2−7 『溶ける感触』
これは、帰ったらすぐにでもランニングを始めないと。秀一は自身の体力のなさを恨む。
そんな時。
空中の響子が身をよじって、秀一の方へと振り向いた。そしてそのまま、楽しそうな表情で手を伸ばしてきたりもする。
響子の位置が若干近づいてきて、届く? と、反射的に腕に力が戻るのを秀一は感じた。
事実、腕は、届く範囲に入っているように思える。しかし、腕に届いたところでどうなるというのだ。
確かに秀一なら、腕を掴むことは可能だろう。ただ、空中からの落下を、腕を掴むなどという暴挙で止めた場合、秀一と響子がどうなるかは想像に難くない。このまま見送る以上に、怪我をする確率が上がるのは見え見えだった。
腕は無し、と秀一は考えを捨てる。空中の響子はやはり笑顔で、このまま放っておいても普通に着地しそうだ。
そのあとで足を撫でながら「痛いじゃない。ちゃんと受け止めて」くらいは言ってくるだろう。それも悪くはない。
でも、だけど、もしもここで受け止めたとしたらを妄想すると、だ。
それは秀一の勝手な願望だ。ただ、響子は秀一にとって数少ない、『自分勝手』を押し付けられる相手だった。
………………普段はいろいろ押し付けられてる側なんだけどなぁ。
まあ、やってやりますか!
秀一の足はポンコツで、遅い。近づいたとはいえ、今から踏み出すのでは、響子を受け止めるのに支障が出る。
だったらむしろ、足の力を抜いてしまえばいい。床は、建物の中ということもあり、フローリング。ここに靴を斜めに入れればどうなるかは、見知らぬ女子中学生が教えてくれた。
案の定、足はツルリと前へ滑り、連鎖して、結構な浮遊感を受けながら上体が沈む。途中、地面に背中を強打したが、不恰好なスライディングは止まらない。
重力を利用した賭けは、秀一の鈍足を超えて、一歩を埋めた。
体が倒れたことで強制的に上を向いた視界には、両腕を広げて落ちてくる、響子の姿くらいしか入っていない。
滑る勢いは、服や下半身の引っかかりで徐々に削られて、彼女が飛び込んでくるのは、ちょうど秀一の胸のあたりになった。
「”#$’%&!?」
聞いたことのないような悲鳴が口元から漏れて、背中が焼け付くように痛む。
打撲だな、と秀一の中の冷静な部分はつぶやいた。いくら美少女だとはいえ、天使や神ではないのだ。当然、相応の重さはのしかかってくる。
よくある、落ちてくる女の子を主人公が抱きとめるシーン。あんなのはまやかしだ。現実なんて、こんなものなのだ。
以前に読んだことのある少女漫画を思い出しながら、ゲホゲホと目を回してむせる秀一の背中を、優しく響子の手が撫でる。
「ありがとう。受け止めてくれたのね」
喉からスムーズに声が出なかったので、秀一はコクコクと何度か頷いて反応を示した。
秀一の胸に収まる響子が背中まで手を伸ばしているので、まるで抱き合っているようだった。
緊張の反動で緩んだ思考では、彼女との境界すら怪しい。ただ、すぐにそんな靄も消え失せて、現実味というものが戻ってくる。
同時に、秀一の胸から離れて、響子が立ち上がった。
彼女は靴を履き、秀一を立たせる。汚れた秀一の背中を叩いてもくれた。それを受けながら、秀一も、床に並べた二人分の荷物を拾い上げて、固まった右肩に引っ掛けた。
「すごい! おねーちゃん、おにーちゃん、ありがとう!」
二人で風船を女の子に渡すと、輝いた眼差しで感謝される。その目は響子の方に釘付けで、またファンが増えてしまったと、秀一は思った。
響子には、やけに年下に好かれるところがある。
「じゃあ」
「え?」
「逃げましょう」
「は?」
響子が、秀一の左手を握って言う。「さあ、引っ張って」と続けられても、何が何やらだ。
と、いきなり、静まっていた周囲からざわめきが生まれる。
それは次々に連鎖して、徐々に大きくなっていく。
歓声だった。
どうにも、秀一が思っていたより、女の子の泣き声を気にしていた連中は多かったらしい。
響子がいきなり跳び上がったあたりで、周囲は一度静まり返った。その緊張が、今になってようやくほぐれたようだった。
住野千秋も跳び上がって何やら叫んでいる。
と思ったら、突然ニヤニヤ顔に変わり、秀一たちの方へ近づいてきた。何を聞かれるか分かったものではない。
ようやく、響子がこの場を離れようとしていた理由がわかった。
こういう騒ぎが苦手な秀一に、気を遣ったのだろう。
じゃあ、と手を握る左手に力を込める。意思が伝わったようで、響子が軽く頷いた。
走り出す。足が上がっている感覚はほとんどなかったが、ある程度の速度で前進はできているので、気にはしないことにした。
しかし、「引っ張って」と頼まれた割には、秀一より響子の方が前を走っている。
どうにも格好がつかなかった。
▶︎
何の絵にもならない逃走劇を披露したかと思えば、なぜか、秀一は苦手なはずの絶叫系アトラクションの列に並んでいる。
