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そして司法へ

 どういうことなの。

 イフェリアは宿泊しているホテルに戻ると、なんとなく時計の時刻を気にしながら手持ち無沙汰に過ごしていた。レオディラスは今、どの辺りにいるだろう。到着するのは何時になるだろうか。

 勿論、彼の家からここまでにかかる所要時間はだいたい想像がつく。だから到着時刻などいちいち気にせずとも容易に推測ができるし、着いたら客室の内線電話を使って電話をかけると言っているのだから、イフェリアはそれを待てばいいだけで時間を気にする必要は全くない。予定時刻までは客室に留まる必要すらないのだが、それでも到着が待ちきれなくて時計ばかりを気にしながら部屋でじっとしていた。到着が待ちきれない理由は自分でも自覚している。彼の電話での言葉が、意識に引っかかったまま取れないからだ。レオディラスが退役を決意するほどの事態とは、いったいなんだろう。

 それですることもなく話す相手もなく、帰り際に駅の売店で買っておいた文芸雑誌の掲載小説を読みながら時間を持て余し、ページの余白や作品の合間に掲載された広告まで丹念に熟読していると、ようやく待ち望んだ電話の呼び出し音が鳴った。最初のコールが鳴り終わらないうちに受話器を取り上げると、耳に馴染みの声が飛び込んでくる。俺だ、それが第一声だった。

「いま着いた。五階の客室に入ったが、これからそっちに行く。もう少し待ってくれ」

「レオのほうが私の部屋に来るの?部屋番号を教えてくれたら私のほうで訪ねて行くわよ。着いたばかりで疲れてるでしょ?」

 イフェリアはそういったが、受話器の向こうで首を振る気配がした。

「いや、いい。俺のほうでそっちに行く。イアのほうが部屋を出て他人の部屋を訪ねて、あいつに不審がられるわけにはいかない」

 あいつ、イフェリアは怪訝に思ったが、了承して受話器を戻した。雑誌をバッグに戻し、そのまましばらく待っていると今度はさほど時をおかずに密やかなノックの音が響く。周囲の耳を気にするような静かな叩き方にイフェリアはなんとなく彼だと直感した。急いで開けると案の定、廊下に立っていたのはレオディラスで、彼は廊下に誰もいないのをするかのように素早く周囲を見渡してから室内に足を踏み入れてくる。

「悪い、本当なら今頃、お前は寝てる時間だろうに」

 ノック同様、声も潜めるようだった。普段の彼の、明朗な話し方からは想像もつかない声音に、イフェリアはもはや驚くのを通り越して不安になってしまう。レオディラスと並んで部屋のベッドに腰を下ろしながら、イフェリアは彼に話しかけた。

「いったいどうしたの?レオがわざわざ、夜中に話をするためだけにここに来るなんて。話だけなら、電話でもできるのに」

 なぜ将佐といいレオディラスといい、たかが自分と話をすることにこれほど尋常でない手間をかけようとするのか。それがイフェリアの目下最大の謎だった。単に話をするだけなら今時は電話でもできること、もはや直接会う必要すらないというのになぜなのか。特にレオディラスの場合はなおさら電話のほうが都合が良かったはずだ。電話なら、家から出る必要もない。なのにどうしてと思うと不可解すぎて不安が強くなった。どうしてもそれだけは訊かずにおれなかったのだ。

 レオディラスは首を振った。

「電話じゃ話せねえよ。そんな気軽に話せるようなことじゃねえし、なにより――」

 電話じゃ誰に盗聴されるかわかんねえし、と続けられ、イフェリアは思わず吹き出した。

「盗聴って、なんで?誰がどうしてそんなことするの?簡単にできることじゃないでしょう?私たちがいちばんよく分かってることじゃない、電話の盗聴がどんなに大変か。事件捜査なんかで必要になった時でも、裁判所の許可を得て電話局の許可を取らないといけないのよ。その手続きがどれだけ煩雑なのか、レオならよく知っているでしょう?私はまだやったことないけど、手続きの方法は全部、士官学校で習ったんだから」

 それとも何、レオには自分が軍にそんな警戒を向けられるような心当たりでもあるの、と茶化すと、意外にもレオディラスはイフェリアの冗談に乗ってこなかった。意外にも真剣な顔で、ないこともない、と口を開いてくる。

「盗聴の危険性なんか、俺の家の電話には常にある。俺の家だけじゃない、イフェリアの家の電話も同じだぞ。使われるたびに盗み聞きしてる奴らがいたって、俺は驚かん」

 なんでよ、私はなんにもしてないわよ、イフェリアはなんとなく不快に思って反論した。

「私は犯罪者じゃないわ。有名人ってわけでもないし、そんなことあるわけないでしょ。私の家の電話なんか、盗み聞きしたって面白いことはなんにも聞けないわよ」

「そういう意味で言ったんじゃねえよ、イフェリアは犯罪者じゃねえ。そんなことは俺も分かってる。俺だって犯罪なんか犯しちゃいねえ。けど俺らの動向が気になる連中は大勢いるはずだ。なぜなら――」

