自動人形の夜 1
ぬるま湯だが、長く浸かっていたので、身体も暖まっている。風呂と違い湯温が冷めることがないのが、温泉の利点の一つだ。
外気にさらされた肌からもうもうと湯気が立ち上る。
「あ」
そこで、はたと気がついた。
タオルを持っていない。
忘れかけていたが、服もないのだ。
なるほど、つまり、ルルが戻って来るまで、ここで待たないといけないわけだ。
いくらぬるま湯とはいえ、さすがに長湯しているとのぼせてくるし、そろそろ上がりたい……と、秋空にため息をついたところ、
タイミング良くルルが空を飛んで戻ってきた。
長い黒髪を揺らしながら、無表情で青空を滑空している。
「なんで飛んでるの……?」
涼しげな顔で、少女は羽織った黒いローブをはためかせ、宙を浮いていた。エセ超能力者の空中浮遊のようだ。
羽とかは生えていないし、翼で風を切るような動作も特になく、いたって普通の立ち姿のまま、少女は温泉の前の岩場に着地した。
「真面目に頑張ってきたから」
端的にそう告げて、細くしなやかな足を地面につける。
そんなんで空を飛べるようになるなら、日本人はほとんどが舞空術を会得できることになってしまう。
突っ込むのも野暮と判断し、「おかえりなさい」とだけ、労をねぎらう。
ルルはゆっくり頷くと、手に持った皮袋から服を取り出した。
「買ってきた」
「おおー、ありが……」
黒タイツだった。柄と装備がないダイビングスーツのようだった。
「もっとましなのなかったの……」
「私はこれが一番ハイセンスだと思った」
「なかなか鋭い感性してるね」
確かに未来感はある。一億年後ぐらいの流行服なのだろうか。行き詰まったサブカルファッションって感じだ。
「ん」
「ああ、どうも」
タオルを受けとる。
ともあれ、せっかく買ってきてくれたので、タオルで水気を取ってから、袖を通す。
「オーナー、格好どうしたの?」
「どうしたもこうしたもないよ。キミが買ってきたんだろ」
殺人犯のコスプレみたいになった。
煽っているのだとしたら、彼女はなかなか面の皮が厚い。
「そうじゃなくて容姿の話」
ルルは懐から手鏡を取りだし、突きつけてきた。
「え?」
写りこむ他人の顔。
澄んだ双眸に、スッと通った鼻筋。
鏡には先ほど別れた少年、サワムラくんが写し出されていた。
「な、なんで、」
頬に手を当てると鏡像もそれに従い、顎を撫でた。間違いなく写っているのはサワムラくんだ。
「どういうことだ……」
鏡に写る端整な少年も、同じように唇を震わせている。
血の気が引いた。自分が自分でないというのが、ここまで恐怖とは思わなかった。
「もしかして、さっき会ったの? その人に」
「ああ、会ったけど、……」
「わかった。きっとシェイプシフターの変身能力」
ルルは手のひらを打ち付けると、人差し指を一本たてて、続けた。
「シェイプシフターの生態に詳しくはないので、これは憶測だけど、粘膜接触による遺伝情報の解析が能力発動に必要なプロセスと思われる」
「どういうこと?」
「セックスしたりキスしたり。そういうことを相手と行うことによって、遺伝情報を交換し、変身可能になると考えられる」
「え……」
この子、突然なに言い始めたの。
ドン引きの視線で見ていたら、ルルは意に介した様子もなく温泉を指差した。
「あるいは温泉を通じて汗の交換をした、とか」
「なんだよ、それ……」
なんにせよ、なんかちょっとだけ汚い話だ。
とんでもファンタジーに汚染されるのはよそう。考えるだけ億劫だ。
髪をタオルで吹き、水気を取る。
温泉で温まった体が徐々に冷めていくのがわかった。空を見ればすっかりオレンジ色だ。
夕暮れの彼方から、足音もたてずに夜がゆっくりと近付いて来ていた。
いまさら容姿がどうなろうと気にする必要もない。
だってここは山奥で、使命をもった勇者でもない限り、わざわざ訪れることなんてないのだから。
着替え終わって伸びをすると、間接がポキポキと音をたてた。
山が落とす影が伸びていく。いつの間にか夜虫が鳴き始めていた。
震えが起こった。少しずつ寒くなっていく。
西の空には一番星が浮かんでいた。
