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私の知らない私


「――どうしてなの?どうして彼が・・」

「悪い。少し落ち着いてくれ。そう早口だとよく聞こえん」

 受話器を通してそう窘められて、イフェリアは少し押し黙った。それから、今度は少し落ち着いてゆっくりと話しかける。自分が焦ったせいで肝心の情報が聞けなくなってしまっては意味がない。

 電話の相手はレオディラスだった。レオディラスがエアルが放火を自白した報を電話でもたらしてくれたのだ。イフェリアが自宅へ帰ったことで、イフェリアと近しい彼が連絡の役を仰せつかったのだという。それでレオディラスが電話で全てを伝えてくれた。昨夜の火災は放火だったこと、死者はいないが軽傷者が数名おり、それらは全員手当てを受けていること、出火した部屋は全焼したこと、事件について事情を聞きたいから今日は臨時休暇とすること、だからずっと自宅で待機していること、今日じゅうに事情を聴くために兵士が訪ねることなどを、淡々と伝えてくる。

「――そーゆーわけで、今日はちゃんと家でおとなしくしてろよ。お前の仕事は家でおとなしく休養して、兵士の尋問にきちんと答えることだ。勝手にどっかに出るんじゃねえぞ」

 じゃ、と必要なことは告げたと言わんばかりに通話を切ろうとしたレオディラスに、イフェリアは慌てて言葉を足して会話の継続を促した。

「なんだ?まだ何か用か?俺はお前と違って忙しいんだが」

「用ならあるわよ。まだ聞いてないことがあるわ。どうしてエアルはそんなことをしたの?動機はなに?自白したならそんなことぐらいもう分かっているでしょう」

 しかしイフェリアのその、最も聞きたかった質問には沈黙しか返ってこなかった。それは後で尋問に行く兵士から直接訊いてくれと言われて電話を切られてしまう。

 虚しく不通音だけを繰り返す受話器を、イフェリアは恨めしく思いながら眺め、そして電話機に戻した。本当ならかけ直したいが、レオディラスがどこからかけてきたのか分からない以上、番号を調べようがなかった。おそらく基地にいるのだろうが外部の電話を受ける受付電話にかけて取次を頼んでも、あの調子ではおそらくすぐに切られてしまうか、あるいは多忙を理由に通話を拒否されてしまうかもしれない。

 ――なんなのよ、分からないなら分からないっていえばいいことじゃない。

 なんとなく腹立たしい思いがした。なにもレオディラスならなんでもかんでも知っていると思い込んでいるわけではない。自分より二つ年上の友人は、確かに自分よりも知っていることもできることも多いが、それでも万能でないことぐらいはよく知っていることだ。なら一言、知らない聞いていないといってくれればそれでいい。なのにどうして、あんな言い方をするのか。

 しかしだからといってその不満を口に出せないのだからいっそう不満が高まってくる。イフェリアは電話機の前を離れ、居間のソファに腰を下ろした。とはいっても何もするべきこともない。居間でできることといえばソファでくつろぐこと、電話をするかラジオを聴くことぐらいだ。この時間はもうラジオでは報道番組などやっていないし、ソファに座っていても暇なだけだ。壁際のステレオでレコードでも聴きながら、兵士が来るまで時間でも潰していようかと思ったが、どうもそれは気が乗らない。そんな無為な時間の使い方をするのは性に合わない。

 ――書斎で新聞でも読んでこようかな。

 新聞はこの家ではいつも、配達されてくるなり書斎の専用の書架にしまって、書斎の机で読むことになっている。今朝の朝刊にはまだ事件のことは載っていないだろう、掲載されるなら夕刊だろうと思ったが、それでもここで時間を無駄に浪費するくらいなら書斎で新聞や雑誌や、何か読み物でも探して読書したほうがましだ。休養してろと言われたって、兵士がいつ来るかも分からないのに昼間に寝ている気にもなれない。暇潰しなら音楽室で楽器を弾くという方法もあるし、音楽は苦手なイフェリアも簡単な曲ならピアノでもバイオリンでも弾けた。しかしあの日の侵入者が入り込んできたのが音楽室であったことを思うと、どうしても立ち入る気にはなれない。

 それで階段を上り、二階の書斎へ入る。書斎には誰もいなかった。いつも書斎を根城のようにしている父は、今は私室のほうにいるらしい。それでイフェリアは一人で室内に連なる書棚を歩き回り、書架から今朝の朝刊を抜き出して机の上で開いた。一面の政治の記事から順に、記事を読んでいく。

 ――あ、エアルが載ってる。

 朝刊にはエアルの記事が、彼の顔写真つきで掲載されていた。といっても、事件に関する記事ではない。それはまだ掲載されていない。執筆か印刷か、どちらかが間に合わなかったのだろう。記事はなんということもないインタビュー記事だ。駅のホームから転落した盲人の女性を、汽車が迫っているにも関わらず線路に飛び降りて救出した、英雄的な人物としてけっこう大々的に取り上げられている。そういえばそんなこともあったとイフェリアは思い出した。彼は昔から正義感が高く、心優しい人物だった。初等学校に通学していた頃からそれは変わらない。エアルも、イフェリアにとっては大切な友人であり、幼馴染みなのだ。レオディラスほどには付き合いは長くないが、子供の頃からよく遊んだし、軍に入ってからも親しく行き来している。配属は違っても関係は途切れたりしなかった。彼をよく知るイフェリアには、どうして彼がそんな残虐な犯罪に手を染めたのか分からない。

 何かの間違いじゃないかと思いながらイフェリアは今朝の朝刊の、彼の勇敢さを称える記事を読む。おそらく、あと数時間後には届く夕刊では、これと全く正反対の内容と印象を与える記事が掲載されるはずだ。それを想像すると、今から胸が苦しいような気分に襲われる。

 そのとき、一階のほうで小さく、軽やかな鐘が鳴るような音が響いてきた。

 ――来たかしら。

 その音に軽く椅子から腰を浮かせ、応対に出ようと立ち上がりかけたが、それより早く足許から誰かが廊下を歩くような音と声が小さく聞こえてきた。どうやら母が応対に出てくれたらしい。二階に上がる時、イフェリアは母が一階のアトリエに入っていくところを見たから、たぶん先に客の来訪に気づいてくれたのだろう。

 母が応対に出てくれたので、イフェリアはゆっくりと階下に降りた。案の定、訪ねてきたのは兵士だった。一目で警邏隊と分かる徽章を胸元に付けている。イフェリアの尋問のために来た兵士なのは間違いなさそうだった。イフェリアはこの兵士とは親しくない。彼が家を訪ねてくる道理がない。

