1−1 『核心』
昨日の自分の決心なんて、知らん顔してポイ捨てしてやりたい、と秀一は心底思う。
そんなことを思いながらもソワソワとしている自分に、嫌気がさした。
……何をその気になっているのだ、俺は。
体の軸は落ち着きなくブレながらも、視線は一点に集中している。視界の中央には住野千秋がいる。
ここまで注目しているのだから、とうに、秀一の視線には気が付いているのかもしれない。
それでも物言いをつけてこないのは、住野千秋が見られることに慣れているからだろう。いちいち目くじらを立てていてはキリがない程度には、普段から、彼女は人目を惹いている。
その表情は、昨日の件を忘れているかのように、明るかった。
笑顔の裏に隠された、その内心を推し量ることは、秀一にはできない。
赤城朱美と住野千秋の関係は、表面上ではあるが、友好を保っているようだ。
よく我慢するものだ、と秀一は思う。住野千秋が赤城朱美に好き放題されている姿を見るのは、やはり気分の良いものではなかった。
日を跨いだことで、ほとんど消えかかっていた感情が、再燃してくる。
しかし、よくよく考えてみると、赤城朱美のやり方も酷いものだった。あれは、ほとんど間違いなく、確信を持ってやっているのだろう。あまりにも、人の夢をバカにしている。
それでも住野千秋の方に苛立つ理由は、やっぱり分からない。
秀一はソワソワと落ち着きなく、視線を前方へと送り続ける。
タイミングはどうしようかと、緊張で空回りする思考が脳裏を飛んだ。妥当なのは、やはり昼休みだろう。しかし、いざ意識し出すと、腰が重い。
本当に、こんな行動が、感情に整理をつけるのに有効なのだろうかと、不安になる。
だけど。
一度決めたことを簡単に投げ出すのは、秀一の本意ではなかった。
半ば開き直るような気持ちで考案した方法ではあったが、それでもだ。
この行動が、小説家になることより困難だということはないだろう。
そういった小さな目標を少しずつ少しずつ取りこぼして、いずれ、小説家になるという夢も投げ出す。そういう風にはなりたくなかった。
実際、一回の妥協や決意の放棄が、積み重なることでより大きなものに繋がっていくという事は、よくある。そうなるのが怖かった。
『そうはならない』と声高に主張できるほどの自信は、秀一にはまだない。自信の下地に当たる『実力』が、手の内に無いのだから当然だ。
ともかく、そうなるのを考えると、まだ、昨日の自分の言うことを聞いておいた方が、マシに思えた。
やってやろう。秀一の腹は決まった。
〜〜
昼休みになった。
秀一は未だ、自席に縮こまるように座っていた。
やろう、と決心したのはいいが、最初の一歩が思うように踏み出せない。人間、気の進まないことを行う時には、行動が鈍るものだ。
そういう、例えるならバンジージャンプに尻込みするような状態。そんな現状を動かす力がただ一つあるとするなら、それは『勢い』だろう。
『ノリ』や『気まぐれ』と言い換えても良い。
その場に立つまでが『決意』で、実行するのは『勢い』。勢いには、世界を大きく動かす力がある。
勢い。ノリ。気まぐれ。
髪を揺らす程度の追い風だとか、何気なくかけられた言葉とか、そんなもので良いのだ。
そしてそれは、秀一の胸の中にはもう、ある。
どんな色や形をした感情なのかは分からない。日が変わって、少し薄れていっている気もする。それでも、きっかけとしては充分に、足りている。
昨日の風景を思い出す。
教室がざわめいていて、住野千秋と赤城朱美が教室にいた。ノートを、赤城朱美が持っている。
薄れてはいるが、微かに、秀一の心が震えだす。
目を瞑る。開ける。住野千秋の姿を探すと、教室の前方に向かっているのが見えた。廊下に出ようとしているのかもしれない。珍しく一人だ。
これはチャンスだ。住野千秋が廊下に出たところで、声をかければいい。
さあ今だ。立ち上がれ。勢い、ノリ、気まぐれだ。苛立ちに身を任せて、感情に乗せられればいい。
立ち上がれ!