なぜかといっても、理由なんて、響子に引っ張り込まれた以外にないのだが。
彼女曰く、「千秋ちゃんたちから隠れるのに丁度いい」ということらしい。
あれから、興奮した住野千秋グループは秀一たちを追いかけてきた。
ああいう連中は、こと恋愛や青春に関しては信じられないようなエネルギーを発する。ニヤニヤ顔で追いかけてくる彼女たちの姿に、二人の肌が粟立った。
そんな中で響子が出した案が、いったん手近な列に紛れてしまおうというものだったのだ。
聞いた時は「これは妙案だ」と喜んだ秀一だったが、最寄りにあるアトラクションがジェットコースターだったのは計算外。
しかし、いったんパスポートを提示して入り込んだ以上は出て行くこともできず、今に至る。
一日における負荷の限界値はとうに超えていて、足が、筋繊維が数本ほど断裂したかのように痛い。並んで立っているだけでも億劫だった。
座れるのなら、ジェットコースターの座席でもいいとすら、秀一は思う。
そちらの方は、列の消化が速いので、すぐにでも実現しそうだ。
係員の指示に従って前進し、レールの見える位置までくると、丁度、目の前にトロッコを彷彿とさせる乗り物が滑り込んでくる。座れるのならどこでもとはいえ、実際に順番が来てみると、冷や汗ものだ。
そのまま、秀一と響子は、最前列の座席へと案内された。
よりにもよって最前席。秀一は手を額に当てながら、心が沈んでいくのを感じる。その額も、汗の残滓なのかザラついていて、手触りが悪かった。
二人はジェットコースターへと乗り込む。足場は金属製で、踏めばカンカンと音が響いた。その甲高い音がなんとも頼りない。秀一は極力下を意識しないようにと、自分に言い聞かせる。
ただ、座席に腰かけた瞬間だけは、うまく力を抜くことができた。小さな息が溢れる。
別段、高所が苦手というわけではないのだが、ジェットコースターに対する苦手意識につられて、自然と心が強張ってしまうのだ。
恐怖は連鎖するというのか、普段は気にならないようなことまで気になってしまう。とはいえ、足の痛みには、じんわりとだが消える兆しがあるので、それが秀一には救いだった。
隣には、響子がどっかりと腰掛ける。
女の子にあるまじき豪快な座り方ではあったが、秀一と同じ分だけ運動し、さらにあの大跳躍だ。疲労に関しては秀一以上に感じているはずだ。
空を仰ぐように息を吐きながら、「改めて、さっきはありがとう」と礼を言ってくる。先ほどは落ち着きも何もなかったので、もう一度といった心持ちだろうか。
「いいよ。俺がやりたくてやっただけだし、それに、俺が受け止めなくても響子なら着地できたんじゃないかとも思うし」
「確かに、着地はできたと思うわ。…………足は打撲くらいにはなりそうだけど」
「やっぱり?」
言いながら、響子が足をさすっていると、金属が軋む音とともに安全バーが下りてきて、肩が収まる。
いよいよ発車間近だ。開始前のアナウンスで、安全上の注意や雰囲気作りの音楽が流れてくる。
「でも。だけど、着地できたかとかそういうのはどうでもいいのよ。大事なのは、あなたが、わたしを受け止めてくれたこと、それだけ」
「その前、いきなり踏み台にされた時はさすがに驚いたけどね」
ゆっくりと、まっすぐと前へ進み始めて、レールが高い音を発す。
最初、ゆっくりとある程度の高さまで登って、そこからの急降下が、このアトラクションの本番開始の合図らしい。
そこまでは正直、非常に低速だ。秀一が苦手とする浮遊感もなければ特別な動きもないので、会話はごく普通に行うことができる。後方からもいくつか話し声が聞こえた。
「いいじゃない。わたしに踏まれるなんて、なかなかできない素敵体験よ。学校中の男子が羨ましがることうけあいね」
「………………ちょっと男子像にいろいろ間違いがあるような気もするけど…………でもそんな連中も少なくないから何も言えねぇ」
近づいてくる急降下に秀一は身を硬くする。響子は平然とした態度で、ジェットコースター慣れを見せつけてきているようだ。
秀一はカチコチに肩が怒っているというのに、響子にはまだ動く余裕がある。
隣の秀一にすり寄るように体をずらして、触れる髪がくすぐったい位置まで来る。
そして、
「とにかく、あなたはわたしを助けてくれたわけ。
………………だから、お礼」
そう言って、秀一の額に、響子の唇が付けられた。
一瞬思考が止まって、
その感触を確かめようと秀一が手を額に伸ばそうとして、
「うべぇ。なんか、しょっぱいわね」
唇を舐めた響子がしかめ面して、
ジェットコースターの急降下が始まって、
「うっぎゃぎゃぎゃあああああああああああああああああぁっぁぁぁ!」
求めた温度もろとも、平衡感覚が溶けてなくなった。
ちょっとだけ普段より長くなりました。あと、おそらく、次話で一章が終わります。
感想等お待ちしております。