 俺はそもそもベルガルトの人間だからな、とレオディラスは至極あっさりと言った。イフェリアは驚いた。

「ベルガルト?ベルガルト選主国?」

「そう。俺が生まれた時はまだベルガルト王国って名乗ってた。まだ王様が国を治めてたからな。俺も姉貴もそこで生まれて、生まれた家は近衛の階級にあった。武人としちゃいちばん上の階級だ。あのまま王制が続いていたら、俺は近衛の騎士になって、今でもベルガルトで暮らして、王様の護衛でもしてただろう」

 へえ、イフェリアは初めて知らされたその事実に些か驚いてしまった。レオディラスの家で見た絵を思い出す。ルリアはあの絵を昔、旅行で訪れた外国の風景だと言っていたが、そうではなかったのか。あれはルリアとレオディラスにとっては故国を描いた絵だったのか。初耳だったがどうしてルリアはそれをかつて訪れた旅先の風景などと言ったのだろうか。ひょっとして隠したかったのか。そんなに気にしなくてもいいのに、と思う。ベルガルトの人間なんて今時は別に珍しいものでもなんでもない。軍はさすがに場所柄、外国人の姿は見かけないが、イフェリアの近所の商店街には大勢いる。ベルガルト人の従業員が。

「そうなんだ、初めて知った。けど、それがどうしたの?今時外国人ってだけでそんな偏見の目で見る人なんていないわよ。百年くらい前なら、相手の出身階級によっては間諜とか、妙な警戒心を抱かれることもあったのかもしれないけど、今はそんなことないでしょ?もしそうなら、レオはそもそも、士官学校になんか入れたはずないし」

「普通なら、そうだろうな。けど俺は普通のベルガルト人じゃない」

 レオディラスはイフェリアをまっすぐに見つめてきた。

「俺の親父はベルガルトの王宮に仕えていた。当時の国王を護衛をするのが務めだったからだ。近衛の人間なら当然のことだが、そのせいで俺の親父は最悪の死に方をした。謀反の巻き添えになったんだ。晩餐の席で――」

 謀反。イフェリアは声を上げた。会話を遮るような真似をするなんて非礼だと気づいたのは、言ってしまった後だった。思わず躊躇したが、レオディラスに促されて言葉を続ける。

「ベルガルトの王様って謀反で死んだわけじゃないでしょ。最後の王様が死んだのってもう二十年くらい前のことになると思うけど、普通に病死だったはずよ。そうでなければベルガルトの体制があんなに穏やかに変革するわけない」

「十七年前だ。まだ二十年も経ってない。それと死因も病死じゃない。いや、表向きの死因は確かに病死で、それもあながち間違ってはいないが、自然に罹った疾病で死んだんじゃないんだ。晩餐の席で逆賊の襲撃を受けて、その時の傷がもとで死んだ。俺の親父はその時の争いに巻き込まれた。あの場にいた他の貴族連中にも何人か、巻き込まれた者がいる。実行犯はすぐに捕らえられたから、表向きあの騒ぎはなかったことになってるだけだ。けどあの事件はまだ終わってない。たかが下働きの下女なんかに、内輪の集まりとはいえ王様の主催する晩餐会の会場に入れるわけないからな。謀反なんて起こす動機も思いつかんし、持ってた武器も彼女の私物ではありえなかった。誰かが謀反を手引きしたはずだ。その誰かは今も明らかになってない。あの事件はまだ終わってない」

 レオディラスは何を思っているのか、ふとイフェリアから視線を逸らして何もない虚空を見つめた。

「それでも俺はこの国に出てきた。俺の頭にはまだあの日の光景が残ってる。忘れたくても忘れられるもんじゃねえ。目の前で自分の父親が殺されたんだ。実行犯の下女は獄中で死んだが、彼女に犯行を命じた本当の逆賊は今も誰だか不明のままだ。姉貴はそのことがあって俺とベルガルトを出てくることになった。姉貴があの後、病床の王に託されたからな。王女を守ってほしいと。それで姉貴は王女を連れていったん国外に避難することにした。一時的に退避し、騒ぎが治まった頃を見計らって帰国するつもりだったと聞いている。それが叶わなくて今もこの国に留まっているんだけどな。まさか出国してまでも追ってくるなんて思わなかったから」

「ベルガルトに王位継承者はいなかったはずだけど?王女って誰?」

 イフェリアは口を開いた。今度はレオディラスの言葉を遮らず、彼が話し終えるまで待ってから話しかけた。

「あの国の最後の王様は女王だったはずよね?中等学校の歴史の授業で習ったわ。女王が世継ぎを産まないままに崩御したために王位継承者が現れなかった。だからあの国の王家は断絶して、国が王制から選主制に変わった。そのはずでしょう?あの国に王女なんかいないはずよ。いたらそんな変革なんか起きない。レオは何を言ってるの?」

「本当のことを言ってるよ。謀反の場となった晩餐会は王女の生誕を祝う、ごく内輪の人々の集まりだった。生誕といっても王女はもう一歳近かったけどな。予定より少し早く生まれて、普通の赤ん坊よりも弱々しかったからということなんだろう。生まれてすぐは母親である女王や乳母や、少数の侍医や女官の他には誰も接触できなかった。あの晩餐会が王女にとって初めての公式行事で、最初に世間にお披露目される場だったんだよ」

 なのにまさかという事態だった、あんなことが起きるなんて誰も予測してなかったはずだ、と続くと、イフェリアはさすがに呆れた。なんでさっきからレオディラスはそんなありえないことをまるで見てきたように言うのだろう。

