Hello, island. - 2
「よし、っと」
軽く体操して身体をほぐし、ランニングシューズの紐を確認。
「それじゃ、行きますか」
朝日を反射して輝く近代的な高層建築を一度見上げて、緒織は教えられたランニングコースを走り出した。
現在時刻は午前七時。早朝とはいえ亜熱帯に属するわりに涼しいのは、神門島の環境が内地を模倣するように調整されているためだ。そのため冬になれば雪も降るし、自然が多いため夏でもそれなりに過ごしやすい。
勿論、その技術は地球だけのものではない。異世界の知識と地球の技術を融合させた次世代の環境維持システムだ。
「はっ、はっ、はっ……」
タイムよりも長く走ることを意識しつつ、ある程度の負荷をかけながら黙々と走る。
一周三キロのコースを十五分ほどかけて走りきるが、まだ春休み中ということもあってか緒織の他に人の気配はない。
「……ん?」
と思った矢先、二週目に入ってすぐのところで、コースから少し外れた林の中に一週目にはいなかったはずの人影が見えた。
その人影の頭のすぐ横あたりにもうひとつ、翼を広げて浮かぶ小さな影もある。
――と。
「それっ!」
人影が右手を振り上げる。
すると木立に隠れた足元から、三つの火の玉が飛び出した。
「な――!」
驚愕する緒織。当然のごとくそれは人間の成せる技ではない。【神威】と呼ばれる、異世界人――【異邦人】が用いる超能力だ。
世界を繋ぐ【孔】の出現――『隣界接続』と称される事象によって接続された異世界には、地球に存在しなかった超常の異能を持つ住人との邂逅をもたらした。
同時に、地球にも【人間種】でありながらそれらの異能を持つ、異界の神に祝福された子供たちが生まれるようになった。
【神授世代】と呼ばれるその少年少女ら、そして【異邦人】の子供たちが共に学ぶ場として作られたのがこの八衢学園。であるならば、こうして遭遇するのも決して起こり得ないことではないのだが、いかんせん緒織には想定外に過ぎた。
「こ、のっ!」
立ち止まるには遅すぎ、咄嗟に緒織は目の前に迫った火の玉の一つを素手で殴った。
すると緒織の手がその一つに触れるや否や、火の玉のすべてが空中で掻き消えた。緒織の手にも火傷などはない。
「なんだったんだ、今の……」
安全を確かめていると、がさがさと木立を掻き分ける音。
振り向くと、林の中から小柄な少女が飛び出して来た。
緒織と同世代だろうか。八衢学園の女子制服の上にさらに大きめの白衣を着ているが、それでもわかるほどに華奢な体躯だ。
昏い赤毛の髪は伸び放題で、顔は前髪に隠れてしまって表情が読めない。ついでに何枚か枯れ葉が乗っている。
そして、その髪を押し分けて少女の右側頭部から黒に近い色味の角が伸びていた。
(【魔人種】? いやでも……)
実際に見たのは初めてだが、数いる【異邦人】の中でも角を持つのは【赤の世界】の【魔人種】だけのはずだ。
しかし緒織が知識として知っているその特徴と、目の前の少女にはある些細にして明確な違いがあった。
その差異に緒織が戸惑っていると。
「ごめんなさい」
流暢な日本語で謝罪しながら、少女はぺこりと頭を下げた。
「この時間、いつもは人がいないから油断してた。怪我とかしてない?」
「あ……うん。僕は大丈夫だけど」
むしろじろじろと見てしまったことに僅かばかりの罪悪感を覚えていたりするわけだが。
「そう? なら、よかった」
そんな緒織の内心に気付かずほっと安堵する少女。どうやら本当に事故らしいので緒織としてもそれ以上に言うことはない。
「今度から気をつけてね。それじゃ――」
「あ……待って」
ランニングを再開しようとして、ジャージの端を捕まれた。
軽く首が締まって「ぐえ」と変な声が漏れる。
「……まだなにか?」
「ええ……その、ちょっとだけ訊きたいことが」
お断りします。
……と言いたいところだが、躊躇いがちながら妙に真剣みを帯びた少女の物言いと、不躾な視線を送ってしまったことへの後ろめたさから、
「まぁ、ちょっとくらいなら」
と答えてしまった。
「ありがとう。それで、単刀直入に訊くけど――」
初対面だし大したことでもないだろう。そうたかを括った緒織だったのだが。
「あなた、何色?」
………
……………
…………………
「何色……っていうのは、なんのことかなぁ……?」
たっぷり三〇秒は固まってから、ぎこちなく尋ね返した。
いや、言葉の意味はわかるのだ。
赤、青、緑、紫――四色で表される四つの世界、そのどれに属する異能かということだろう。
「あなたたち【人間種】にも異能を持つ人がいるのは知ってる。だけどそれは、あくまであなたたちが【異邦人】と呼ぶわたしたちと同じ物のはず」
前髪の隙間から射抜くような碧色の視線を投げかける少女。
「だからこそ訊きたいんだけど、私の能力を封印したあなたの【神威】は何色なの?」
「ぐぅ……」
確かに緒織も異能の持ち主ではある。
しかし、なぜこの少女は緒織の異能を『封印』と推測したのか――
――あ、もしかして。
そういえば、少女の隣にいたはずの翼を持った影が見当たらない。
――あれ、この子が『召喚』したやつだったのか……
【魔人種】の【神威】は何かを召喚することだということを思い出す。
緒織が火の玉を殴った瞬間、それだけでなく遠く離れた別の召喚物まで消えたのだ。そこから推測することは、一分とかからなかったということに驚きこそすれ不可能ではないのかもしれない。
「えっと……ご、ごめん!」
うまい言い訳が思い付かず、緒織はくるりと背を向け逃走を試みる。
「あっ、待ちなさい……!」
少女も追いかけるが、何年も毎朝走ってきた緒織と、明らかに運動慣れしていない細身の少女。
引き離されながらも執念で走り続けた少女だったが、三分もしないうちに息切れしてその場にへたりこんだ。