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フランクフルトな太股

作者: 黒部 裕

 三番まで調子よく解き、そして暫しの休息、また解きだした。数学はいい、大抵の問題は迷い無く筆が進む。先程に比べ、少々具合は悪くなっていたが、ついに最後の問題の答案を書き終えた。ミスを見つけ出すつもりはさらさらない心持ちで、ざっと見直す。我ながら乱雑だなと思う。明らかに筆跡は汚い方だ。自分の答案で特に気に入らないのは、飾り文字のZだった。何度か書き直してみたが、大して良くならなかった。

 足が随分鈍くだるく感じた。今日一日忙しく走り回ったからなぁ……。切れかけた蛍光灯が明滅するように、鈍痛は強くなったり弱くなったりして、とりわけ足首や足の裏では細胞の一つ一つが震えて駆けずり回っているようで、それがひどく不快だった。前のホワイトボードの近くから三列に二人用の机が並んでいて、一番左端の列の後ろ方にある机の壁側の席に僕は座っているが、前には誰もいないため、目一杯に両足を延ばした。そうすると、その時だけ、幾分か痛みが抜けた気がした。

 ぱっと右斜め前の女の子を見た。僕の視線は下の方に傾いている。焼けたフランクフルトのような彼女の太股が、そこにはあった。かすかな張りがあり、机の影が落ちていた。少し視界を広げると、脚はゆるやかな時の間隔をもって、開いたり軽く閉じたりを繰り返していた。おまけに、縦に一六ビートで律動していた。今、僕の耳に幻聴的に流れる音楽の速さで考えるとそんなところである。なりを潜めていた好感が沸き起こり、頭にあった他の物事が、フライパンの上のバターのように、溶けてなくなってゆく。ただぼんやりと眺めていた。彼女はまだきれいな運動靴を脱ぎ捨てていた。くるぶしの上くらいまでの黒い靴下。不安定な台の上でぐらついているかのように、地に触れる位置がころころと換わる小さな足の裏。目を逸らす。本来の意識を取り戻し、先生に寝ていると思われないように、ふらふらと解答用紙の上で筆を踊らせる。平面に描かれたレーズンパンの輪郭のような形が出来た。

 ほとんど上の空で、思い付いた言葉を書き連ねている。はっと紙面を見れば「深い、深遠、迂遠、間遠」数ミリ下に「ぺれすとろいかカルボキシル酸」数センチ右に「純粋理性批判かんと」数センチ下に右肩上がりに「モーパッサンとーますまん魔の山コゼット」出来上がった解答の上に落書きが被さってゆき「ヌーボォーロマン」。これは駄目だ、と、人差し指と親指でつまむだけで十分な大きさのこまごましい消しゴムを使って、荒く跡を残しつつも全てを消し去った。ここは慎重に、消えた解答の跡をなぞる。まるで何かをあきらめるように筆を放り出した。時計に目をやると、後ものの十分でテスト終了だった。

 前の机に仕舞われている、白いプラスチック製の椅子と僕の間にある空間にじっと焦点を合わせていた。

 この二筋の流れは何だろう。海流のようなイメージだった。しかし、細く長く薄気味悪い半透明の生き物が蠕動しているようにも見えた。かなり近くだった。眼球の表面に張り付いてそれは蠢いていた。きっと本当に存在している訳ではない。疲れているんだな、と思って、全体を俯瞰しようとした。しかし、そうすると、別のものに気づいた。寸分の違い無くたとえるよう努めるなら、まるでびかびかと照り輝く日の光を存分に染み渡らせて燦然と世界を取り巻く澄み切った夏の午後の空を、屈せず眺め続けた後のような、はっきりとはしないが、視界のそこかしこに、ある面では紫と取れるような色を持った印象が、二筋の流れとは別にいくつか点滅している。意識しなければ気にならなかった。

 何度目か分からないが、彼女の太股を見た瞬間どきりとしてしまう自分がいた。膝上二五センチほどのところにようやくレースの布がある。一瞬それがスカートであるように見えるのだ。そして、首をのばしてどうなっているのか見てしまう。とうにショートパンツを穿いていると知っているのに。

 何とか産毛と言える程度の濃さで毛が生えている。触れるか触れないかのところに手のひらを近づけて、逆撫でしたい気分になる。勢いよく息を吸って、強めに出した。太股には手のひらほどではないが、部分部分によって色の違いがある。肌色の薄いところ、褐色に近いところ、かすかに青い静脈が走るところ。揺れていても毛が生えていても、そういうところはよく分かる。溶質の溶けきっていないどろどろとした液体の、耳に残る音を伴う沸騰によって、異臭を放つ気体が生成されてゆくように、異常な感情、欲望が、一定の罪悪感を伴って、ぶくぶくとたちのぼってきた。これが終わったら声を掛けようかな、と思った。

 テストが終わり後ろから回された解答用紙の上に自分のものを載せて前に渡す。その時だった。ほんのわずかな振り向きだったが、彼女は僕の手にする紙を受け取りつつ、微笑を浮かべていた。妙な勘違いはやってきたものの、よからぬ欲望は霧消した。彼女はもう靴を脱いでいなかった。すぐに前を向き、友人と話し始めた。のどの奥をくっつけながら話すような、繊細に絞り出される魅力的な声が間遠に響く。唇を尖らせて発した声。胸がうずうずとしてくる。耐えられない。彼女が席を立ち、ふわりと香りがする。ちゃんと鼻を刺激する核があるのに、全く不快でない香り。粗っぽく机からはみ出した僕の右手に、彼女の手が当たった。あっ。ごめんなさい。何も言わず緩慢に手をどけている内に、くぐもり気味に彼女が言った。……ええ。遅れて僕は答えた。彼女は少し頭を下げると、先にゆく友人を小走りで追いかけた。今度は現実的に声が離れて聞こえる。熱をもった頬や耳をすっきりと冷えた手で包みこむような、そんな声が。


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