「・・なんか、まるで見てきたみたいに言うのね?」

「見てきたことだからだよ。乳母を手伝って王女を世話していた女官ってのが姉貴だからな。俺も傍にいた。まだ小さかったから、もうよく覚えないが、何度か一緒に遊んだこともある。女王が特に求めて、姉貴に出仕の時は俺も連れてくるように命じていたらしい。俺は成長すれば王女の護衛につくことになるわけだから、小さいうちから慣れておくのがいいというお考えだったんだろう」

 へえ。イフェリアはささやかな息を吐いた。相槌の打ちようもなかった。王族だのなんだのという話はイフェリアの日常からはあまりにも遠く、またレオディラスがどこまで本気で話しているのか分からないと、言葉をどう受け止めたらいいのかも分からなかった。

「謀反があって姉貴は女王の言葉どおりいったん王女を連れて密かに国外に出た。この国に着いてから女王の崩御の報を聞いたらしい。継承者が死産だったことにされたことや、実行犯の下女が獄中で自殺したらしいという噂から姉貴はすぐにあの謀反には黒幕がいて、そいつが国を乗っ取ったと考えた。変革に際して国主のいないベルガルトを纏めたのが女王の側近で、宰相だった公爵が最初の国主になったから姉貴はずっと公爵を疑ってる。むろん報せを聞いて姉貴はすぐに王女を連れて国に戻ろうとした。けど、それは難しい、というより極めて危険なことになる可能性が高いということで帰ることがないまま今日に至ってる」

「・・危険って、何が?何が危険なの?」

 庇護者が殺されたからだ、とレオディラスはイフェリアの問いに自分が持参した鞄を開けた。なかをまさぐり、やがて一冊のノートを取り出す。ページを繰り、イフェリアに差し出してきた。

「これは当時の新聞の記事だ。姉貴が切り抜いてノートに糊付けしていたものだ。少し古くなってるから読みにくいかもしれんが、読んでみてくれ」

 そう言われてイフェリアはノートに貼り付けられた新聞の切り抜きに目を通した。かなり古びて黄ばんだその記事に、イフェリアは見覚えがあった。記事に、というより書かれている内容に覚えがあったのだ。ここに来る道順を調べるために立ち寄った図書館で、閲覧した新聞で見た事件を報じる記事だ。ノースレイク地区でゼルスとサーヤという夫婦が殺害されたことを報じる記事。内容からすると事件の翌日の朝刊に掲載された第一報だろう。この記事がいったいどうしたというのか。

 ノートから顔を上げてレオディラスを見ると、レオディラスと目が合った。

「その殺された夫婦ってのは、本当の夫婦じゃねえ。夫婦と娘の三人家族を装って暮らしていただけだ。ゼルスさんは王宮の庭師だったし、サーヤさんは王女の乳母だった人だ。王様が公務なんかで娘の面倒を見られない時に、代わって世話をしていたんだよ。国を逃げ出す時にゼルスさんがいろいろとこの国でのことを采配してくれたから、なんとなく流れでそのまま夫婦を装って一緒に住むことになったんだと聞いてる。サーヤさんは自国を出たことがなかったらしいから。王女を預けられたのはサーヤさんと姉貴でも、姉貴には俺もいたし二人だけで面倒をみるのは無理だったんだろう。それでサーヤさんはゼルスさんと一緒に住むことにして、姉貴は俺と近所に住んで王女の許に通ってた。通うといってもそんなに頻繁に行けたわけじゃない。俺もまだ手のかかる年頃で、親はなかったから姉貴が生計を確立せにゃならなかったからな。姉貴はそれで近所の菓子店に職人見習いとして入って、ゼルスさんも自分の生活のために近所の花屋で働いてた。それがまずかったんだと聞いてる。サーヤさん一人で王女の世話をするのは想像以上に困難だったらしい。彼女はゼルスさんと違ってこの国の言葉が分からないから、異邦人であることを隠すために聾唖を装うと買い物ひとつするにも不自由が出る。それを見かねてゼルスさんが近所の診療所に務めている看護婦を雇うようになった。ライナって女だが、彼女はけっこうよくしてくれたらしい。子供の世話だけでなく家事なんかも手伝ってくれて、病気の時も安心することができたんだと。けどやはり事情を知らない赤の他人を関わらせたことは最大の過ちだったと姉貴はよく言っていた。事情を知らない、教えるわけにもいかなければライナさんがどこで誰にサーヤさんたちのことを喋ってしまうか分からないし、実際にライナさんはどこかで誰かにサーヤさんたちのことを話してたんだろう。本人に悪意はなくても、結果的にそれでサーヤさんが王女を連れて逃げていることが逆賊に知られてしまった。それで――」

 こうなってしまったんだ、とレオディラスはノートに貼られた記事を示す。

「襲ったのが誰かは今も分からねえ。現金が手つかずだったから強盗のはずはねえが、王女が無事だったのはほとんど奇跡に近かった。サーヤさんが襲撃を受けたなかでも必死に守ろうとしたんだろうな、訪ねた時には王女は寝室のクローゼットのなかで泣いていたらしい。いざと言うときのためだったのか、クローゼットは内側から鍵がかけられるような造作になっていた。サーヤさんは酷い怪我を負って王女を抱いたままそのなかで息絶えていたんだ。他の部屋で襲撃者の攻撃を受けてクローゼットに逃げ込んで、そのまま息を潜めてるうちに力尽きてしまったんだろう。クローゼットの扉には力尽くでこじ開けようとした痕跡が残ってたというから、あいつが訪ねるのがもう少し遅かったら王女がどうなってたか分からない」

