3−2 『ノートの持ち主』
あくまでも普段通りを装って、彼女らの行動は行われている。
だが、赤城朱美の言葉には明確に、悪意があった。あるように、秀一には見えた。
狙い澄ましたようなタイミングでの発言だったから、そう感じてしまったのかもしれない。
いずれにせよ、周囲は、平静に紛れた異変に気付くことはない。異変と呼んで良いのかわからないような些細なものなのだから、当然ではあるのだが。
それに、秀一以外には誰も、あのノートが住野千秋の引き出しにあったことは知らないはずだ。
見ると、目線の先では、住野千秋がパニックになり、ノートを奪われてしまった。
あまりに可哀想な様子なので、あちゃ〜と、秀一は思わず顔を覆ってしまう。かといって、助けに行くことなどできない。立場的にもそうだし、何より、秀一自身がこの流れに期待してしまっている。
住野千秋はなぜ、あのノートに執着するのか。
根本では秀一も、赤城朱美と同種の興味を抱いているのだ。
「いや、それは……」
住野千秋は、無遠慮に覗いてくる瞳に応えられず、目を逸らす。その下げた目線の先には、逃げ場を塞ぐように、大学ノートがある。
赤城朱美が何気無い風を演じて、そのノートを広げた。
「————————」
今度は何を言ったのか判別できない。ただ、ノートの中身を指差している。秀一の予想が正しければ、そこには漫画が描かれているはずだ。
続いて、なになに、と興味を持ったグループの面々も、彼女の手元を覗き込む。住野千秋は縮こまってしまっている。
他の女子は、乗せられているだけで、それほどの悪意はないのだろう。だからこそ、本気で拒否するのが難しい。そんな心情は、秀一にもわかった。
「これ、アキチー描いたの?」
赤城朱美が、ほとんど確信を持った表情で、やや声を大にして、前のめりになる。それを受けて、住野千秋が体を硬直させた。それは異常な反応だった。
やはり、住野千秋がノートの持ち主だったのだ。そして、どうやらそれを隠し通したいのだろうことにも、秀一は勘付いた。
「いや、違うよ! 全然、違う」
違うから、と繰り返している。手をパタパタと横に振って、『本当に違うから』と口を動かしている。
最初は勢いよく、食ってかかるように声を張り上げていたのだが、それも、繰り返しの内に徐々に小さくしぼんでいった。後半はほとんど聞き取ることができなかった。
秀一は、なぜか、その住野千秋の様子に、苛立っていた。赤城朱美の一見卑怯なやり方よりも、ずっと腹が立つ。何故だろう。
ほんとかなーと詰め寄られてたじろいでいる姿や、どことなく自信なさげな様子に、なにか、心がささくれ立っていた。
「だよねぇ、これ、すっごい上手だし。アキチー、こういうの似合わないし」
と、淡々と事実を述べるような口調に、さらに住野千秋の表情が固まった。
しかし、それに関しては、秀一にも充分に納得できてしまう。確かに、似合わない。それは、ノートを目にしてから今まで、ずっとそう思っている。咄嗟に、住野千秋が持ち主であることすら、疑ってしまったくらいだ。
「うん、だよねー。ほら、私、将来の夢お姫様とか言っちゃうタイプだし、美術の点もそこそこくらいだし」
「ねー」
仕草と、微妙に聞こえてくる声から推察するに、住野千秋は混乱のあまり、余計なことまで早口で捲し上げるようになっていた。
赤城朱美からしても、特に苦労もなく自身の優位を保てるので、万々歳と言ったところだろう。
秀一は、言いようのない歯痒さを誤魔化しながら、観察を続ける。
見るまでもないことではあるが、終始、住野千秋の劣勢であるようだった。
「じゃあ、なんで、このノートはアキチーの引き出しにあったの?」
この質問が発せられた時も、当然、そりゃあ聞くよな、といった心境だった。ただ、住野千秋は、痛いところを突かれて目眩でも起こしそうだ。
少なくとも、秀一と赤城朱美にはそう見えている。
「さぁ? なんでだろ。だって私のじゃないし。誰か、間違えて入れていったのかな? 前の授業、席移動あったし、それか、数学の時とか」
それもなくはない話である。
席移動がある授業の時には、ノート、筆箱等の道具を他人の席まで持っていかねばならない。二限目にあった数学は、少人数教室を利用してクラスの半分をそちらで受け持つようになっているので、必然的に、教室側の生徒は空席を埋めるようにして前に出ることになる。その移動の際に、何か手違いが起こるというのは、何ら珍しいことではなかった。
頻繁に、とは言わないまでも、ある。
「じゃあ、聞いてみたほうがいっか」
赤城朱美が言って、それから、ノートを高く掲げる。にこやかな表情で、口を開く。
息を吸う音が、秀一の元まで響いてきそうな具合だった。そのあとで、
「これ、アキチーの引き出しに入ってたみたいなんだけど、誰のか分かんない? 分かんないなら、一応、先生のとこに持ってこうと思うんだけど」よく通る声色で、告げた。
クラスのざわめきが一瞬収まったかと思うと、そこかしこで「お前、知ってる?」「いや、分かんねえ」と、掲げられたノートを指して、やり取りがある。
どうやら、クラスメートたちには、ノートの持ち主に心当たりはないらしい。当然だ。
「名前とか書いてねーの?」
「ノート自体は私のと似てるけど、中身が分からないとなんとも……」
たちまち、教室中から疑問の声が上がった。おせっかい焼きの男子や、真剣に悩んでいそうな顔の女子が、次々と訊く。
そんな声が大きく、多くなっていくのに反比例するように、住野千秋の肩身は狭くなっていくようだった。
ぞろぞろと、クラスメートたちがノートに近付いていく。赤城朱美の表情は、もはや秀一からしても、真面目にノートの持ち主を探しているようにしか見えず、悪意を隠すのがうまいなぁ、と心底感心した。
また、そんな様子は、チョウチンアンコウが餌を誘っているようにも見えた。ノートをチラつかせて、それに人が群がる。とはいえ、赤城朱美は彼らに悪意を持っているわけではないので、それは正確には違っているのだが。
「ちょっと見せてくれない?」
「あ、俺もちょっと不安で」
「うん。他にも心当たりある人は見に来てー」
ノートを手渡されたクラスメートたちが、肩を寄せ合うように覗き込んで、確認にあたる。住野千秋はそれを止められない。彼女は、自分がノートの持ち主だと思われたくないようなので、ここで必死になることは、却って自らの首を絞めることになる。
赤城朱美がどこまで計算しているのかわからないが、なかなか高度な嫌がらせである。
「おぉお? すっげ! これすっげ!」
「なにこれ、マンガ?」
「でも俺のじゃないな」
「お前、絵、ヘッタクソだもんな〜」
「うっせえ!」
すぐに話題になり、すでにノートへの興味を失っていた面々まで、ノートに関心を持つようになる。ノートは多くの手に渡り、感心されることはあれ、やはり、持ち主が現れることはなかった。
「んー、じゃあ、教卓の引き出しに入れとくから、誰のか分かったら教えてね。
放課後には先生のところに届けて、預かってもらうつもりだから、それまでにってことで」
ね、と赤城朱美は、住野千秋に確認するようにする。それに硬い頷きが返ってくると、じゃ、そういうことで! と締めくくった。
六限目の授業が始まろうとしている。
クラスメートたちも、さすがに、各々の席へと戻っていき、教室に静けさが戻った。
そんな静寂の中で、秀一の心は、変わらずざわめいている。
なんで俺、こんなにイライラしてるんだ?
感想等お待ちしております。




