2−2 『ランニング』
残念ながら、放課後のコンビニでは、期待通りに響子の叔父と会うことは叶わなかった。
仕事で忙しそうだったので、毎日コンビニに立ち寄る訳ではないのだろう。
昨日の出会いはほとんど偶然だったというわけだ。
そして、普段通りの時間に、秀一は家に帰ってきた。
母に軽く声をかけ、部屋に鞄を置き、今、再び玄関にいる。
何のためかというと、ランニングに行くためである。
秀一には体力がない。特に、ここ数日はそれが気になっていた。
今日になって、足が万全の状態に戻ったため、ランニングを始めるつもりなのだ。そろそろ夏休みも始まる。その間継続できれば、それなりの体力もつくのではないだろうか。
家を出発し、前の細道に出る。民家の立ち並ぶ小さな通りだ。右に行けば、小さな食事処が幾つかあり、左には田畑や農家が多い。今回、秀一は左を選ぶことにした。
賑やかなのは右側だが、走るのは左の道の方が良い。田を縫うように走れば、トンボや蝶、カエルなど様々な生き物がいる。風も涼しい。小川のせせらぎが耳に心地良かった。
秀一が、偶に自転車で通ることのあるルートだ。色々と新鮮で、まさに気分転換にはもってこいといった感じである。
さらに進むと、交差点があるので、もう一度左に曲がる。農家の前を行くと、踏切があるので、そこを渡る。その先、古びた家と、ホームセンター前といった道のりを走り抜けていく。
ホームセンター前には大河が流れており、それに沿って進めば河口がある。この海沿いを走るのが人気で、ランニングにはもってこいだと評判だ。今はまだ老夫婦が何組かジョギングしているだけだが、日が暮れる頃になると、もっと増えるはずだ。
海側からの風を感じながら、砂浜を横目に、走る。
ここまででも結構な時間が経過している。秀一の考えでは、コースはあと半分くらいだろう。
秀一の額にはすでにかなりの量の汗が滲んでいる。息には、湯気そのものが噴き出しているかのように、熱気がこもる。伸びた髪は首元にべったりと張り付いてしまっていた。
トンネルを抜けたあたりに駄菓子屋を見つける。
小さな店だ。
秀一も、この辺りに訪れることは少なく、店を目にするのは初めてだった。入り口前に安物のベンチと自販機があり、『安井屋』と看板が出ている。
そこで、思った以上に汗が流れているのに気付いたので、秀一は、少しだけ休憩をとろうと思った。
中に入ると、寂れた、埃っぽい匂いがする。金属でできた棚に菓子が並び、奥の冷蔵庫にはジュースがある。
カウンターには、白髪の目立つ老婆が腰掛けている。元気はないが、愛想はいいようで、秀一に向かって「いらっしゃい」と笑いかけ、軽く手を挙げた。もともと細い目が、さらに細まっている。
「どうも。こんにちは」
秀一も笑って挨拶を返す。少し店内を見て回った。奥に引っかけてある時計は六時過ぎを指している。普段、夕食は七時ごろに食べるので、それに間に合うように帰らなければならないのだが、まだまだ時間はあるようだった。
結果、缶ジュースを一本ほど購入し、ベンチに腰掛けて飲んで行くことにした。
水分が不足して体調を崩すようなことは避けたい。痩せることを目的に走っているわけではないので、特に水分を制限する必要もないのだ。
ベンチは見かけ通り薄くて冷たかった。
硬い割には、どこか安定感がない。が、これも『らしさ』というものだろう。それなりの雰囲気があるだけで、欠点も気にならなくなるものだ。
秀一が買ったのはオレンジジュースだ。喉を鳴らして半分ほどを流し込めば、酸味が口いっぱいに広がる。
眼前の水田、小さなトンネル、その上の、国道を走るトラックを眺めながら、意識をほぐして、脱力する。体はいまだに熱い。
温い風が髪を揺らして、鳥が鳴く。どこからかキィキィと音が聞こえて来る。
たまには、慣れないことをやってみるものだと秀一は思う。
今感じているのどかさは、紛れもなく良いものだった。小説を書くにも、今日は集中できそうな気がする。良い案が出るかもしれない。
「さて、帰って頑張ってみるか」
ひと息つくと、再びランニングを始める。太陽はようやく沈み始めたようで、辺りはオレンジの光を浴びている。影が長い。水田の、まだ緑の稲が反射して、眩しかった。
これだけの出来事で、今日は良い日だったと、秀一は思った。
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それからは、ほとんど普段通りの行動をなぞっただけだ。
帰って風呂に入り、夕飯を食べ、小説を書いて、空を見る。
そして、寝た。
ただ、彼の物語はその翌日、大きな動きを見せることとなる。
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