 あいつ、イフェリアは首を傾げた。

「レオ、さっきから誰の経験を話してるの?聞いてるって言葉は自分の経験を話す言葉じゃないでしょ?誰から聞いた話をしてるわけ?」

 それは先ほどから聞いていたレオディラスの話の全てにあてはまる疑問だった。レオディラスはイフェリアと二つしか違わない。なら、この事件が起きた時、彼はまだ三つだったはずだ。三歳の幼児に周囲の物事を客観的に見る力があったとは思えないし、それを現在に至るまで詳細に覚えているというのも信じ難い。レオディラスの話は、誰かの経験を話として聞いたものではないか。では、いったい彼は誰の経験をこうして話しているのだろう。ルリアさんだろうか。たしかにルリアさんは、レオディラスとは少し年が離れているから、この事件が起きた時にはすでに十三歳になっていたはずで、レオディラスの話が彼女の経験であったとしても、それほど不自然なことはないが。

 だがレオディラスの答えはイフェリアの予想とは違っていた。彼は淡々とクロウスティンさんだと答えた。

「イフェリアの今の親父さんだよ。クロウスティンさんもベルガルトの人間で、あの人は女王の主治医だった。リリスティアさんも王宮の女官だったから、当然のように女王の治療のために尽くして、崩御するまであの国にいた。女王の葬儀が全て終わってから、あの人たちは王女が祖国に帰還できるよう必要な手配をするためにこの国に来た。事件が起きたのは、そのためにちょうど訪ねてきた時のことだったらしい」

 だからこの記事に記された夫婦の知人というのは、あの二人のことなのだと、レオディラスは告げた。イフェリアは呆然とした。自分の父母がベルガルトの人間だったなど今初めて知ったからだ。確かに思えば、両親は新聞でもラジオでも、ベルガルトのことが話題に出るといつもとりわけ大きな関心を寄せているように見えたし、二人ともベルガルトの言葉に堪能だった。そのことに関して父はいつも教養ある人間なら他国のことにも精通していて当然と言っていたが、あれらは単に教養あるところを見せていたのではなく、何かの弾みにそれらが表に出てしまった時に教養で誤魔化すためだったのだろうか。

「二人はサーヤさんとゼルスさんを襲った悲惨な出来事に愕然とした。身を隠していたはずの二人がどうして襲われるようなことになったのか、すぐに徹底して調べだした。その過程で二人はゼルスさんが近所に住むライナという看護婦を雇っていたこと、彼女の夫が近くの防衛軍第六基地に勤める軍人であり、どうやらその夫を通して所在が知られたらしいということ、つまりサーヤさんたちを襲った人間はこの国の軍人に繋がる伝手を持っていたということになる。ということはたとえこの国に正式に亡命を願い出たとしても王女の身の安全は保証されない可能性が高いということだ。亡命すると、王女の身柄は軍の庇護下に入ることになるから、そんなことをすれば自ら敵地に飛び込むに等しいことになる。それでクロウスティンさんたちはやむなく拙速な帰還を避け、この国で目立たぬよう息を潜めながら、経歴を偽ってこの国の民として密かに暮らし始めることにしたんだ」

 レオディラスはそこで軽く息をついた。

「そのあいだに王女は何も知らないまま健やかにこの国で成長した。身を隠していたのが幸いしたのか王女はそれ以降、特に大きな事件にも事故にも巻き込まれることなく無事に普通の子供と同じように初等学校に入学した。そして中等学校に入学し、そして本人自ら志望して、周囲の懸念など知らず士官学校にまで入った。それでも何の問題もなかった。それで周囲は思った。このまま本当に何も起きなければ、王女にはもう何も知らせずこの国の民として軍人として生きていくのが幸せではないかと思うようになった。軍は身元に気づいていないのだから、このまま行けば王女は真実、この国の軍人として生きていけるのではないかとね。あの事件までは、本当に誰もがそう思っていたんだよ」

 レオディラスは手を伸ばしてノートのページをめくった。そこにはまた新たな新聞記事が貼られていた。今度の記事はあの夫婦殺害を報じる記事よりもずっと新しかった。見覚えがある、と思った。当たり前だろう、じっくりと熟読するまでもなくそれは自分が士官学校の卒業直前に自動車事故に遭った時の記事だった。士官学校に通う女子学生が、帰宅途中に自動車に撥ねられて重傷を負ったとだけ報道されている。この事故の当事者が自分であることだけを除けば、昨今ではそれほど珍しくもない種類の記事だ。実際、あの殺人事件の記事に比べれば、この記事はずっと小さく、写真も付いていない。