「……いまふと気づいたんだけど……」
発言を受けて、ルルが少しだけ首を捻る。
「夜、どうしよう」
野宿は避けたい。
なぜなら虫がいるから。それに寒いし、暴漢に襲われるかもしれない。
昔、本当にお金もなく、住む場所も決まっていなかったころ、ネカフェに泊まることもできなくなったので、新宿でホームレスをしたことがある。酩酊した人々の怒号のなか、安眠なんて出来るはずがなかった。
行き当たりばったりなのはあの頃から変わらない。
ルルはなにも言わずに親指をグッと立てた。
「……なに?」
「まかせて」
「は?」
「買ってきた」
ローブから、謎の円形の物体を取り出し、地面に放る。
「テント。これで今夜も安眠できる」
結局野宿じゃねぇか。
テントの組み立ては始めてだったが、ルルはテキパキと動き、日が暮れる前にはすっかり出来上がっていた。
一畳半ほどのスペースだが、足を伸ばすことができ、寛ぐには十分だった。サワムラくんがチビで助かった。
突っ込むのも野暮と思い、あえてスルーしてたが、ルルの懐はまるで四次元ポケットだ。
質量を無視した物が出てくるので驚きである。
贅沢なことに寝袋まで用意をしてくれていた。
これなら確かに安眠できる。
寝床の確保ができたら、お腹が鳴った。シェイプシフターという生物は、生に対して希薄な存在なのは間違いなさそうだが、生きているのは事実らしい。
空腹ほど辛いものはない。
腹の虫を鎮める手段もなしに途方にくれていたら、無言で親指を立てるルルと目があった。
まさか。
「買っておいた」
そう言うと、懐からバームクーヘンを取り出した。
「……ありがとう。デモなんでバームクーヘン? 口の中がパッサパサにな」
「あと牛乳」
察しが良すぎて怖い。
「風呂上がりにはこれを飲むのが文化とデータにある」
瓶の牛乳を差し出される。
「ああ、どうも」
お礼を言って受け取って喉を潤す。甘味があって美味しい。
小学校の給食以来だが、郷愁的にはならなかった。
サワムラくんが残してくれた薪で温まりながら、夜を過ごす。
手に持ったホットミルクが寒気を追い払ってくれた。
煙が夜空に上っていくのを眺めながら、ぼんやりするのは言葉にできないほど癒される時間だった。枝がパチリと弾ける音が響く。最高のリラクゼーション空間だった。
ルルが日が暮れるまえに森で枯れ枝を集めてくれたので、しばらくは火が消える心配はない。本当に行き届いた配慮ができる女の子だ。
結局彼女は何者なのだろう。
間違いなく初対面だが、初めて会った気がしない。矛盾しているようだが、自分でもなぜそう思うのかわからないのだ。
じっと横顔を見ていたら、視線に気づいたのか、ルルはこちらを横目で見てきた。
あわてて目の前の薪に視線を落とす。
火、というのは良いものだ。東京で見る炎といえばコンロの青い炎ぐらいなもんで、統率のとれていない野生の炎を見るのは本当に久しぶりだった。
夜空には数えきれないぐらいの星が瞬いている。
およそ都会で見るものではなく、天ノ川までくっきりと見えた。
「なあ、ここは地球じゃないんだよな」
「うん。天球と便宜的に呼ばれている。地球とは十六光年ほどの距離があり、宇宙規模で考えるとものすごく近い」
「近いか?」
改めて空を見上げる。あのどれか一つが地球なのかもしれない。途方もない話だ。知ってる星座は一個も無かった。元々オリオン座ぐらいしか知らないが、星の数が多過ぎて適当に線を引けば何かしらの動物になりそうだった。
これだけたくさん数があるなら、星座になるのも寂しくなかったな。
なんていまさら後悔してみても、もう二度と神様に会う機会なんて無さそうだから、与えられた人生を今度こそしっかり歩もうと覚悟を決める。
眠くなったので、寝袋に入る。
ルルは薄く微笑んで薪の処理などをしてくれた。こんなに表情豊かな子がロボットなわけないな、と再認識した。
夢を見た。
正確には前世の記憶だ。
母が「気色悪い」と言って、ヒステリックに叫びながら頭を叩いてきた。痛くて涙が出そうになったが、グッと我慢した。泣くと余計に叩かれるなら。そんなことを繰り返していたら、泣き方を忘れてしまった。