2−5 『浮かぶ風船』
水が尽きたところでそんな雑談タイムもお開きとなり、地図をテーブルに広げて、次の行き先に関する話し合いへと移った。
さしあたって、この建物の二、三階に、いくつか店が入っているようだったので、そこへ向かうことになる。実際に何か買おうとは秀一は思わないが、響子はキラキラと目を輝かせていた。
食堂から廊下、その先の階段と歩を進め、二階へと移る。
先ほどまでは、男女の比率にそこまでの偏りはなかったのだが、ここまでくると明らかに女が多くなってくる。右手の小物屋など、もはや男の姿が見えない状態だった。
前を歩く女子中学生風が、二階のフローリングに入ったあたりで足を滑らせたので、響子に気をつけるように言っておく。
彼氏らしい少年に少女が起こされるのを見ながら、とりあえず廊下の中央まで歩き、本格的に、店の情報を得ようと目を光らせた。
するとすぐに、見覚えのある集団がわーきゃーはしゃいでいるのが目に止まる。
茶色い髪が目立つその集団は、秀一のクラスメートたちだった。
住野千秋のグループ。先週、教室で耳にした通り、やはり来ていたか。
秀一がそのまま見つめていると、当然、隣の響子も気づく。
「あの集団、学校で見たことあるわね。あなたのクラスメートたち?」
「うん。クラスメートって言っても、話したこともないんだけどね」
指を向けて言う彼女に秀一は卑屈に返すが、案の定無視された。
「千秋ちゃん」と響子は続ける。
「知ってるんだ。あれ、一年の時とか、同じクラスだった?」
視線の先では、キーホルダーを前にしてあーだこーだと仲間と指摘しあう姿がある。これだけ見ると、たしかに、人当たりの良さが評価を受けているというのも納得だ。
響子とは正反対だな、と秀一は思う。
それと同じ光景を見ながら、響子は「いいえ」と首を振った。
「彼女、可愛いじゃない? だから覚えてるのよ。有名人だし、自然と耳に入ることもあるわ」
「へぇ。あ、でも、俺はそんなにあの娘のこと聞かないかなぁ。同じクラスじゃなかったら知らなかったかもしれない」
「あなたはわたしの彼氏なんだからそれでいいの」
「あー、うん」
そういう傲慢な物言いが、意外と恥ずかしいんだけどな。
ていうか、金曜の夜はあんなこと言ってたくせに、浮気させる気は微塵もないらしい。
秀一は照れ隠しにボーッと、目の焦点をボカす。たちまち、視界の住野千秋はぼやけてしまった。
そう。同じクラスじゃなかったら、そうだったろうと思う。ただ、現状は大きく違った。
秀一が、今日ドリームワールドを訪れることを選んだのは、住野千秋たちのグループが訪れることを知っていたからだ。先週、彼女たちが席の近くで計画を立てる姿を、偶然、覚えていた。
秀一の中では、あの漫画を彼女が書いたというのは未だに半信半疑。考えた結果、むしろ、別人のノートが引き出しに入り込んでいた可能性すら疑うようになっている。
本当に住野千秋が書いたのか。それを知るためには、観察が必要だと思った。そして、ほとんど関わりのない秀一が、彼女の休日の姿を見ることができる最大のチャンスが、今だ。
そんなことを知ってどうするのかなんてことは全く考えていない。一体自分は、あの漫画ノートの持ち主に何を求めているのか。
ライバルなのか? それとも同志か? 正直、秀一自身にもはっきりしなかった。
ただ、動機が曖昧でも、一度始めてしまえば納得いくまで続けるのが、秀一の性分だ。最低でも持ち主の正体がはっきりするまでは止まる気がない。完璧主義が悪い方向に向かった一例だと言える。
と言っても、あくまでも今日は、カノジョとのデートの『ついで』だ。
それはそうだ。恋人と、ほとんど関わりのない女を天秤にかけて、後者をとる男などいないだろう。いくら好奇心が疼いても、優先すべきものは明らかだった。
とりあえず今は、『さらに持ち主には思えなくなった』という結果が得られただけでも万々歳としておこう。
「俺、あの集団苦手だから、あっちから行こう」
正面の店には住野千秋のグループがいるので、秀一はそれを避けるように右側の小物屋を指差す。
実際、あのグループに目をつけられてもいいことはないし、別段話すこともない。響子の方も興味なさそうなので、なおさらだ。
「お前、漫画描いてんの?」なんて聞ければ手っ取り早く疑問は解消するのだろうが、あいにくと、秀一と住野千秋の間柄はそんな気軽さとはほど遠かった。
小物屋に入り、響子が、マスコットキャラクターのキーホルダーなどを物色する様子を、隣で眺める。
秀一にとっては、『夢の泡』に手足が生えたような謎のキャラクターより、自身の恋人の方がよほど目にしていて楽しかった。
買い物自体は、響子が何度か質問してきて、それに答えているうちに手早く終了。色違いのものを一つずつ購入し、店を出る。
「アキチー、無理だって! もうやめとこ?」
「まだまだぁ! もうちょっとで取れそうだし!」
店の外は、住野千秋のグループが中心となってざわついていて「なにやってんだ、アイツら」と秀一は首を傾げる。響子は楽しげな表情で肩をすくめた。
通り過ぎる客の注目を浴びながら、住野千秋は落ち着く気配がない。原因はすぐにわかった。
風船が、天井に浮かんでいるのだ。そばには、泣いている小さな女の子。
おそらく、住野千秋は、あれを取ってあげようとしているのだろう。性格的にありえそうな話だった。
ただ、グループの女子は乗り気ではないようで、仕草は普通だが、目つきからは不機嫌な感情を読み取れる。
それには、住野千秋は気がついていないらしい。
明るい振る舞いで誤魔化せてはいるが、基本的には、彼女も疎まれる側の存在なのだ。
とはいいつつも、グループの女子の言い分も間違ってはいないのだ。
もうちょっとと言いながらも天井は高く、住野千秋のジャンプは風船の紐に届く気配もないのだから。
女の子もそれは理解しているようで、「おねーちゃん、もういいから」とベソをかいている。
「おねーさんが取ってあげるわ」
そんな状況に入り込み、肩を震わせる女の子に言い放ったのは、誰であろう響子だった。
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