 兵士とは居間で話した。イフェリアの自宅には応接室などないため居間に招き入れるしかなく、尋問には父母も同席した。本来であればすでに子供ではないイフェリアの尋問に親が同席し、火災の被害者の聴取にわざわざ兵士が自宅まで来るのも異例のことだ。事件がそれだけ重大なことと軍でみなされているか、エアルのことをイフェリアに問い質そうとすると軍の機密に触れる恐れがあるから迂闊な場所では話を聴けないのか、どちらかだろう。あるいはどちらでもあるのかもしれなかった。軍人が市民の泊まる普通のホテルに放火したなど、前例のあることではない。それだけ重罪なのだ。火災で犠牲者が出るのは、人々が就寝中の深夜に出火した場合がいちばん多い。そんな深夜に人が寝泊まりする建物に火を放つなどという行為は、殺人に匹敵する犯罪だ。実際、火災に気づくのが少しでも遅れていたら、あるいは早く気づいても避難に手間取ったりすれば、逃げ遅れて何人かは火か煙か、どちらかの犠牲になったかもしれない。

 イフェリアは尋問の兵士に問われるままに、昨夜、泊まったホテルで起きたことを順繰りに話していった。泊まったのはホテルの八階であったこと、エアルも宿泊しているとは知らなかったこと、火災報知機の音で目が覚め、廊下に出た時にはすでに煙が充満していたこと、軍人の責務を思い出してその階の宿泊者を全て避難誘導したこと。

 質問に答えていきながら、イフェリアのほうも兵士に問い質していった。といってもイフェリアのほうに聞きたいことは幾つもない。しかもそのうちのほとんどはいずれ新聞やラジオが伝えてくれることだ。この場で聞きたいことは、一つしかない。

「――ひとつ、お伺いしたいんです。エアルがあのような犯行をなしたのは、どうしてなのですか?」

 イフェリアが訊きたいのはそれだけだった。他のことには今はあまり関心がないし、あっても後で調べられる。しかしこればかりは、いま訊かなければ今後そうそう訊く機会が訪れるとも思えない。放火犯として逮捕されてしまえば、エアルは程なく軍から除籍される。放火なら、場合によって大量殺人未遂で有罪となることもあるから、そうなれば何年も懲役に服すこともありえた。すると、今後はそう簡単に会うことも叶わなくなる。

 兵士はイフェリアの問いかけに沈黙した。ひとしきり口籠もっているように見える。答える意思がないのではなく、どう答えようか迷っているようにイフェリアには見えた。それで、あえてイフェリアも促すようなことはしなかった。言い難いことなら、本人が自発的に口を開くまで待ったほうがいいだろう。

「――あれは、とんでもない悪党です」

 しばらくして、漸く口を開いたその兵士は、ぽつりと、一言だけそう述べた。

「自分で罪を犯しておいて、それが暴かれそうだからと殺そうとするなど、もはや人のすることとも思えません」

 はっきりとした断罪だった。イフェリアは怪訝に思って再び問い質した。

「自分で罪を犯した?エアルが何か、罪を犯していたのですか?その、昨夜よりも前に」

「そうです。彼は基地から機密資料を盗んだ。そしてそれを、基地外の人間に売っていたんです。そのせいで軍の機密が犯罪に悪用された。少なくとも一人、そのために死んだ者がいることを、私も確認しています」

 イフェリアは唖然とした。

「――機密が、盗まれた?それはどんな機密です。エアルは警邏隊にいたはずです。警邏隊が扱える機密なんて限られているでしょう。しかも売ったとはどういうことですか?そのために死んだ者がいるなど、いったい彼は何を盗んだのです?武器か弾薬か、そんなものですか?」

 それならばありえる話かもしれない。あのエアルが金銭のために自分の所属する基地の武器を売り払うなど、考えにくかったが、そういうことは時々あることだった。軍が使う兵器は高額だ。それを盗み出し、売るところに売ればかなりの金額を稼げるだろう。実際、同じことを考えて武器や装備品を横流しし、軍を放逐される兵士は毎年のように現れる。

 武器を売り払えば、その武器によって誰かが殺傷される可能性は充分以上にある。というより、人が武器を購う理由にそれ以外のものがあるのだろうか。盗んで売った武器のせいで誰かが死んだとなれば、確かにエアルは非難を免れられないし、それから逃れるために大勢の何の関係もない人々の生命を危険に陥れたとなれば、それはたいへんな犯罪だ。兵士が人でなしと指弾するのも、理に適っている。

 しかし兵士は、イフェリアの問いかけに首を振った。

「いえ、武器などではありません。本来であれば、決して武器としては使うはずのなかったものです。医療隊が開発していたものですからね。兵器などであるはずがありませんし」

 医療隊、その言葉にイフェリアは目を瞠った。医療隊が開発していた機密の資料、それが盗まれた、それに該当するものを一つしか知らなかった。

「――医療隊、が開発していたものが盗まれたのですか?それは、ひょっとしてあれですか?医療隊が開発していた新薬の、資料が盗まれたとお伺いしましたけれど。そのせいで、それを麻薬として摂取した女性が、死んだのだと」

 たしかシェリヴィナという名前の女優だったはずですが、そこまでを口にすると、今度は兵士のほうが目を丸くしてきた。

「ご存じだったのですか?」

 その一言に、イフェリアは自分の言葉が正しいことを悟った。イフェリアは頷き、自分がそれを知ることになった顚末を語って聞かせる。件の老紳士のことに話が及ぶと、兵士は勿論、傍らに控えた父母までもが、驚いたような表情を向けてきた。

「・・それは、どんな人物でしたか?」

 兵士が身を乗り出すようにして訊ねてきた。イフェリアは自分で描いた似顔絵があると、兵士に中座を申し出、居間を出て自分の私室へ向かう。自分専用のソファの上に投げ出しておいたバッグを開き、なかから昨日似顔絵をしたためたノートを取り出してそのページを開くと、それを持って階段を降りた。居間に戻ってソファに着席してから、兵士にノートを差し出す。

 兵士はノートに描かれた絵を見つめた。興味深げな表情で絵を見ているが、それ以上の感情は窺えない。知っている人物ではないのだろう。この老紳士が犯罪者であることを思えば、それは幸いなことには違いないが、しかしイフェリアは彼の様子には意識を向けられなかった。ノートを兵士に差し出した瞬間、傍らの両親が揃って息を呑んだからだ。

「――どうしたの?」

 イフェリアは両親を振り返った。するとその言葉が合図だったかのように我に返った様子を見せた母が、大丈夫、と首を振る。それから気遣わしそうにイフェリアを見つめてきた。

「それよりイアは大丈夫なの?この人に何か嫌なことはされなかった?何もない?本当に平気なのね?」

 まるでどうか大丈夫であってほしいと懇願するような口調だった。イフェリアは僅かに戸惑ったが、頷く。まるで母は、イフェリアが火災に巻き込まれたことよりこの老紳士に会ったことのほうを心配しているように見えた。

