1−2 『ガール』
「あー、響子? なんだ、その、もしかしたら母さんが何か妙なこと言ったかもしれないけど、あれは忘れて……『あんな楽しい話、わたしが忘れるわけないじゃない』……ッスよね」
自室へと続く階段を上りながらしどろもどろに誤魔化そうとするが、電話越しの、若干ノイズがかった響子の声が即座に拒否を表明してきた。もっとも、秀一もそれは予想していて、本気で自分が望む結果をもらえるとは思っていない。
そのため、ため息とともに肩を落とすだけでそれ以上粘る姿勢はとらなかった。
『そんなことより、あなた、今何してた?』
「……………………別に、特になんにも」
矜持に関わる事柄を『そんなこと』と流されてしまい、秀一がショックを受けていると、階段が終了して二階に到達した。そのまま部屋のベッドに転がり込む。季節柄か、表面はほんのりと暖かく、心地よかった。
『今の間はなによ?』
「間? 間なんてあった?」
言いながら、正直苦しい切り返しだと秀一は自覚している。別に今さら気にする間柄でもないが、進んで言いたいことではないのでどうしても歯切れが悪くなるのだった。
『ますます怪しいわね。他の女の影? というか、気配を感じるわ』
電話越しの響子の声が半音ほど低くなる。部屋でニヤニヤ笑いを浮かべているのを、秀一は容易に想像することができた。いつも彼女を相手にするとこの調子で、簡単に主導権を奪われてしまう。普段の気の強そうな顔とは裏腹に、かなり悪戯好きなところのある女性だった。
ただ、このまま何も言わない選択肢はないので、一先ずは疑いを晴らすべく頭を働かせる。それが相手の思う壺なのだとしても、嫌な感じはしなかった。
「さっき母さんと話してたでしょ? さすがに親がいる時に浮気に励んだりしないって」
親と電話をしている姿は見ていたので、スッと言葉が出てきた。
実際、あの親にはバレたらマズイことが多すぎる。浮気とは言わずとも、家庭内のちょっとした事件が次の日にはお隣さんに知られているレベルで口が軽いのだ。
秀一にとっては、最も身近に警戒すべき相手がいることになる。軽はずみな行動を取れないのは事実だった。
対して、響子の返しは鋭い。
『それを信じたとしたら、新しく、親がいなかったら浮気をするのかという疑惑が発生するのだけど』
秀一の喉が「ぐむ」と詰まるような音を立てた。確かに、この主張には俺もこう返すだろうなと冷静に捉えながらも、一度出した意見の穴を埋めることは困難だ。
「えっと、じゃあ」
秀一の頭からはそれっぽい言葉が浮かばず、結局感情的に叫ぶ他はない。
それで出たのが、この言葉だった。
「俺がそんなにモテるモテ男に見えるか! …………なんて言い分で信じられない?」
もはや、無意識で自分の言葉に保険をかけてしまっている。
『モテるモテ男なんて、無駄な要素しかない重複表現……そんなので小説家の夢は大丈夫なのかしら。でもまあ、そう言われるとそうね、あなたに浮気は不可能だったわ。ものすごーく、安心』
「それで納得されちゃうのもアレなんだけど……てか最初から疑ってなかったでしょ」
響子の安堵の声を聞きながら、嘆息する秀一。こちらは安らいだものとは程遠い、苦笑じみた呼気だった。
それを察したのかは定かでないが、次に発される『もちろんよ』の声に硬さはない。代わりに、硬さとはまた異なるものをその芯から感じ、その瞬間、二言目が続けられる。
『だって、わたし以外にあなたに惚れる女なんているわけがないもの。それに、わたし以外の女にあなたが恋をすることもないでしょうし。それは単なる自信だけど』
秀一は咳き込みそうになる口元を咄嗟に押さえつけた。そのまま話すと、出てくる声は当然くぐもっている。
「……よくそんな気はずかしいことを平然と言えるね。こっちまで恥ずかしくなるから、そういうのは、何か特別な日にでもとっといてくれると嬉しいんだけど」
響子は普段から自信家なのか考えなしなのか、秀一では口ごもってしまうようなことを平然と口にするところがある。本当のところはわからないが、普段の彼女は聡明であることから、何も考えていないということはないのだろう。何を考えているのかと聞かれれば、それも不明瞭だが。
