3−6 『決めたからな』
薄いシャツに短パンと、夏の夜らしい格好に着替えて、秀一はダイニングルームへ向かった。そこには、家族が三人揃って食事を楽しめる程度の大きさのテーブルがある。
テーブルの右端には、中年の男が腰をかけていた。新聞紙を、胸の高さで広げている。
「この時間に帰ってきてるなんて、珍しいね、父さん」
「仕事が早く終わったからな。今日は一緒にメシが食えるぞ」
男は秀一の父親である。
白髪が目立ち始めているものの、体は大きく、筋肉質でたくましい印象を受ける。
「歳には負けねぇよ」が口癖なだけあって、未だに、若々しい雰囲気の片鱗を、その身に残していた。
その彼が、腕を大きく持ち上げて、頬を緩ませている。
「はいはい。あんたたち、料理並べるの手伝ってね」
母親が、大きな皿を持ってきて、テーブルの中央に置く。やや深みを伴った平皿、というような形状で、中にはたんまりと野菜炒めが乗っかっている。
やはり、これにも母親の趣味が多分に現れているようで、肉盛りだくさん、といった感じだった。
「おう。リョーカイリョーカイ」
父親が立ち上がって、キッチンの方へと赴く。秀一も後に続いた。
母親が、スープをなみなみと注いで、その椀を父親と秀一に渡す。二人はそれをテーブルまで運ぶ。それを数回ほど繰り返すと、テーブルに夕食のメニューが出揃った。
野菜炒め、スープ、白米、魚の塩焼き。そんな風なメニューだ。
両親が席に着くのを尻目に、秀一はコップを三つ取ってきて、それぞれの前へと置いた。決まりがあるわけではないが、いつも、コップの用意は秀一が行っている。
三人が座ると、両手を合わせ「いただきます」をして、食事を始める。
普段とは裏腹に、母親は食事の際にはほとんど喋らない。黙々と、静かに、食材と格闘するかのように、食べるのだ。
逆に、父親の方はよく喋る。今も、「そもそも勤務時間が」だの「労働基準法はどこへ」だのと、秀一に暗い話題を投げかけてきている。
そんなことを言われても、仕事どころかアルバイトの一つもしたことのない秀一には、上辺だけを汲み取って相槌を打つことくらいしかできないのだが、それでも楽しそうだ。
愚痴も、楽しそうに吐けるのならそれでいいのだが、その相手が自分であることには、苦笑せざるをえない。とはいえ、矛先を母に向けたくない気持ちもわかるので、秀一は、出来る限りは父の話を聞くことにしている。
「…………で、その部下が……」
かなり食べ進んだ頃、秀一が気付くと、今度は部下の愚痴に変わっている。
気になっていたことを放置して知らんぷりをしていたところ、案の定、かなりのミスを生み出してしまったという、新人社員の話だ。
「そういう時ってのは、結局、人に頼るしかないんだよな。気になっていることを放置して大事になるよりは、少々みっともなくたって、上司に頭下げた方がマシだろ。人間、分からないことは分からないんだ。唯一、分からないことを分かる方法は、『分かるやつに聞くこと』それだけ。そうだろ?」
「うん。全くその通りだよ、父さん」
そんなに顔を近づけられても、曖昧に頷くしかない。
ただ、その言葉はなんとなく、秀一の心に残った。そういう機会がありながら、安井さんに頼らなかったことが、つい先ほどの話だったからかもしれない。
そのまま、ひとしきり愚痴を聞き流しつつ箸を進めて、秀一は腹八分目の満足感をもって、食事を終了する。お茶を少し飲んだ。
ほぼ同時に、父親が料理を完食する。あれだけ話し続けておいて、いつ食べていたというのか。母親は、黙々と食べ続けている割に手元はちまちまと動いて、一口も小さい。食べ終えるのにはもうしばらくかかりそうだ。
「じゃ、俺は風呂入ってくるから」
父親が立ち上がって言った。
「あ、タオル畳んであるから、リビングにあるやつ持って行ってね」
母親がリビングルームの方向を指差すと、父親は礼を言ってから、畳まれていたタオルを手に取り、風呂場へと消えていった。
秀一は、父親の分と合わせて自分の食器を軽く洗い、食洗機に並べる。ついでにもう一杯お茶を飲んだ。
そして、母親に声をかけてから、二階に上がる。自室へと入った。