「――分かりました」

 ふいに兵士の声が聞こえてきた。それで兵士のほうへ視線を戻すと、兵士はノートを指し示してくる。

「こちらは、お借りしても宜しいですか?上のほうに、報告しなければなりませんので」

 イフェリアは頷いて、構わない、と返した。もともとそのつもりで描いた絵だ。いっこうに問題ない。

「有り難うございます。――なるほど、それであの男は放火などという蛮行に出たのでしょうね」

 兵士は礼を述べてきた。イフェリアは首を傾げた。

「どういうことですか?なぜ、あのホテルの放火が機密の盗難などという事態と結びつくのですか?」

「おそらくあなたがこの老人と接触したからですよ。彼はあなたの話からするとおそらくこの老人に機密を売っていた。ならばあなたがこの老人と接触したことで彼は自分のことがあなたに知られてしまったと思い込んだのだと思います。それで焦ってあなたの口を封じようとした。しかしあなたが助かってしまったので、観念したのではないでしょうか?助かってしまえば、もはや逮捕は免れられないのだから、その前に自首したほうが裁判で有利になると」

 愚かしいことですよね、罪から逃れようとしてさらに重い罪を負うだなんて。兵士は苦笑のような嘲笑のような微笑を浮かべてイフェリアに同意を促してきた。イフェリアは一応、それに頷いて話を合わせる。しかし心の底では、兵士の推測には異を唱えていた。

 エアルはそんな人物ではない、と。


「――イア、軍を退役する意思はないか?」

 その日の夕方のことだった。久しぶりに家族揃った夕食の席で、突然にイフェリアは父からそのように言い渡された。

 どうして、とイフェリアは首を傾げながら蒸し焼きの鶏肉にフォークを伸ばす。父の発言の意味を図りかねた。

「なんで、急にそんなこと言うの?まだ入隊して一年も経ってないのに」

「イアは、士官学校で軍事以外にもいろいろと学問を学んだんだろう?なら、なにも無理に軍に籍を置かねばならない必要もないはずだ。最近は卒業と同時に、入隊を拒否して野に下る若者も多いと聞くぞ。同じようにしたほうがいいのではないか?そのほうがイアは活躍できるはずだ。――言うべきではないだろうが、イアは女の子だ。足も悪い。軍人を続けるのは不利になるだろう」

 それは、とイフェリアは鶏肉と一緒に言葉も飲み込んだ。確かにそれは事実だ。軍は昔から男社会の典型のようなものだ。士官学校に入学してくる者も、圧倒的に男性が多く、一般兵士の入隊検査でもそれは同様だ。むしろ一般兵士の場合はもっと露骨なこともある。健康状態、能力、年齢など、どれも同じくらいの資質しかなかったら女性よりも男性のほうが優先的に採用になるのが常であった。昇進においても、そうだ。前線に出るのは男が優先されるから、当然のように男のほうが出世も早くなる。さらにもっと優先されるのは健康状態だ。無事に入隊しても身体を壊して短期間で除隊を余儀なくされる兵士は毎年のように現れる。今のイフェリアがもしも一般兵士の入隊検査を受けたなら、最初に受ける軍医の健康診断で呆気なく入隊を見送られることだろう。足が片方不自由な女など、食堂の料理人としても使い勝手が悪い。軍人など論外だ。それでも自分が軍人でいられるのは恩情にすぎない。憐憫と同情だけで、イフェリアは通信室にいるのだ。

 それなら早いうち、若いうちに退役し、転職しておくべきだという父の意見は正論だ。士官学校はそれなりに難関で知られている。そこを卒業したとなれば、たとえ首席でなくても転職において不利にはならない。しかもイフェリアは単に卒業しただけではない。在学中には法学を学び、弁護士となれる資格も手に入れた。必修の数学も成績は良かったから、免状を持っている。意欲さえあれば数学の教師として中等学校で教えることも可能だ。さらに所属していたスケートの愛好会でも技術を磨いてきた。競技会では上位に入賞したこともある。足が悪ければスケーターは務まらなくても、イフェリアの実績があれば振付家になることだって、全くの不可能ではない。――なにも軍人に拘る必要はどこにもないのだ。

 たしかにイフェリアも、軍人になりたくてなったわけではなかった。五歳で初等学校に入学し、十歳で中等学校に入学し、十五歳で士官学校に入って十八で卒業するまで、思い返せばただの一度も心から軍人を志望したという自覚がない。それでなぜ試験も難しく厳しい軍事訓練のある士官学校を志望したのかといえば、なんとなく流れで、としか答えようがなかった。イフェリアは小さい頃から部屋で静かに絵本を読んだり人形遊びをするより、外を駆け回ってスポーツをすることのほうが好きだった。だから将来は身体を動かし、あちこちを飛び回るような仕事をしたいと思っていただけで、そのときに偶然、士官学校の志願書が目に入ってきたから受験してみようと思っただけにすぎない。ちょうどレオディラスやエアルが受験のために準備をしていた頃だったから、おそらく彼らの影響が大きかったのだろうと今なら思う。べつに彼らと離れがたかったわけではないが、彼らは最初から軍人を志していたから必然的にイフェリアも軍が魅力的に見えたのだ。

 それを思えば退役することに躊躇う理由は何もない。辞職を申し出ても慰留されることはないだろう。通信室の交換手など、代わりはいくらでもいるのだ。イフェリアはもっと、自分の持てる能力を存分に活かせる職場を探して移るべきだろう。しかしそれを実行に移すことに躊躇があった。他でもない、自分の心が父の意見を受け入れなかった。いま軍を退くなどと言えば、自分は十八にもなって親に道を示してもらわねば進むべき方向も見定められないのだと、認めることになりそうで怖かったのだ。

 ――私は、もう、子供じゃない。

 ふいに浮かんできたのはその思いだった。イフェリアは父の提案に首を振った。自分の意思には自分の意地しかないことなど、理解していた。


 翌日はまたいつもどおりに基地に向かった。

 たいして負傷もしていないなかで、そうそういつまでも休んでいるわけにもいかない。身体に何も異常がなければ臨時休暇は昨日で終わり、今日は朝から予定どおり通信室に入らねばならないのだから、イフェリアは通常どおり早朝に起きて家を出た。いつもと同じように通い慣れた道を歩き、いつもと同じように停留所に着き、だがしかし今日は、ほんの少しだけいつもと違うことが起きた。停留所に着いてベンチでバスを待っていると、突然傍らから声をかけられたのだ。

「・・ねえ、あなた、もしかしてイアちゃん?」

 親しい者しか呼ばないはずの愛称でいきなり呼びかけられて、イフェリアは驚き、声の聞こえたほうを振り返った。見ると、ベンチの傍らで一人の女がこちらを見て呆然としたような表情をしている。

 見覚えのない女だった。年の頃は四十代くらいに見える。どこにでもいそうな平凡な顔立ちの女だったが、それでもすぐにイフェリアには知らない人物だと分かった。イフェリアを愛称で呼ぶ人物はそんなに多くなく、そのなかに、この年頃の女は一人もいない。