ガッと、椅子が音を鳴らす勢いで足を伸ばし、住野千秋の席の横を通って、教室の前方に出る。住野千秋は廊下に出て、一時的に見えなくなっている。
廊下に出ると、視界が横に広がって、秀一の目に再び住野千秋が映った。
「住野!」
その背中に、呼びかける。廊下にいた面々の視線が自分に集まるのを、秀一は感じた。
「うんん? 私?」
住野千秋が振り返って、そこで、秀一の存在に気が付いた。
「あ、よっしー」
「よっしーは止めてくれ」
「嫌なら止めるけど…………じゃあ、吉野くん。どうしたの?」
きちんと伝えると、呼び方を改めてくれるのが意外だった。このまま、よっしー呼びが続くのかと、秀一は思っていた。
それはともかく、この質問にはどう答えたものか。
相手の気持ち、そして自分の気持ちを考えると、廊下で話を進めるのは論外だ。
「えっと、ちょっと……」
人気が少なくて、ここから遠くない場所は…………と秀一は頭を働かせる。
そうすると、頭に浮かぶところがいくつかあった。その中から、適当な場所を上げる。
「そう。校舎裏に来てよ。話があるんだ」
「…………? いいけど」
住野千秋は、分からないという顔で首を傾げる。それでもどうやら、ついてきてくれるようだった。元々、用があって廊下に出たわけではないのかもしれない。
連れ立って、廊下を歩く。
住野千秋と歩くのは注目を集めるが、それくらいは、と秀一も我慢する。最初から予想できていたことだ。素早く通り過ぎてしまえば、それで済む。
下駄箱の前を通ることになるが、運動をするわけでもないのだから、靴に履き替える必要もないだろう。面倒だ。
上履きのまま校舎を出ようとすると、何やら、チラチラと住野千秋が視線を送ってきていることに、秀一は気付いた。
緊張で気が付かなかっただけで、ずっとそうだったのかもしれない。
そして、秀一が視線に勘付いたということはもちろん、今、二人の視線は交差している。
「………………」
「……………………」
無言で、気まずい時間がゆっくりと流れる。感情によって体感時間が異なってくるのは、誰しも体験したことがあるのだろうが、中でも、気まずい時間というのは特に長く感じるものだ。
住野千秋は微妙な半笑いを浮かべて、秀一を見ている。
「えっとさー、もしかして、告白とかされないよね私? いやほら、吉野くんには宮永さんがいるってのはわかってるんだけど、なんか、今日はやけに見つめてくるし」
やはり、緊張の眼差しを送っていたのはバレていたらしい。告白、というのは冗談半分で言っているのは分かったが、確かに、そう取られても仕方のない行動だ。
見つめて、ソワソワして、人気のない所に呼び出す。
完全に告白じゃないか、と秀一は思った。小説や漫画であれば、これは間違いなく告白のシーンだ。
もしかすると住野千秋も、漫画の影響でそう考えたのかもしれない。
「告白といえば、そうなのかも」
「えぇ!? いやいやいや、宮永さんから私に乗り換えって、それはないでしょ。ほら、宮永さんの方がスタイル良いし、美人さんだしさー」
「そういうことじゃないんだ」
「そういうことじゃない、ってどゆこと? 外見以外だって、宮永さん凄いし、私に勝てるところがあるかって言われたら、思い浮かばないけど」
どうやら、秀一の言葉は、スタイルとか顔で選ぶわけではない、という意味の『そういうことじゃない』に取られてしまったようだ。
それにしても、本気で、自分には響子に勝てるものが何一つ無いと思っているらしい。
1日話しただけの秀一でさえ、住野千秋には住野千秋なりの良さがあると感じているのに、本人には自信の欠片も無かった。
人気者で、頭もスポーツもそこそこ。そんな風に生きてきて、それなのに、秀一以上に自信がない。
なぜかまた、イライラしてしまう。
校舎裏まできた。念のために、もう少し奥に入った。
盗み聞きなどされては、たまったものではない。住野千秋が男子生徒と校舎裏に入っていくのを見たのなら、そういった行動を起こす者がいてもおかしくなかった。
右、無人。左、無人。後ろは校舎で前は小さな森。人の気配は一切なく、温い風が不快に肌を舐めていくだけだ。昨日に引き続き、空は雲に覆われている。
よし、そろそろいいだろう。
秀一はついに、住野千秋と向き合う。住野千秋は、妙な勘違いから混乱した表情で、それでも、秀一の真剣な雰囲気を感じ取って、珍しく口を閉じた。
ここから、あと一歩。意地だとか興味だとか、由来不明の嫌な感情だとかで、背中を押す。
「住野」
「は、はい」
緊張から表情が硬くなり、口から出てくるのも、ただの二言だけだった。それでも、一度始まってしまえば、あとは勢いでどうにでもなる。
それは、難しそうな本を読み始める時の感覚に似ていた。
「昨日、赤城が持ち主を探してたあのノート、あれ、お前のだろ?」
秀一は言った。
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