貌の公爵夫人が、ぺろぺろにコロコロされたとして不思議はなさそうです。異世界人の私には正直わかりませんが、そういう世界みたいですし……。
愛人だとすると、リリアナ様はクーデターの協力者でもあるかもしれません。公爵夫人という身分があれば、王宮の内部にも精通しているはずで、情報提供も出来ます。クロード様にとって好都合な存在です。便利です。
お父様の計画と準備は、着々と進んでいる……ということは、もう時間がないです。
それに街角で目撃したあの事実をジェラート一つで、いつまでも口止め出来るわけがないのは、私もわかっています。
――ごちゃごちゃ言ってられない。明日……明日、フューゼンに話そう!
王家の人間関係とか、めちゃくちゃになるでしょう。でも王家暗殺だとか革命だとかが発生して、ゆくゆくは『乙女ゲーム』のシナリオまで、全部がひっくり返ってしまうよりはマシだと思います。
フューゼンは沈着冷静な王子様ですから、プレゼンテーションの準備をして、利害の説明とかもきちんとすれば、きっとわかってくれるんじゃないでしょうか。
まぁ以前、鉱石マニアなフューゼンの長い地層談義で、守護者仲間たちが次々と撃沈していく中、戦巫女一人が耐え抜いたりした事案もあったので、完全に冷静かどうかは若干怪しいですけど……人間だしね。
と、私が決意を固めたとき、屋敷の人々と気配が急にバタバタし始めたのです。
「お嬢様、大変です……!」
ロビンちゃんの呼びかけで、私は詩集から顔を上げました。
万能の執事さんのミントグリーンの瞳は、白いテラスを見ています。
薄暗い屋敷の中から現れたその人が誰かわかった私も、手にしていた詩集を置き慌てて立ち上がりました。
「え……殿下!?」
陽射しがこぼれる噴水の中庭へやって来たのは、当の王太子殿下フューゼンでした。
黒髪に翡翠の瞳の王子さまは、お供も連れていません。物理、魔法共にバランスおかしいくらい強いので、日頃から護衛は連れ歩かない人だから平常運転です。でもダックワーズ学院内ならまだしも、ここはパリス伯爵のお屋敷です。
クーデターの準備も大詰めなのですよ! 暗殺されたらどうすんですか、余裕ぶちかましすぎイ……!
「殿下、お出迎えもせずに申し訳ございません……!」
「いや、気を使わないでくれ。事前の連絡もなしに押しかけたのは僕の方だ」
噴水の傍にいた私の元へ、王太子殿下は颯爽とした足取りで近付いてきました。右手には彼に不似合いな、何か大きな封筒を持っています。
「お茶のご用意だけでも」
「あまり長居をするつもりはないから、その必要はない」
こちらの申し出にも、悠然とした雰囲気を揺るがせない王太子殿下は、さっと軽く手を振ります。私が目配せをするとロビンちゃんは一礼を残し、その場を離れていきました。
穏やかな光りに包まれた美しい中庭には、婚約者の二人が残されて。
「殿下がお越しになるなんて、お珍しいですわね。何か急ぎのご用がございまして?」
私はディアベラお嬢様として、蜂蜜色の髪をふんわりと揺らし微笑みかけました。
内心、『助けてええええ! 脱出したいいいい!!』と叫んでいたなんて見えなかったでしょう、ええ。
「要件は二つあるが……まずは君に、これを渡そう」
そう言って、フューゼンは持っていた封筒を差し出しました。
受け取ると、ずっしりと重みのある包みで、本でも入っているのかと思いました。
「これは……?」
「君から送られた手紙だ」
告げられたフューゼンの言葉で、ズギャアアン! と衝撃音が脳内に響いた気がしました。
ディアベラお嬢様が、許嫁の王太子殿下に送り付けたお手紙でした。二六四ページあると聞いていましたけど、思っていたより分厚……! 大長編……! 存在感が重い……ッ!