 誰だろうと怪訝に思った。それでしばし首を傾げて女を凝視していると、女のほうが、ああ、と得心したような顔をする。

「そっか。覚えてないわよね。私のほうはあなたのこと、忘れようがないんだけれど。あなたはまだ小さかったし。当然よね」

「――あの、あなたは・・」

 困惑して恐る恐る問い質した。なんだか自分のことで勝手に納得されているようでもあるが、他人に妙な思い込みを抱かれるのはイフェリアとて困る。いったいこの女は何を考えているのか。

「私?私はライナよ。少し先の、ノースレイク地区の診療所で看護婦をしているの。あなたは覚えていないのでしょうけれど、私は昔、あなたのご両親に雇われたことがあってね、よく世話をしたわ」

 え。イフェリアは訝しく思った。両親が自分が幼い頃、自分の世話に看護婦を雇っていたなど聞いたことがなかったからだ。幼い頃、母は音楽活動を一時、引退していたからずっと家にいたはずだし、イフェリアは病弱でもなければ兄弟姉妹もいない。世話にわざわざ看護婦を雇わねばならないほど、手のかかる子供でもなかったはずだ。実際、イフェリアはライナなる女の顔にも見覚えはないし、そんな名前にも聞き覚えがない。

 もしや人違いではと思った。この女は、自分を誰かと勘違いしているのではないかと。他に考えようがない、たまたま自分と同じ愛称の女性が他にいて、この女は自分を、その女性と勘違いしているのだ。

 しかしそれを説明しようとしたイフェリアの言葉は、女の言葉に遮られた。

「あなたのことは忘れたことがなかったわよ。あんな恐ろしい事件があったのですからね。そうでなくても、あなたのような綺麗な色の瞳を持ってる子なんて、あの辺りには一人もいなかったし」

 綺麗な、瞳。そう言われてイフェリアは一気に不快になった。イフェリアの瞳は紫色だ。この国ではまず見かけない色は、幼い頃からイフェリアの気に入らない身体の特徴の一つだった。母は綺麗な色で羨ましいといい、自分の血筋に異邦人がいるだけなのだろうから気にするなといって宥めてくれたものの、それでも小さい頃からずっと不満だった。どうして自分だけが、他の人と違うのだろうと、それが不満だったのだ。

 だからこそ、こうして見ず知らずの他人に言われるのは不快だった。イフェリアはライナなる女を睨みすえた。

「私はあなたなんか知りません。さっきからなんですか、旧知の人間を装って何かの売り込みを仕掛けるつもりなら、他を当たってくれません?私の相手なんかしても時間の無駄になるかと思いますよ、あなたにとっても」

 不快さに身を任せて言い放つと、女は少し傷ついたような表情になった。それから申し訳なさそうな感じで口を開いてくる。

「ごめんなさい、私はあなたに不愉快なことをさせたのかしら?もしそうなら謝るわ、そんなつもりはなかったの。私は本当に、たまたまあなたを見かけて懐かしくて・・。だってあんな事件、ノースレイクでも滅多にあることじゃなかったから、あなたがその後どうしているか、ずっと気になってたのよ」

 不遇な立場に置かれたりしてないか、心配だったから、と女は続けた。

「でもそんなことはなかったみたいね。よかったわ。あんなに小さかったあなたが、今はこんなに立派に成長しているのだもの、ご両親も喜んでらっしゃるわね。一歳の子を遺して先立たねばならないなんて、相当に無念だったはずだから・・」

 女の言葉は途中で聞こえなくなった。喋りが止まったのではない、イフェリアの耳に聞こえなくなったのだ。ちょうど滑り込んできた目的地へのバスにイフェリアが乗り込んだのだ。いつも乗り慣れた路線バスだが、この時ばかりは救いの神に見えた。

 バスに、女は乗ってこなかった。行き先が自分とは異なるのかもしれない。運がよかったと胸を撫で下ろした。バスに乗ってまで、あの女の妙な戯言を聞かされ続けては堪らない。

 ――いったいなんだってのよ、朝っぱらから変質者の相手なんかしたくないわ。

 心の奥で罵り、イフェリアはバスの天井に視線を向けた。そこに吊り下げられた車内広告をひたすら眺めて読み込んで、必死に広告内容の吟味に頭を使おうとした。さして興味のもてない品々の広告だったが、直前の不愉快な出来事を早く忘れるためには、とにかく頭を使うことがいちばんだと思えた。

 ――ああ、早く忘れたい。


 ――ったく、なんで私がこんなこと調べなきゃなんないのよ。

 イフェリアは内心で不平不満を喚きながら、しかしそれを表には出さずに書棚に本をしまった。

 ――今日って、実は厄日だったのかしら。こんな面倒なことばかり起きるなんて。

 愚痴りながら書棚に並ぶ本の題字をざっと眺めていく。次に必要な本はすぐに見つかった。それを抜き出し、閲覧席に向かう。椅子に腰かけ、大きな机の上で本を開いた。

 イフェリアが開いた本は、なんということはない単なる鉄道の時刻表だった。さっきまで見ていた本もこの国の西部の地図にすぎない。ここはイフェリアの自宅の近所にある公立図書館の閲覧室なのだ。時刻表や地図や、市民にも馴染みのあるそれらを収めた本が多数所蔵された書架を背に、イフェリアはウィングフォレストなる西部の街までの行き方や地理などを調べている。できるだけ安い旅費で効率的に移動するためにはどうすればいいか、そのための手段を調べているのだ。

 もちろんイフェリア自身がここに赴くわけではない。それなら不平を抱いたりはしない。ここに実際に赴くのはイフェリアの所属する通信室の室長だった。いったい何の用事があるのかは分からないが、室長が近々、この地を訪れることになっている。それで空いた時間に調べて、電話で教えてくれないかと寄越してきたのだ。はっきりいって迷惑である。

 ――自分の移動のことなんだから、自分で調べてほしいわよ。

 思えば今日の昼下がり、食堂でうっかり口を滑らせたことが全ての原因なのだろう。だからこんな雑用をさせられることになるのだ。イフェリアは自分の軽率な言動を激しく後悔した。自分が学生の頃、学友とこの地まで旅行したことがあるなど、完全に不要な言葉だ。おかげでこの地に詳しいのならと余計な役目を仰せつかってしまった。忌々しい。

 そうは思っても一度引き受けた仕事はしっかり最後まで完遂しようとイフェリアは本を見ながらノートに必要事項をしたためていった。公文書ではないのだから、形式に拘る必要はない。要は後で帰ってから電話をする時に、必要なことが全て伝えられればいいだけだ。

 ――さてと、これで情報は全部揃ったかしらね。

 イフェリアは地図を見ながら書いていった街の主要施設の位置や名称を確認していきながら、これまでに書いていったことを確認していった。鉄道の発着時刻、乗り換え手順、宿泊できるホテルの数や位置や料金、客室設備、現地で利用できる交通手段。

