『始まりノート』
ぺたりと、大学ノートが引き出しから落ち、床に音を立てた。
「あ……」
その要因、机に足をぶつけてしまった男子高校生、吉野秀一は、軽く面倒臭がりながらも引き返し、床に張り付くノートを拾おうと体を折り曲げた。
前屈によって、目を隠すように流れ落ちた髪が、鬱陶しい。
いつの間に、こんなに伸びたのやら。これでは、男子にしては長すぎる。
そんなことを気にしながらも、ノートを拾い上げて、表紙をはたいておく。
どうせ拾ったのだから、ついでにこれぐらいはしておこうと思った。最初からやらないのならどうでも良いが、やるのなら気がかりを残さぬように。
取り掛かることにはある程度の完璧さを求める性質が、秀一にはある。
はたき終えると表紙をめくり、内容を確認し始める。表紙に名前がなかったから、少し気にかかった。
そのまま返すのがベストだとはわかっているのだが、相手の名前はやはり気になる。ノートの中には、何かヒントでも記してあるかもしれない。
ノートは、漫画の練習帳のようだった。奇しくも、秀一が教室まで引き返してきたのも小説用の手帳を取りにきたという理由からであり、表現の形は違えど、似たものが手に収まった形だ。
「すげえ。絵、上手いな」
感心が口をついて、ため息に近いものとしてこぼれる。『似たもの』として一緒くたにしたのが申し訳なくなるほどに、秀一の小説手帳とそのノートとでは、あるべき位置、受けるべき評価が異なっていた。
真剣に作家を目指して取り組んできたとはいえ、未だに実力は未熟としか言いようのない自分。
いくら頭を捻ったところでこれといったアイディアが出るわけでもなく、稀に降ってきたとしても、それを思ったように展開させる筆力も、未だ発展途上だった。
思ったものを形にするのは、思ったよりもよほど難しい。
比べて、このノートは。
秀一の漫画に対する知識は一般人の域を出ない。暇なときに読む、コンビニで立ち読みする。そんな程度の関わり方で、技術点なんてものを細かく採点できるわけもない。
しかし、いや、だからこそだろうか。
このノートに広がる世界は、漫画雑誌としてコンビニに並んでいるものと遜色ないように思えたのだ。
練習用だからか、コマ割りも絵も吹き出しも、すべてシャープペンによって書き込まれていて、粗さが目立つ。だが、簡素ながらも絵は上手く、勢いがあるのは素人目にも感じとれる。想像力に溢れていて、また、想像したものをそのまま形にする実力も備わっているように感じた。
漫画と小説。似たようで異なるジャンルで、かけた年月といったものにも大差があるはずで、それでも湧き上がるのは敗北感。
人と比べるものではないとわかっていながら、沸き立つそれは止められるものではない。
かぶりつくようにノートに見入る。
目が空気で乾燥して充血を始めてもおかしくないほど、時間を忘れる。
練習として取り入れているのか、度々模写を挟みながらも、様々なタイプのキャラクターが描かれていた。
そのどれもが巧みに描き方を変えて描かれており、それぞれに感情があるようにすら思えた。持ち主の情報も探しながら、ページを捲る手は止まる気配を持たない。
夢の世界にいるような錯覚の中に、秀一はいた。
それでも結局は、ノートから持ち主の名前を知ることはできなかった。
最後のページまで余すところなく読み終えた秀一は、仕方ないかと肩を落とす。
別に持ち主を知ってどうこうするわけではない。
ただ、一方的にライバル視するくらいはいいだろうとは思っている。
秀一には、自身と同じく、創作の趣味を持つ知り合いがいなかった。そんな状況だからこそ、少しでも刺激になるのなら、大歓迎だった。それが一方的な間柄であっても、意識する相手というものは大きな力になるものだ。
そもそも、ここで持ち主を知ることができたとしても、どうにもできないだろう。
持ち主を知って、話しかける?
そんな行動をとる自分を思い浮かべることが、秀一にはできない。似合わないにもほどがあった。
ノートを閉じながら息を吐き、やけに火照った体から、想像以上の時間を費やしていたことを悟る。教室に入った時には浮いていた太陽が、今は地面に引っかかるような位置から夕日を伸ばしていた。
わからないものはしょうがないと、ノートを引き出しに戻しにかかる。ぶつかった衝撃に少しばかりずれてしまっている机を引っ張り、椅子を差し込んだ。
そして、表紙を上にしたノートを空っぽの引き出しへ……といったところで、ようやく気づく。
なんでこんなことが思考に入らなかったのか。秀一は、周囲に誰もいないにもかかわらず、恥じ入るように頭を掻いた。
席がわかれば、その使用者がわかる。学校生活の基本の基本、席順だ。ノートの持ち主の机は教卓側から見て、右から2番目、前から3番目の位置にある。秀一が、窓よりの最後方にある自身の机に向かう途中で横を通り、その際に足がぶつかった形だ。
誰の席だっただろう? 記憶から、情報を引き出す。
答えはすぐに出た。
主の名は住野千秋。クラスの中心に居座る女子生徒で、「アキチー」とあだ名で呼称され、男子にも女子にも親しまれている娘だった。どうしても気に入らない染められた茶髪を除いたら、まあ、可愛いと言えなくもない。
外見に似合わない、気取った様子のない言動が、クラスでの人気を後押ししているらしかった。
『らしい』というのは、実は、秀一には住野千秋と言葉を交わした経験はほとんどないのだ。
何故かといえば、そこまで興味を惹かれる相手ではなかったからと答えるほかない。
クラスの中心にいるのが住野千秋で、隅っこに位置するのが、吉野秀一。
正直、ただ同じ教室にいるだけの存在といった認識が正しかった。クラスメートとはいえ、関わり合う機会など皆無に等しい。
「……そう思ってるのはあっちもだろうけど」
でも、興味が湧いてしまうじゃないか。
本気であること特有の、熱のようなものを感じる絵。
住野千秋がこれを書いたというのは未だに半信半疑だ。恋愛だの青春だので異様なほど騒いでいるグループの中心人物である彼女が、ここまで一つのことに入れ込むというのは、実に似合わない。そういう疑心は、秀一の中から消えはしない。
でも、これを彼女が書いたという痕跡は確かにあって、そうなると、秀一の中での彼女の立ち位置に変動が生じるのは避けようがなかった。
なんとも言い難い気分に沈黙しながらもノートを戻し、窓際へ移動。本来の目的である自身の小説手帳を机から抜き取り、眺めるようにページをめくる。
そこには秀一が一年前から紡いできた、物語の卵ともいうべき文章の羅列が存在している。パラパラとページを捲りながら、秀一は首をかしげて頭を掻き毟った。
「どこがどう違うのかも分かんねー!」
気落ちしそうな心に鞭打つように頬を叩き、目を閉じる。
あのノートに感じた熱は、この手帳には宿っているだろうか。
宿っていてほしいと、願う。
宿っているはずだと、驕る。
手帳を持つその手に、微かに力がこもった。
どれだけかかるのかは未定ですが、私が描きたい結末まで、ここから頑張ります。
続きも読んでいただければ幸いです。感想等、お待ちしております。