小学生の頃から使用している学習机、その対面に置かれた木製の椅子に腰掛ける。目にかかる前髪を払いながら、秀一は、下に向いた視線をゆっくりと上げた。
机の中央にノートパソコンがあり、その周囲に高校の教科書が散らばっている。
机上部に備えられた書棚には多くの書籍が並んでおり、そのせいで、教科書を並べるスペースが無いのだ。
これも、秀一にとってはどうにかしなければならない問題ではある。
新しい棚を購入するか、数冊ほどなら書籍を手放すのもいい。しかし、いろいろ案は思いついていながら、実行には踏み切れていない。
やることはやるが、やらないことはやらない。ランニングもその性格のせいで、随分と先延ばしにしてしまったものだった。
でも、と秀一は首を振る。
今は先延ばしにすべき時だ。なにやら変な言い回しだとは思ったが、別に考えることがあるのも事実。他のことに気を取られている暇など無い。
背もたれに背中をべったりつけて、顎を上げて天井を向く。
秀一は考える。
この腹の煮詰まる思いは、一体なんだろう。
なぜ、自分はこんな感情を覚えているのだろう。
今日、何度も繰り返してきた思考だ。
当然、答えは出ない。
風呂に入って頭がすっきりしたとはいえ、さすがに、急激に劇的な変化がもたらされるというわけでは無いのだ。
頭の回転は悪くはなく、ぐるぐると回っているのが分かった。ただ、気付けば、同じ場所に戻ってきてしまっている。よくある、迷いの森に誘い込まれたような、そんな感じだった。
「…………やっぱり、ダメだ」
歯痒い思いが、秀一の顔を歪ませる。
手を拳の形にして、机に叩きつけたい衝動に駆られたが、すんでのところで思いとどまる。
持ち上げた右手で、ノートパソコンを開き、電源を入れた。
やや間があって、画面が光る。パスワードを打ち込むと、デスクトップ画面が広がった。その中にある小説のファイルをクリックする。
画面に文字列が並んだ。まだ、3万字ほどの原稿だ。賞に応募するには、圧倒的に文字数が足りていない。
秀一は、これを夏休み中には仕上げて、どこかの新人賞に送りたいと考えている。今の執筆速度から考えると、ギリギリになりそうな期限だった。目標としては、適しているとも言えた。
傍に小説手帳を開いて、キーボードに手を伸ばす。気は乗らない。
ただ、予定は変えない。
感情をぶつけるように、キーボードを叩いていく。が、上手くいかない。勢いのままに手が動くのはほんの数行で、すぐに、火が消える。
それでも、ゆっくりでも、丁寧に書いた。
額に汗が滲むくらいの時間は、すぐに過ぎていく。
小説を書いている時も、秀一の頭にはずっと、別の考えが張り付いていた。
それでも、別段優れた答えが見出せるわけでもなく。
ただ、苛立ちだけが募っていく。
「あああ! もう、埒があかん!」
苛立ちに任せて、秀一は声を上げた。悩み事は解決しない上に、今夜は妙に蒸し暑い。
窓を開けて、ベランダに出た。室内と体感温度に大差はない。フチに肘をついて、空を見上げる。
高く上がった視線の先には、予想通りといえば予想通り、星一つ無かった。どうやら、月の光をほとんど遮ってしまう程度には、雲が厚いらしい。
ランニングの時に見た曇り空が、より深まっている。
秀一は、ダンと、ベランダの床を踏み鳴らした。
折角こんなに怒っているのだから、この勢いのまま行っちまえよ、と思った。
思ってみると、この意見は意外に的を射ているぞと、そんな気分になる。
そうだ、その通りだ。
自分で考えても答えが出ない。
人に聞くのも違う気がする。
それなら、もう一回、はじめから考え直すしかないじゃないか!
嫌だけど、気が引けるけど、「向こうも同じみたいだし、おあいこってことで」と自分を納得させて、もう、決めた。
秀一は、ある一点においては、自分を信じている。
それは、良くも悪くも、完璧主義者であることだ。一度決めたことは、やる。
「決めた。決めたからな!」
だから、と、秀一は決意を込めた目で、黒い空を見つめ続ける。
明日の自分、任せたぞ。
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