 一度は旅行で訪ねたことのある場所だから、調べるのは楽だったが、改めて最新の資料で調べてみると発着時刻には変更が多かったし、施設の数にも増減が多かった。それらの変化に新鮮さと時の流れを感じながら、情報に漏れがないことを確認すると、イフェリアはノートをバッグに戻して本を棚に戻す。閲覧室を出ようとして書架の間を歩き、ふと一つの閲覧席の前で足を止めた。今は人気がない。

 ――せっかく来たんだから、ちょっと見ていこうかな。

 そこは閲覧席というより小さな書庫のような造作をしていた。扉はないものの、窓のない個室のような造作をしていて、なかは壁一面が書棚になっている。中央に大きめの机が一つあって、そこで資料を読めるようになっていた。イフェリアはその個室のなかに足を踏み入れた。

 この部屋は新聞室と呼ばれている閲覧室だ。壁際の書棚にはこの地域で発行されている日刊新聞が日付順に収蔵されている。日付を確認してみると、新聞は今日から二十年前までがこの部屋に保管されているということだった。それより古い新聞は、司書に申し出て特別閲覧室と名づけられた部屋でのみ閲覧できることになっている。だがしかし、イフェリアにはそんなに古い新聞は必要ない。

 ――ノースレイクで十七年前って、なにかあったかしら?

 十七年前といえば、自分が一歳の時のことだ。記憶になどあるはずがない。今朝の妙な女の戯言を真に受けたつもりもない。ノースレイクという街そのものに、ふと興味が湧いたのだ。

 ノースレイクといえば、イフェリアの住むフラワーレイン地区よりはかなり北に位置している街だ。行ったことはないものの、それなりに大きな都市であるらしい。都市であるならばそれなりの人口も抱えているはず、ならば事件や事故など珍しくもないことのはずだ。自分が気にすることは何もない。それでもなんとなく手に取ってみる気になったのは、単なる好奇心だ。自分が生まれた頃にこの国で、何が起きていたのか、知ってみるのも悪くない。

 そう思って十七年前と十八年前の新聞を適当に抜き出して机の上で広げた。まずは自分が生まれた日付の新聞を広げ、その日の政治や経済の動きを見てみる。その後で当時流行っていた風俗などの記事を読み、人気のあった歌手などを紹介する記事を読んで、なんとなく微笑ましい思いがした。こういう日に自分がこの世に生を受けたのだ。これが、自分が生まれた日の世界。

 ひとしきり新聞を眺め渡し、それを畳むと今度は十七年前の新聞を広げた。こちらのほうも一面の政治の記事から順に読んでいったが、事件報道の欄まで読み進めた時に視線の動きは止まってしまった。

 ――あ、同じ名前。

 そこには殺人事件を報じる記事が掲載されていた。といってもどうやら事件の発生を伝える記事ではなく、その後の捜査が進展しないことを伝える記事のようだ。犯人逮捕に繋がる有力な情報提供者には懸賞金を支払うとまで掲載されている。かなりの高額だった。よほど注目度の高い事件だったのだろうと推察できる。さもなければ被害者かその遺族のどちらかが、よほどの資産家なのだろう。

 事件そのものはとりたてて珍しいと感じるものでもなかった。悲惨な事件であるのは間違いないが、ノースレイクにある一軒の民家のなかで、そこに住む夫婦が殺されたというものである。夫が居間で、妻が寝室で惨殺されたが、寝室で寝かされていた当時一歳の娘は無事だったということだ。夫婦が殺されたのが朝で、その日の昼に訪ねてくる予定にあった夫婦の知人が、応答がないため室内に上がり込んだところ、遺体と子供を発見したのだという。なんて幸運だったのだろうとイフェリアは思った。一歳の子供は自力では何もできない。たとえ殺されなかったとしても、もしもその知人が訪ねてこなければ、子供は世話をする人もいないまま放置されて、家のなかで衰弱死したかもしれなかった。そうなっていたら、犯人に殺されるよりよほど惨い。

 その、ただ一人生き残った娘が、自分と同じ名前なのだ。イフェリアは不思議な感慨を覚えた。同じ年に生まれた、自分と同じ名前の女の子。生きていれば彼女もまた、自分と同じ年になっているはずだった。自分とは違い、早くに惨たらしい方法で親を亡くした女の子は、今どうしているのだろう。妄想でなければあのライナとかいう女が心から案じているこの娘は、今も元気で暮らしているのだろうか。

 しかしそのささやかな心配は、長くは続かなかった。記事に全て目を通してしまうと、それと同時にイフェリアの関心は薄くなっていく。イフェリアは新聞を書棚に戻すと、そのまま図書館を出た。


「――そういえば今日、通勤の時に停留所で変な女に会ってさ」

 その日の夕方も、家族揃って居間で団欒に興じながらイフェリアは気楽な感じでそう切り出した。久しぶりに父とチェス盤を挟んで向き合っていた。ナイトの駒をどこに置くべきかで迷い、考えながら口を開くことにしたのだ。話をすれば頭も少しは落ち着くかもしれない。

「ノースレイク地区の看護婦とか名乗ってた女なんだけど、なんか私を誰かと間違えてたみたいなのよね。いきなり私をイアちゃんなんて呼んできたから、びっくりしたわ。で、一方的にいろいろ喋ってくるの。私の両親に雇われてたとか、小さい頃に世話してたとかさ、そんなわけないのに気味悪くって。まあ、人違いに間違いはないんだけどさ。昔、おんなじ名前の女の子がノースレイクにいたみたいだからね。その子と間違えてるに違いないんだけど」

 言葉を切った。駒を置くべき場所を見定めたからだ。イフェリアはナイトの駒を動かし、父の兵隊でもある黒のポーンをひとつ取る。そして顔を上げた。父を促そうとして、咄嗟に言葉に詰まる。

「・・どうしたの?私、なんかそんなにすごい、意外な手を打った?」

 目の前のソファに座る父は、何かにひどく驚愕したような表情をしていた。あまりの驚きに、我を失っているようにも見える。隣を見れば、穏やかな表情で観戦してくれていたはずの母も、目を丸くしてイフェリアのほうを見ていた。イフェリアは当惑した。盤面を眺める。自分としては迷った挙句、ごくありふれた手を打ったにすぎないというのに、父母は何をそんなに驚いているのだろう。