「このことがあってから、王女の周囲の人間の、周りに対する見方がまた少し変わった。まるで最初から狙っていたかのように一直線に車が突っ込んでいることから、最初から殺害する目的で事故を起こしたのではないかと思われたからだ。王女が生きていることを知って、ベルガルトでの自分の権益を失いたくない逆賊が今も王女を狙っているのではないかとね。クロウスティンさんからは俺に連絡があって、同じ基地にいるんだからくれぐれの王女の身辺には気をつけてやってほしいと言われてた。まあ、あの事故以降、特に大きな事件や事故が王女に降りかかることはなかったから、俺もしばらくは安心してたんだけど」

 そこでふと言葉を止め、レオディラスはイフェリアを見据えてきた。

「と、まあ、ここまでいえば薄々察しはついてるんじゃないかと思うが、その王女ってのがお前のことだ、イア。お前はクロウスティンさんとリリスティアさんの間に生まれた子供じゃない。お前の血筋はそもそもベルガルトの王宮にあったもんだ」


 断言されてもイフェリアには何とも答えようがなかった。

 話の流れでなんとなくそのうちレオディラスがそんなことを言い出すのだろうなということはある程度に予想はしていたのだが、やはりというか、やはりその予想どおりの言葉が彼の口から飛び出してくると、驚くというより呆れる思いのほうが強かった。いったい彼は、この期に及んで何を言い出すのかという気がする。レオディラスが昔から冗談をよく口にするのは今さらいちいち思い返さなくても知っていることだが、それをわざわざ深夜に他人の泊まるホテルの部屋に押しかけてきてまで貫き通すのは、はたしていかがなものなのだろうか。

「――お前、いま絶対に俺の言ったこと趣味の悪い冗談だとでも思ってるだろう?言っとくが俺はここに来てから冗談なんか一度も口にしてないぞ。到着するのが深夜になると分かっていてわざわざ冗談を言うために他人の泊まるホテルの部屋に押しかけるなんて、そこまでふざけたことはしないし、そんな暇もない。明日は本当なら勤務に当たっていたわけだからな。そんなことのために軍務を放棄するほどの非常識さも持ち合わせていない」

 けど――、とイフェリアは口を開きかけたが、レオディラスに制止されるような身振りをされてなんとなく押し黙った。

「分かってる。お前が信じられないのは俺の言葉が証拠を伴ってないからだろう。口だけならなんとでも言える。それこそどんなことでも。だから信じられない。当たり前だ。俺がお前でもそう思う。だから今から俺は自分の言葉が紛れもなく真実を話しているものであることを証明するものを見せてやる。まず一つが――」

 唐突にレオディラスはイフェリアを指し示してきた。

「お前のその瞳の色だ。お前、小さい頃から自分の瞳の色が他の人々と違うことを気にしてたよな?それはお前がベルガルトの王家の血筋をひいているからだ。ベルガルトの王族は、必ずといっていいほど紫色の瞳を持って生まれてくる。お前の母親、死んだ最後の女王も同じ色の瞳をしていた。この色の瞳は、今ではもう歴史の本などに掲載された、ベルガルトの王室の人間の肖像画などでしかお目にかかれない。この国の人間にはまず見かけない色だ、まず、これが一つ」

 レオディラスは開いた掌の親指を折ってみせた。

「二つめはお前の容姿がベルガルトの最後の女王によく似ていて、リリスティアさんとクロウスティンさんには全く似ていないこと。三つめは――」

 レオディラスはふと言葉を切った。

「――三つめはお前の自身の経験にあるな。イア、お前、フラワーハウスパークでベルガルトの伯爵と接触したんだろう?」

 え、とイフェリアは突然の問いかけに目を瞬かせた。フラワーハウスパークと言われて記憶を探る。もっとも探るまでもないことは自分がいちばんよく分かっていた。イフェリアはフラワーハウスパークでほとんど人に会ってない。それどころかろくに散策もせずに出てしまったのだ。会ったといえるのは受付にいた従業員と、あの第三フラワーハウスにいた老紳士だけ。どちらもそんな偉い人物でないことは明白だ。国立公園の職員と違法麻薬の商人。どちらも伯爵などという称号の持ち主にはふさわしくない。

「会ってないわよ、そんな偉い人なんかと」

 否定するとレオディラスは意外そうな顔をした。

「会っていない?では名を名乗っていなかったか?イアはフラワーハウスパークで医療隊の機密を盗んだ人物と会ったんだろう?この人物に癒着を持ちかけられたとかいって、絵に描いて兵士に渡したんじゃないのか?」

「それは、そうだけど。あのお爺さんは単なる犯罪者よ。法の監視を逃れるようにして違法に麻薬を売買しているような人が、伯爵なんて偉い人のわけないじゃない。しかもベルガルトの人だったら尚更。私はベルガルトの国家体制には詳しくないけど、伯爵っていったらあの国には一家しかないでしょ?爵位を持つのは王家の縁戚だけだから」

 ベルガルトに爵位を持つ家といえば五家しかない。これは有名な話だった。単に貴族というだけならもっと多くの家があろうしこの国にもかつて王制だった頃の名残を受けた旧貴族と呼ばれる人々はいる。しかしそのなかでも爵位を持つのは特別な家だけだった。主家たる王家と直接、血が繋がっている家だけが、ベルガルトでは爵位を持つことを許されている。血が濃い順に公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵と格が分けられているのだ。王制が崩壊した今では伯爵といえど有名無実の存在かもしれないが、王家が存在していた頃は王位継承権さえ有していておかしくはない大家である。それほどの家の人間が、他国で犯罪の取引など行うはずがないではないか。そんな必要があるほど金銭に困っているはずもなかろうし、あったとしてもそんな行為に及ぶはずがない。王家と繋がりのある人物が他国の法を公然と犯すような真似をすればどうなるか、政治や外交に詳しくはない人間でも容易に分かろうというものだ。