「この前、『無かった事に』と言われたが……僕が処分するのも違う気がした。どうするか迷ったが、君に直接返す方が良いと考えて、持ってくる事にした」
「ま、まぁ……こんなことでわざわざ殿下にご足労頂くなんて、大変、心苦しい……ですわッ!」
フューゼンの親切に震える私は色んな意味で重い封筒を、そっと傍らへ置きました。
この機密文書は、後でお嬢様のお部屋の秘密の引き出しに封印しようと思いました。
とそこで、このシチュエーションが意外と悪くないと気付きました。
ついさっきまで脱出したいとしか思いませんでしたが、周囲には他に誰もいません。
(今なら、フューゼンと二人きりで話せる……! クーデターの件を伝えるチャンス……!?)
そう思いながら振り向きました。
が、どこからどう切り出しても、激辛ハバネロ地獄で味覚が吹き飛ぶ感じに痛みを伴う危険な話題です。
私が一瞬迷っているうちに
「そういえばこの前……皆とパン作りをしたそうだな? 僕も呼んで欲しかった」
思い出した感じで、フューゼンが言いました。
ディアベラお嬢様が、他の守護者三人とパンを作ったときのことを、彼らに聞いていたみたいです。
貴様とパン作りなんて恐ろしいこと出来るかーー! ……という本音の代わりに、麗しの伯爵令嬢は薄桃色の唇で優美な弧を描き、悪戯っぽく笑って誤魔化すことにしました。
「あら、殿下はそんなにパンがお好きでしたかしら?」
でもそんな天使の如き微笑にも、完璧王太子殿下はびくともしません。
「君なら知っているのではないのか?」
何気ない風に尋ね返して、翡翠の瞳が婚約者を見下ろしてきました。
「君は子供の頃から……僕よりも、僕のことを知っている顔をするときがあっただろう?」
どこか怜悧な光を宿した瞳が、こちらを映して言ったのです。
「……え? そ、そんな、わたくしなどが存じ上げている殿下のことなんて、ホンの少しで……!」
見つめられた私は首を横に振り、控えめに、且つ引き気味で申し上げました。
実際に、中身はただの異世界人で庶民な私です。知り合って一年ちょっとの王太子の生活や、詳細なんか知りませんし想像もつきません。結構必死だったのに。
「手紙を読んだときも、そう感じた。君は何かを知っていて、これを書いたのではないのか?」
フューゼンは、更に続けてそう言いました。王子様が言う『これ』とは、分厚いお手紙のことです。
「な、何かというのは……」
「手紙に、『婚約破棄』と書いてあっただろう?」
「いえ、ですから、そ、それは……!」
「昔から、僕も予感のようなものはあった」
「よ、予感……?」
思いがけない言葉で顔を上げた私へ
「婚約者として、城で初めて紹介された時から……何故か分からないが、君とは結ばれないような気がしていた」
生きている人間で最上級と言われる端正な顔が、声を低くして呟きました。
その通りですよ。
悪役令嬢と王太子殿下は結ばれないんですよ、勘が冴え渡ってるじゃないですかフューゼン……。
それにしても『予感』て何。
この二人が許嫁にして婚約者になったのは、たしか六歳の時です。当時からフューゼンにも、『婚約破棄』の予感があったのですか?ディアベラちゃんみたいな、前世の記憶があるようには見えないけど……。
(こ、怖い……何か、物凄く怖いことが起ころうとしている……?)
その場で凍り付き、密かに戦慄していた私へ
「まるで、人生を誰かに決められているみたいだ」
中庭で風がそよ吹き、フューゼンの翡翠色の眼差しがこちらを捉えています。
――こ……この人、何かに気が付きかけているんじゃないの……!?
私は王子様を見上げすぎて、そろそろ首が痛くなってきていました。
そこは我慢する。今は我慢しますが、まずこの絶妙な疑いと状況を除去しないと命の危険が……!