「――イア、その人に会ったのは、今日のことなのか?」

 なぜか血相を変えて問い詰められて、イフェリアは戸惑ったが、頷いてみせた。

「そうよ。今日の朝、通勤する時。バスを待っていたら声をかけられたの」

「その人は名を名乗っていたか?なんと名乗っていた?」

 ええと、とイフェリアは慌てて記憶を探った。そういえばなんて言ってたっけ。

「・・たしか、ライナって言ってた気がする。四十代くらいかな、それぐらいの女の人」

 ライナ、父はその名を聞くなり復唱するようにそう呟くと、息を呑んだ。母も、口許に手を当てて絶句したようにしている。

「・・お父さん?お母さん?」

 イフェリアは自分の父母の、未だかつてない様子になんとなく不安を感じて、恐る恐る声をかけながら二人を交互に見た。すると父母はそれで我に返ったようになった。母はイフェリアを抱き寄せるようにし、父はなんでもない、というふうに片手を振ってみせる。

「たいしたことはないよ、驚かせてすまないね。名前がちょっと知り合いに似てたから、その人かと思って驚いただけだよ。・・さて、待たせたかな」

 父は盤面に手を伸ばした。ビショップの駒を進め、イフェリアを促してくる。

 イフェリアはなんとなく自分を抱き寄せたままの母のほうを見た。すると母も、なんでもないのよという顔をしてイフェリアに駒を動かすように示してくる。それでも自分を抱き寄せたまま放さない母に若干の違和感を抱いたものの、イフェリアは頷いて自分に残された白いポーンをひとつ手に取った。


 ――なんで私も行かないといけないのかしら。

 イフェリアはなんとなく溜息をつきたくなって、そっと壁際で俯くと、長々と息を吐き出した。心なしか、肩にかけた鞄も重くなったような気がする。気が乗らないせいだろうか。

 重い鞄を肩にかけ直すと、イフェリアは周囲を見渡した。意外にも駅舎は混んでいる。昼過ぎでもけっこう人はいるものなのだなと感心してしまった。イフェリアは普段、汽車はあまり使わないが、混雑するのは専ら通勤通学の利用客の多い早朝や夕方だと思っていたからだ。

 イフェリアをこの駅まで連れてきた人々は、今は近くにいない。何を買うのか、買い物があるからと駅舎に隣接して建つ百貨店に入っていってしまった。イフェリアは行かなくてもいいらしく、駅舎のなか改札の横にある食堂で昼食を済ませろと言われて小金を渡され、待機を命じられた。昼食代は面倒な調べ物を引き受けてくれたことの御礼代わりだということで、有り難くいただいて食べてきたのだが、食後一時間近く経ってもまだ戻ってこない。

 ――そんなに手間のかかる買い物をしてるのかしら。

 イフェリアには彼らがいったい何を買っているのか想像もつかなかった。仕立屋で採寸をするにしても、これほどの時間がかかるとは思えない。それとも、よほど購入する量が多いのかと思った。だとしたらそれは勘弁してほしいと心から思う。これから汽車で長く移動せねばならないというのに、大荷物を抱えて移動はしたくない。

 買う気もないのに土産物屋の店先を眺めるのにも飽いて、手持ち無沙汰に過ごすイフェリアが待っているのは自分の上官でもある通信室の室長だった。ウィングフォレストまでの行き方を調べろとイフェリアに要求してきたあの上官は、なぜか今日、実際に現地に行くに当たってイフェリアにも同行を求めてきた。なんでも向こうで、大事な会議なるものがあるらしい。異邦人も来るその会議に、通訳として同席しろというのがその理由だった。日当は給金に上乗せして支給するとまで言われればイフェリアにとっては仕事の一部だ。拒否はできない。それで同行することになったのだ。通訳の仕事をするのは初めてだが、外国語は初等学校の学童だった頃から得意だったし、なんとかなるだろう。

 退屈を持て余し、何もしない時間を駅舎の柱にもたれて観光ポスターを眺めながら時間を潰していると、ようやく室長らが戻ってきた。待ちかねた人々は、それぞれが手に百貨店の紙袋を携えてはいるものの、何を買ったのかまではイフェリアには窺い知ることはできなかった。

「――待たせて済まなかったね。ちょっと、いろいろ手間取ってしまって。さ、行こうか」

 イフェリアは頷いた。自分に声をかけてきた室長らの後に続いて通路を歩き、改札を通ってホームに入る。汽車はすぐに来た。イフェリアらが乗車予定の汽車の到着時刻よりもかなり早くに到着していただけなのだ。汽車に乗り込み座席に落ち着くと、すぐに車内に車掌のアナウンスが響き渡って車窓の外を景色が流れていく。

 車内では、特に会話が弾むことはなかった。そもそも観光に行くのではなく、あくまでも仕事で赴くのだから当然かもしれない。イフェリアの隣に座っているのは室長で、向かい合う座席に腰かけている二人の男性も基地の軍人だ。全員が互いに職場での上下関係以上の関係を持たない。それで楽しく歓談などできるはずがない。

 それでイフェリアはひたすら窓の外の景色だけを眺めていた。室長や前の席に座る男たちはそれぞれ車内販売で買った雑誌を読んだり缶入りの飲み物を呷ったりしている。それらを横目に見ながら窓の外を流れる森や牧場や、畑などを眺めた。ウィングフォレストは商業よりも農林業や牧畜の盛んな街だ。そのせいか時間が経てば経つほど、窓の外は牧歌的なものになっていく。長閑な光景は、以前に見たときとあまり変わりがなかった。

 単調な景色ばかりを眺めていると、次第に眠気に襲われてくる。今は職務中なのだと、イフェリアはそれに必死で抗った。瞼に力を込め、思索に耽る。ひとり頭のなかでしりとりをしたり詩を詠んだりしていると、声をかけられた。そちらを振り返る。意識は急速に明瞭になっていった。

「・・ウィングフォレストとはどんなところかね?君は一度、行ったことがあると訊いたが」

 視線の先には読んでいた週刊誌から顔を上げた男性の姿があった。彼はレオディラスも所属する航空防衛隊を束ねる航空司令官だ。部署が異なると名前までは把握しきれなかったが、今回初めてきちんと紹介された。彼はルベウスという。言われなければ軍人とは誰も思わないほど華奢で穏やかそうな物腰の人物だ。背もイフェリアより低く、男にしては小柄な人物といっていい。それほど若くはなく、髪は白いもののほうが圧倒的に多かった。

 いいところですよ、とイフェリアは答えた。

「とても長閑で静かなところです。田舎といえばそれまでかもしれませんけど、落ち着きますよ。観光地とかはあまりありませんけど、ゴルフとか、乗馬とかを楽しむには最適なところです。気候の良い季節には、家族連れとか、よく野遊びで来てますし」

 ほう、とルベウスは興味を惹かれたような顔をした。

「それは、ぜひ時間が空いたら楽しんでみたいものだな。私もゴルフは好きだからね。もっとも、ずいぶん長いことクラブも握ってないが。君はゴルフは好きか?」

 好きですよ、とイフェリアは応じた。

「もっとも趣味の範疇にすぎませんが。私はスポーツは好きなので、昔、少し遊んだことがあるんです。試合の経験もありませんから、腕前はたいしたことありませんけど」

 そうか、とルベウスは笑った。

「なら良かった、ちょうどいい。私もその程度だからね。ゴルフは金がかかるから。けど、君が多少でも心得があるならいい機会だ、せっかくウィングフォレストまで行くのだから、向こうで少し楽しもうか?時間はあまり取れないだろうがね」