「そうだ。伯爵と呼ばれる家はあの国には一家しかない。けど伯爵だから犯罪者でないということにはならないぞ。むしろ伯爵だからこそ犯罪を躊躇わないということもある。イアが生きていることは、あいつにとって都合が悪いはずだからな」

「私はベルガルトの伯爵なんかに何もしてないわよ」

 レオディラスは頷いた。

「それはそうだろう。イアがベルガルトの貴族なんかと不用意に接触しないようにクロウスティンさんたちが随分気を配ってたからな。クロウスティンさんたちも黒幕は公爵じゃないかと疑ってた。だから当然、公爵やそれに繋がりかねない貴族が娘に接触してこないよう、イアに近づく人間はそれがどんな人物であっても常に警戒を怠らなかったはずだ。王女が生きているのに死んだと偽ってそれまでの体制を崩し、公然と政権を奪ったのならそれはもう謀反以上の大罪だからな。発覚を免れるためならそれこそどんな手を使っただろう。イアが生きていると知ればなんとしてでも亡き者にしようとしたはずだ。クロウスティンさんたちは通りすがりの自動車がお前を撥ねたのも、自宅に押し入ってお前を襲った暴漢も伯爵の手の者じゃないかと疑ってる。ひょっとしたら露店の爆発も、ホテルの放火もそうじゃないかってね」

「え?でも、ホテルの放火は――」

 エアルが自白したのではないのかと言いかけてイフェリアは言葉を詰まらせた。なんとなく言いにくかった。エアルはレオディラスにとっても気心の知れた友人だからだ。

「そう、エアルが自白した。けどな、エアルはあの日、あのホテルには泊まってないんだよ。それはフロントの従業員も証言してることだ。すでにあの当日のフロント係がエアルの自白に異議を申し立ててる。あの日、フロントにいて全ての客に部屋を貸し出す手続きをした女性従業員は、こんな男は見ていないと断言しているんだ。たった一人の証言だから基地の人間は記憶違いと一蹴しているが、俺はフロント係の言葉のほうを信用して間違いないと思ってる。エアルは利用されただけだ。お前が軍が横流ししたものを追っているように見えたから、発覚を恐れた横流し犯に殺された、そういう筋書きの物語が欲しかっただけだと思うぜ。そうすれば罪を全て他人に被せたままお前だけ葬り去れるからな。エアルは自白なんかしてねえ。突然捕らえられて投獄されたんだ。あの日、あいつが休暇で、自宅にいて行動を証明できる人間がいないから標的にされただけだろう。あいつにあれを盗み出せるはずなどあるか。あれを盗んで売ったのは医療隊の誰かか、あるいは医療隊の権限でも行動を妨げることができないだけの上層の人間だ。警備隊の人間じゃ医療隊の研究棟に立ち入ることも難しいんだからな。ひょっとしたら開発資料の盗難自体は偶然に起きたことかもしれない。誰かが金に目が眩んで開発資料を他所に売った。それが巡り巡ってベルガルトの伯爵の手に渡り、イアがどうしてか、そのことを調べ始めた。それでたぶん、伯爵は思ったんだろう。これはイアを殺してもその死に疑惑を抱かれない口実として使えると。伯爵はたぶん、どこかの時点で王女がまだ生きていてそれがイアであることを知ったんだ。そしてイアが生きていることが公になって、まかり間違ってもあの国の政権が、不法な手段で王権を奪ったことで成立していると世間に知られないようにしたかったんだろう」

 そうなるとお前が士官学校を卒業する直前に自動車に撥ねられたのも、自宅で暴漢に襲われたのも、露店の爆発事故に巻き込まれたのも、その伯爵の差し金じゃないかという。自動車の事故やあの暴漢は偶然の出来事などではない、露店の爆発も、捕まると焦った売人の狼狽が起こした咄嗟の行為などではなく、最初からイフェリアを狙ったものではないかというのだ。行為自体は咄嗟のものであったのかもしれないが、それは自分が捕まることを恐れたからではなく、イフェリアの素性が分かったためだろうと。

「そして、今日、将佐がわざわざそんな行為に及んできたということは、将佐がベルガルトと繋がりがあるということだ」

 なら、ひょっとしたら開発資料を盗んで横流ししたのは将佐かもしれない、とレオディラスは呟く。盗んだものを売ろうとして、その際に将佐が伯爵と接触した。それでイフェリアの素性を将佐が知って、将佐はイフェリアが伯爵と接触したことで危機感を抱いたのかもしれない、と。

「もっとも伯爵としては、わざわざ殺さなくてもイアが自分の側に来ればそれで良いという考えが、少しはあったのかもしれないな。それでイアに接触してきたのかもしれん。けど、将佐はそれを知ってまるでイアが伯爵と手を結ぼうとしているように見えた。だから焦ってなんとか聞き出そうとしたのかもしれない。どういうつもりで今さら自分の祖国と関わろうとするのかとね」