「い、いいえ、殿下! あ……あの! わたくしが無礼なものをお送りしてしまったせいで、殿下のお心をわずらわせてしまいましたこと、本当に申し訳なく思っておりますわ!」
「ああ……心がいっぱいになっていたとかいう?」
「はい! そうなんですの! 人生には時々そういう日もありますから! ディアベラの気の迷いとして、どうかお忘れに……!」
火消しになってるんだか、なってないんだか。わからないけど、とにかく言い訳を並べていた私が言い終わる寸前でした。
フューゼンに、くいっと腕を引き寄せられて。
「え? ひゃ……っ!」
次の瞬間には、腰に手が回って抱き締められていました。
フューゼンの顔は見えなくなってしまいます。代わりに、蜂蜜色の髪に顔を埋めるくぐもった声が耳元で聞こえました。
「僕に、何か……秘密があるんじゃないのか?」
拗ねたような口調で呟いています。彼の右手が、髪に触れている感触が伝わってきて。
「え? え……わ、わたくし何も、殿下に隠し事なんて……!」
フューゼンの長い腕と、独特なハーブに似た匂いに包まれ、釈明しかけた口を噤みました。
してます。隠し事しまくっています……!
(で、でも別に『婚約者』が、心変わりだとかいう話しでは……って、ああああ! 本体が、ナキル様にヨロめいているんだったああーー!)
(となると、どっち道この人に非常な隠し事をしていることになるのでは、ああああああッ!)
一人で大混乱していましたら。
「少なくとも君は、今までそんな目で僕を見なかった」
腕の力を解き、金の髪の美少女を見つめて語るフューゼンは、誰かを探すような目をしているのです。翡翠の瞳から視線をそらせなくなってしまいました。
私はフューゼンをただの完璧王太子で、余裕ぶちかまし野郎だと思っていたのです。でも、違う気がしてきました。
(こ、この人もしかして、婚約者のディアベラちゃんが、本気で好きなんじゃないの……?)
(それで手紙を気にしたり、ナキル様が絡むとヤキモチ焼いたりしているんじゃ……?)
(これが伝説の三角関係……!? ディアベラちゃんとナキル様とフューゼンで、三角関係ですか!?)
い、言えない……。ガチ恋してる婚約者が隣国の若君に傾いていて、しかも近々『邪なる神』と交信して全人類を裏切るなんて、この人に絶対言えません……!
(パーフェクトだった自分の人生にこんなことが起こるなんて、絶対思ってなかったよね?)
(ショック半端ないでしょ! 結構フューゼンて、可哀そうなポジションなんじゃないの!?)
(何かごめんなさいいーー! 何もしてあげられなくて、ごめんねフューゼンー……!)
噴水の華が咲く中庭で王太子殿下と睨めっこしながら、お嬢様と中身別人の私は深く懺悔しました。それから考え直しました。
今、クーデターについて直接話すのは危険すぎます。パリス伯爵家が皆殺しになってしまう気がします。せめて手紙とか、別のルートで伝えるべきです。
乙女ゲーム的にも現時点では、王太子殿下と伯爵令嬢の婚約は、揺るぎないものであるべきだと! 私は! 思います!!
「僕のことを、そんな憐れむような目で見たりはしなかったはずだ。僕をそういう目で見る人は……」
「で、殿下! わたくし殿下を愛しておりますわ! だから、あの! それ以上は仰らないでくださいませーーッ!」
言いかけた彼に抱きついたら、胸に軽く、どむッ! と頭突きみたいになりました。
お嬢様らしくない、「あう」と変な声が出てしまいました。おそるおそる見上げると、そこにはいつも通りの冷静な、でも拍子抜けしたような様子のフューゼンがいました。
「……ずるくないか?」
そう囁いた彼が、私の顔を覗き込んで小さく笑いました。
そしてそのまま、唇が重なっていました。