ともかく、日常の中でいきなり発される言葉にしては心臓に悪かった。
心臓の動きが若干忙しくなったのを秀一は感じ取り、しかしそれを抑えようとはせずにそのまま遊ばせる。
別段嫌な感じではなかったし、抑えようとすればするほどかえって激化する類のものだと知っているからだ。
響子といると、度々味わう感覚だった。
『そういう日には、また別でもっとすごいのをあげるから、普段から遠慮しなくていいの』
「いやでも、心臓に悪いから……それも寿命が縮みそうなレベルで」
『命を燃やすのが恋愛よ』
人間の心臓が脈打つ回数は生まれつき決まっているという。だとすれば、恋愛は多くの寿命を奪い去っているんじゃないだろうか。
人生半分あげるだのというプロポーズの文句は、案外的外れでもないのかもしれない。未来なんて誰にわかるものでもないが、今、秀一の心臓は確かに彼女のために高鳴っているのだった。
そう考えると、命を燃やすというやけに詩的な表現も、鋭さを持ったものに聞こえてくる。
『まあ、あなたは夢を燃やしている方がお似合いかもだけどね』
響子の声が上機嫌に変わり、その声色でなにやら格好のいいことを言ってくる。なんの要因が彼女をそうさせたのかはわかっていた。放っておいてくれよと念じながら、秀一は最後の抵抗を試みる。
「なにを言って『おおかた、小説でも書いていたんでしょう? あなたが隠すことって、それくらいしかないもの』
図星だった。
秀一の抵抗など気にも留められず、バッサリと。
遊びが終わったかと思えば、今度はいきなり核心を突いてくる。良くも悪くも普段通りといった感じだ。
「……そうだよ。わかってるんだったら、そっとしておいてよ」
電話を持ちながら、秀一は下を向く。物事にはある程度の結果が必要で、それがない自分の取り組みを知られるのは気分が良くなかった。相手が事情を良く知る響子であっても、それだけは変わらない。
『本当、あなたには自信ってものが足りないと思うわ。もうちょっと、堂々と夢を語ってもいいじゃない』
「そうは言っても……もうこれは癖みたいになってて」
決して長くは生きたとは言えないが、今までの人生のすべてをかけて形成された人格を変えることは容易ではない。そもそも、意識して変えられるようなものなら、とっくにそうなっているはずなのだ。そうやって生きてきて、そうやって生きていくのだという確信が、秀一にはある。
「本当は響子にだって、小説を書いてることを知られたくなかったんだ」
実際、誰に対しても夢について自分から語ったことはない。偶然手帳を見つけられるというハプニングがなければ、彼女にも隠し通せていたはずだった。
軽度の完璧主義といったところか。秀一の性質を一言で表すならそれだろう。
最低限、自身の満足ラインをクリアしていない事柄に対し、妥協や諦めを認められないという本人の感情もそうだが、なにより他人にそれを知られることを嫌う。
彼の中では過程や努力は関係なく、できない=恥だった。
今の自分が大勢の前で夢を語るなんてとんでもない。そんな話ができるとしたら百歩譲って、いろいろと我慢して、自らの恋人くらいのものだろう。両親にさえ、秀一は夢を知らせていない。
『そんなのでよく小説家になろうと思うわ。わたしでも知ってることだけど、小説家っていうのは大勢に小説を読ませるのが仕事なのよ?』
「そんなことは知ってるよ。だから、俺は俺が満足出来る話を書くまで、スタートラインにすら立てないんだと思う」
小説を読まれる、ではなく『読ませる』と表現するあたりに、基本的に自己評価の高い響子の性格がにじみ出ているようだ。自分の性質を変わらないものと認識していて、それでいいと受け入れている秀一でも時折、彼女に羨望を覚える。
彼女の場合、『始め』だと思ったそこが、スタートラインとして機能するのだろう。自信があるというのがマイナスに繋がることは、ほとんどないのだった。
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