 通報の記録が消えてたのも、将佐が関わってたのなら納得いくしな、と続けられて、イフェリアは瞬いた。

「どうして?あれ、将佐が廃棄したからなかったんだって言いたいの?」

「そうだよ。エアルが記録を確認しようとしたらもうなかったんだと言われたな。なんでも通報を受けて駆けつけた先で死んでいた女優が、人を殺した疑いがあるとかで、通報記録を調べようと思ったらしい。そしたらもうなかったんだと。エアルは交換手が、つまりはお前が録音をし損なったんじゃないかと思ったみたいだったが、俺は記録がなかったのは将佐が廃棄したからだと思ってる。今にして思えばだけどな。将佐ならできただろうし、通報の記録を廃棄しておけば、時の経過とともにシェリヴィナなる女優のことは忘れられていくと思ったのかもしれん。お前が言っていたとおりシェリヴィナという女優の最期の声が、麻薬乱用者には思えないほど冷静だったとしたら、その事実をきっかけとして誰かがシェリヴィナの身辺を調べようとしてしまうかもしれないからな。それを避けたかったんだろう。麻薬を使用している者だからといって必ずしも錯乱しているとは限らないが、シェリヴィナという女優があの伯爵を通じて軍と繋がっているのなら、彼女に関して軍人の関心を誘発しかねない代物は消したかったはずだ。通報記録がなければ、最初からそんな電話はなかったことにできるからな。もっとも俺はエアルから記録の不備のことを聞いて、その女優はいったい軍のどんな不祥事に関わっていたのだろうとかえって好奇心を高めたが。彼女の家も調べてみたよ。なかなか難しかったけどね。シェリヴィナのことを調べてみようとしても、個人で調べるなら情報源が雑誌ぐらいしかないから。それでは日頃の行動範囲も分からんし、家のなかにもたいしたもんはなかった」

 イフェリアは唐突に、レオディラスの部屋で見た雑誌の書き込みを思い出した。それからかつて見た、シェリヴィナの自宅の玄関の、採光窓に見えた不自然な懐中電灯の光も思い出す。ではあれらは、レオディラスがそれらを調べた痕跡だったのだろうか。

「・・今の話、全部私に信じろというの?」

 イフェリアはレオディラスに疑惑の眼差しを向けた。

「それを言うためにわざわざ来たの?そんな、事実か空想かも判然としないような話を聞かされるために私はこんな時間まで起きて待ってたわけ?勘弁してほしいんだけど。明日は早朝から仕事なのに・・」

「信じられないのなら確証を渡そうか」

 言いかけた言葉を途中で遮られ、イフェリアは口を噤んだ。レオディラスは自分の鞄から何かを取り出す。それをイフェリアに手渡してきた。

 手渡されたそれはビニール袋に入った一本の短剣だった。見覚えのある代物だった。あの、ルリアの描いた絵の裏から出てきたあの鞘なしの剣だ。

「それは、姉貴がベルガルトの王宮から持ってきたものだ。女王の御物だ。赤ん坊だったお前を守るために女王自らが武器をとられて逆賊と対峙された」

 レオディラスは特に感情を感じさせない表情で淡々と語った。

「刃先に戦った跡が残っているだろう。その痕跡が、女王が謀反で死んだことを証明するための数少ない証拠の一つになる。王室の人間は、そういう時でもないと自ら剣を抜いたりしないからな。だから絶対に失うわけにはいかなかったものだ。ずっと俺の家に隠してた。当時のまま保管してある。仮にも王室の御物だった代物だから、調べればすぐに出所は分かるはずだ。イアの血筋の由来だって、調べる方法ならいくらでもある。必要になればクロウスティンさんがいくらでも手配してくれるだろう。王家の人間がいなくなっても、それは直系の話だ。ベルガルトの貴族は爵位の有無に関わらずほとんどが王家の親族にあたる。降嫁して王家を離れた元王女やその嫡出の子孫のような、直接、王家と血が繋がった者にだけ爵位が与えられているんだ。クロウスティンさんやリリスティアさんなら、そういった家々にもまだ伝手が利くかもしれん。特にベルガルトの侯爵は王様の妹、つまりはお前の叔母だから、彼女の血液とお前の血液を比べることができればいちばん話は早いだろう。なんならその手配は俺がしてやる。王妹は姉貴の乳姉妹だからな、まだ浅からぬ縁が続いてるんだ。お前の言葉なら、俺は拒まんし姉貴も拒否はしない」

「・・ずっと隠してたなら、なんで今になってこんなこと打ち明けるの?」

 イフェリアは呆然と差し出された短剣を眺めながら首を傾げた。レオディラスの真意が、まだすんなりとは理解できない。彼の話が真実であるか否かはともかくとして、なぜそれを今、それも今頃になって打ち明けようと思ったのだろうか。