 光栄です、とイフェリアも微笑んだ。

「私も最近はあまりゴルフなど楽しむ余裕がなかったですから。お相手をしていただけるのでしたら嬉しいですね。楽しみです」

 それからイフェリアはルベウスとゴルフの話題で盛り上がった。車窓の景色ばかりを見ていて、眠くなっていた意識も、すっかり覚めていた。退屈なばかりだった移動時間に、少しだけ張りが生まれた。


 ウィングフォレストの駅は、イフェリアが住むフラワーレイン地区の駅とは比較にならないほど小さかった。

 大きな商業施設が隣接しているということもなく、店といえば小さな売店がひとつあるだけ。改札を出れば駅舎の内部を全て見渡すことができる。待合室も駅前ロータリーも狭く、駅舎を出て周囲を見渡してみてもバスターミナルのようなものはなかった。停留所はいちおう設けられているからバスの路線自体は敷かれていると分かるが、時刻表を見れば一日の本数は恐ろしく少ない。よくこれで、ここに住まう人々は生活ができるものだなと思ってしまう。

 なにもかも、かつて訪れた時と変わっていなかった。変化と呼べそうなものは、駅前にあった仕立屋が既製服を扱うブティックに変わっていることぐらいだ。最近は手間も時間も金もかかる仕立屋より、ブティックで安い既製服を買うことのほうが流行っている。ここもその流れを受けたのだろう。

 以前にレオディラスたちと遊びに来た時は、駅前からバスに乗ったものだったが、今日はイフェリアはバスは使わずに駅からは歩道を歩いた。目的地はすぐそこだ。バスなど必要ない。今回は仕事で来たのだから、宿泊するのも会議とやらが行われるホテルになっているのだ。

 ホテルに入ると、とりあえずは客室に落ち着いた。ベッドの他には最低限の設備があるだけの部屋は狭いが、非常に清潔に整えられて居心地は良かった。そこに荷物を置いてしばし旅の疲れを癒やしていると、すぐに部屋の扉がノックされる。開けると外に立っていたのは室長だった。これから打ち合わせておかないといけないことがあるから自分の部屋に来てくれという。イフェリアは頷いた。旅行鞄のなかからノートや文具などを入れてある仕事用の小さいバッグを取り出して、彼の後に続く。

 廊下に出て隣にある部屋に入った。室内にはすでにルベウスともう一人の男もいた。ルベウスは窓際に置かれた机の傍に佇み、もう一人の男はその傍に置かれた机の椅子に腰かけている。椅子に座った男は第一基地のだ。名をカイトという。将佐は基地全体を監督する将軍の補佐役だ。この場では、カイトが最も位が高い。

 イフェリアは部屋に入るとベッドの傍に佇んだ。ルベウスは座れと促してきたが上官が立っているなかでいちばん若くて格下の自分が座るのは気が咎める。それで遠慮し、佇んだままルベウスたちが話を切り出してくるのを待つ。彼はとくにイフェリアが座らないことを気にした様子もなく、淡々と話し始めた。これから誰と、何を話し合うのか、どういう場合にどういう結論を出すべきか、自分の考えを述べていき、イフェリアにはその場でどうあるべきかを伝え、将佐がそれに意見を述べ、そうしているさなかに室長が室内の電気ポットで皆に紅茶を淹れてくれた。イフェリアもカップを受け取り、礼を言って一口含む。ちょうど喉が渇いており、有り難いと思った。

 だが紅茶を飲んでから急にイフェリアの気分は優れなくなった。なぜか頭が痛くなり、軽い眩暈を感じる。ひょっとして、思っていたよりも疲れていたのかと思った。ただ座っているだけで目的地まで運んでくれる汽車というものを使っておきながら、なんとも情けない有様だと思ったが、立っているのを辛く感じてきたのは本当だった。足許がふらついてきたのはルベウスも将佐も分かったのか、将佐が座れと命じてくれる。今度は有り難くイフェリアもベッドに腰を下ろした。それでも気分の悪いのは治まってくれず、ルベウスが気遣わしげに声をかけてきてくれて、イフェリアは少しでも気分を落ち着かせようと持っていたカップを一気に呷った。熱い紅茶を一気に飲めば、気付けになると思ったのだ。

 しかし効果は出なかった。むしろ却って悪化したように感じられる。カップから口を離した瞬間、視界が回るのを感じた。イフェリアは自分がどんな体勢になっているのかも分からなくなった。


 ――ええ、確保に成功しました。これから運びますよ。・・大丈夫です。室長や司令官には病院に運んだとでも説明しますよ。

 イフェリアが意識を取り戻すと、闇のなかでそんな声が聞こえてきた。

 だが誰の声かまでは判別できなかった。意味もよく理解できない。まだ頭が痛かった。意識も朦朧としていて、自分がどうなっているのかも分からない。手足を動かすのさえ億劫だった。ものを考えることすら面倒で、早々に思考を放棄してしまう。身体の感覚だけが、今のイフェリアが感じていることのほぼ全てだった。

 ――そうすれば後は簡単です。・・ええ、基地には入院した末、体調不良で退役願いを出したとでも伝えますよ。死んだと言えば誰かが弔問に来てしまうかもしれないですし、年齢を考えれば怪しまれることもありえますが、単に退役しただけならその後のことは誰も気に留めません。身体を壊して退役する者は毎年おりますからね。まして彼女の身体では、今まで軍人でいたことのほうが不可思議です。彼女のその後を気にする恐れのある、親しい者たちは全て調べてありますし、後は任せてください。

 まだ声が聞こえる。誰の声だろう。イフェリアはまだぼんやりしている頭でそう思った。聞き覚えがある気がする。けど思い出せなかった。どこで聞いたんだろう。

 疑問に思って、イフェリアは目を開けた。なぜだか瞼がひどく重かった。懸命に力を込めて瞼を押し上げ、霞む視界に目を凝らす。何度か瞬きした。徐々に視界が澄んでくる。最初に目に入ってきたのは白い壁だった。

 見覚えのない壁に、イフェリアは自分が何を見ているのか分からなかった。それでしばらく呆然と壁を見つめて、それでようやく自分がホテルに入っていたことを思い出した。記憶が緩やかに甦ってくる。そしてやっと、自分がいま寝ているのはおかしいと気づけた。

 ――なんで?私はさっきまで、室長や司令官、将佐たちと打ち合わせをしていたはずなのに・・。

 怪訝に思う。思うと同時に反射的に身体は動いていた。急いで起き上がろうと身体を起こす。掌の下に柔らかな布の感触があった。ここはどこだろうと周囲に視線を投げ、そして一人の人物と目が合った。