 だがレオディラスの答えは単純なものだった。それは将佐がお前の出自に勘付いているようだからだという。

「今日、お前から電話を受けて事情を聞かされて、それで俺は理解できた。将佐がお前の出自に気づいているのなら、遠からずお前のことは軍の全体に知れ渡るだろう。いったん事が公になってしまえば、お前はもう今のままではいられなくなる。それならその前に何もかも明かして、俺も準備をしておこうと思ったんだ。俺もお前と一緒に在学中に法学を学んで、弁護士となれる資格を手に入れただろう?ならそれを活かさない手はない。弁護士となれば戦う場所を戦闘機の操縦席から法廷に移すことができる。俺一人じゃ故国の逆賊に立ち向かおうとしても無理だ。だから姉貴もクロウスティンさんたちも、サーヤさんたちもこの国に逃げる道を選んだ。けど、弁護士となって戦いの場を法廷に移せば、法と秩序が俺に味方をしてくれる。国を相手に裁判を起こして勝利と名誉をもぎ取ることもできるんだ。弁護士となればレウェーストリアの国際裁判所に提訴することができる」

 レウェーストリアの国際裁判所。イフェリアはその言葉を口中で反復してみた。レウェーストリアはレウェーストリア連邦共和国の首都である。そこには国際裁判所があった。国際裁判所は通常の国家の司法権下にある裁判所とは異なり、個人を裁くことはまずあり得ない。ここはいわば国が所属する施設であり、国家間で起きた揉め事を訴訟の形で仲裁することによって決着を図るための施設だ。かつて紛争によってしか解決できなかったようなそれらの外交上の懸案を法廷の場で無血のままに解決させるための機関であり、この大陸にある全ての国が所属することになっている。いちど提訴すれば相手の国に降りることはできず、下された判決にはどんな君主も従う義務を負っていた。国際裁判所の判事は一人ではなく、大陸にある全ての国から代表者が一人ずつ遣わされてきて、全員の協議で判決を出すことになっている。訴訟が常に特定の国に有利に動かないようにするための制度であり、条約の形で結ばれた国同士の約束事だった。確かに、レオディラスの話したことが全て真実なら、ベルガルト王国の最後の女王に起きた惨事を全て公に示したいのなら、彼女の持てるものを全て不当に奪った者に、真っ向から抗いたいのなら、国際裁判所に提起するしかない。なぜならどれほど不当な手段であろうと、一国の国主を倒して政権を奪った者はその国の国主だからだ。そんな人物に、個人が戦いを挑めるわけがない。個人が戦いを挑むなら、どうにかして国際裁判所に提起するしかないのだ。

 しかし個人は普通、国際裁判所に提訴することができない。国際裁判所に提訴できるのは国家だけ。つまりその国家の国主か、その代理人だけだ。だからこそレオディラスの言葉が事実だとしてベルガルトから逃げてきた人々は黙ってこの国に馴染む道を選んだのだろう。だが弁護士となればまた話も異なってくる。弁護士には裁判所で国家を提訴できる権限が与えられている。それは国内の行政機関において問題が発生した折に国民の権利を守るための権限だったが、同じことを国際裁判所でもまた行うことができた。レオディラスはそのことを言っているのだろう。軍を退役し、国際弁護士となることで国際裁判所に提起し、自分の祖国に秩序ある戦いを宣戦するつもりなのだ。

 イフェリアは返答に迷っていた。レオディラスの言葉を受け入れるべきだろうか。確かめればすぐに分かる、そのための手配もすると言っている状況で、彼が虚言を述べるとは考えにくい。なら、イフェリアは彼に協力するべきなのではないのか。レオディラスが真実を述べているのなら、イフェリアは彼に協力するべきだ。レオディラスの言葉が真実なら、イフェリアはベルガルトの王族ということになるのだから、国際裁判所への提訴も、より簡易になる。そもそも一国の国主に連なる一族なのだから、提訴はイフェリアが持って生まれた正当な権利だからだ。イフェリアは彼について、その権利を行使するべきなのだろうか。 そこまでする必要はない、と思う。なぜならイフェリア自身はベルガルト王国に何の愛着もないからだ。一度も訪れたこともなく、最後の女王とやらにも面識はない。実は自分の実母と言われても絵空事のようだった。イフェリアにとっての両親は、あくまでもクロウスティンとリリスティアの二人であり、イフェリアは二人を愛していた。イフェリアにとって、祖国はこの国であり、家族とはあの二人のことなのだ。

 それを思うと、意識せずともイフェリアの口からは溜息がこぼれ出た。息とともに、自分のなかの迷いも外に出ていったような気がする。

 ――ベルガルトの王女は、もう死んだのよ。

 レオディラスが言っていたではないか、ベルガルトの王女は死産だったことになっているのだと。王女はすでに死んでいるのだ、自分が王女だとしてももうそれは意味をなさない。むしろ自分が動くことは死んだ王女の亡霊が徘徊するのと同じことだ。亡霊が出没することは望ましいことではない、死者は墓の下で眠るべきだ。イフェリアはイフェリアとしてこの国で生まれ直した。ならば、自分の生きる道はもう、この国にしかない。

 ――今頃になって、幽霊みたいに彷徨い出るくらいなら、いっそ完全に死んだほうがいいわ。

 思い定めると自分の思考は澄み渡ったようにイフェリアには思えた。口を開く。結論を伝えるためにレオディラスのほうを向き直った。

 この思いは彼にも理解してほしい。生まれ変わってこそ、死者には幸福が訪れるのだから。

 自分に必要なことは、秩序の下に戦うことではない。生まれ変わるために、完全に死ぬこと。ベルガルト王国の王女を殺すことなのだと。


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