「・・ああ、起きられましたか?」

 その人物は内線電話の受話器を持ったまま無感動な表情でこちらを見つめてきた。誰なのかは一目瞭然だった。将佐だ。彼が受話器を電話機に戻すと、傍に佇んだまま、じっとこちらに視線を注いでいる。

 自分がいるのがどこなのかは明らかだった。室長とともに訪れた将佐の部屋だ。自分が他ならぬその部屋のベッドで横になっていたことも分かった。横になる、といっても全く寝乱れた様子はなかったから、本当に単に意識を失って横になっていただけだろう。そのことを認識すると寸前の記憶が甦ってきた。自分はこの部屋で室長が淹れてくれた紅茶を飲んだら気分が悪くなったのだ。そしてそのままベッドに倒れ込み、それから後のことは全く覚えていない。つまり自分はあのまま意識を失い、そして今までこのベッドの上で寝かされていた可能性が高い。

 室内をぐるりと見回した。室長や司令官の姿はなかった。自分の部屋に戻ったのか、とふと思う。彼らはイフェリアが倒れたことを知り、とりあえず将佐の下で休ませることにしたのかもしれない。あるいは将佐がそう指示して彼らに退出を命じたのだろうか。

「・・あの、将佐。私は――」

「意外に早いお目覚めでしたね。もう少し長く寝ているかと思いましたが」

 イフェリアが全てを言い終えるよりも前に、将佐がそう言ってイフェリアの言葉を遮ってきた。将佐の言葉は冷ややかだった。病人への労わりなどはまるで感じられない。

 その冷ややかさをイフェリアは将佐が迷惑に感じているからだと解釈した。たしかに自分も、職務中に自分の部下に目の前で倒れられたら焦るし困惑するだろう。日頃たいして交流のない人間なら、余計な面倒をとまで思うかもしれない。体調管理を常に万全にしておくのも軍人の義務だ。責められても当然のことだ。

 しかし悔しくも思う。朝はなんともなかったからだ。冬とはいえ、ここ何年も風邪ひとつ患ったことがない自分には、突然の不調で意識を失うという今日の出来事そのものが信じられない。いったい自分の身体に何が起きたというのか。

 だがそれでも自分のことで迷惑をかけたならここは詫びておくべきだろうとイフェリアは口を開きかけた。だがその前に再度将佐の声が響いてくる。

「あなた一人をこの部屋に残したのは、私のほうに訊きたいことがあったからです。こうでもしないと二人だけで内密に会うようなことはできませんからね。あなたは私の配下であっても、直接の上下関係はない。ならば気安く呼び出すわけにはいかない。そんなことをすれば必ず不審を抱かれますから。だからわざわざこうして場を設けた。話せるのならお答えいただいても宜しいですか?まだお辛ければ寝ておられても構いませんが」

 将佐の言葉はやたらと慇懃だった。常ではありえないほどの丁寧さで、いっそ奇妙だとまで思ってしまう。しかも妙なのはその口調だけではなかった。話の内容のほうがよほど妙だ。二人だけで内密に会って自分に訊きたいことがあるからわざわざ場を設けただと。どういうことだ?

 怪訝に思ってイフェリアは将佐を窺い見る。将佐は眉根を寄せた。

「まだお苦しいですか?」

「いえ。・・私に訊きたいことというのは、なんですか?」

 イフェリアは訊ねながら立ち上がった。ベッドから足を下ろし、絨毯の上に足を乗せると、しっかりと床を踏みしめることができた。軽い眩暈のようなものが一瞬だけ頭を襲ったものの、それ以上の不調はもう現れてこない。

「それはごく簡単なことですよ。あなたはなぜ今頃になって自らの祖国と関わろうとなさった?それを教えていただきたい」

 は。イフェリアは瞬いた。

「どういう意味ですか?私はこの国の出身ですよ。私の祖国はこの国です。祖国に関わるとはいったい私の何を指して訊ねているのですか?この国で暮らしている以上、私は常に自分の祖国となにかしら関わって暮らしています。そうでなければ生活できるはずなどありません」

 イフェリアは将佐の質問の意味が分からなかった。彼が何を訊ねたいのか分からない。逆に訊ね返しても、将佐は答えてくれなかった。それでイフェリアはますます当惑した。こういう場合、いったい何をどう言うのが適切なのか、イフェリアには分からない。

 イフェリアが当惑とともに口を噤むと、室内には自然、沈黙が降りてくることになった。将佐は相変わらず何も言ってこず、イフェリアはだんだんと居心地が悪くなってくるのを感じる。滅多にない突然の不調に、意味不明の質問。得体のしれないことばかりが起きる場所にいるというのは、どうにも落ち着かない。

「――それでは、あなたは何も知らないということですか?」

 どれくらいの時が経ったのか、しばらくすると唐突な感じで将佐が口を開いてきた。

「あなたは何もご存じないということですか?――ああ、失礼を。どうやら私のほうが早合点をしていたようですね。ご迷惑をおかけしました。ご存じないということでしたら構いません。それならそのほうがいい。それが分かったのなら今後あなたがどのような行動をとったとしても、私はそれを前提として考えることができる。あなたにとってもそのほうがいいはずだ」

 イフェリアの当惑をどのように受け止めたのか、将佐は何かを納得したような表情を浮かべた。それにイフェリアはますます困惑する。将佐は自分が何かを知っていると思ったから、それを聞き出そうとしてわざわざ会話をもちかけたのか?だが、だとしたらなぜ自分が知らないほうがいいなどと言ったのだろう。正直、イフェリアには将佐が何を訊ねているのか分からない。何かを訊ねたらそれを相手が知らない様子だったのが望ましいなどとはどういうことだ?そんな心情はイフェリアの理解を超える。イフェリアが将佐にとって都合の悪い何かを知っている可能性があるというのなら、訊ねてみて何も知らなければ安堵もするのだろうが、そんなことはありえないことぐらい将佐も承知のはずだ。イフェリアは将佐とはほとんど接触がない。

「・・それは、どういう意味ですか?私が、何を知らなかったら、私にとって良いことなんです?」

 訊ねたのはほとんど反射に近かった。無意識がその理解を超えた事態への回答を要求しているのだと、言ってしまってからようやく認識できた。自分の困惑は、自分の認識以上に自分を混乱に陥れていたらしい。混乱を鎮めるために平穏が欲しかった。

 だが将佐は首を振ってきた。

「知らないのなら知らないほうがいいこともあるものだ。――時間をとらせて、すまなかったね。もう部屋に戻りなさい。明日までゆっくり過ごすといい。今日はもう君に頼むことはないから、市街地に遊びに出ても構わんよ」

 将佐は手を振る。まるで追い払おうとでもするような仕草だったが、イフェリアはあえてその指示には従わなかった。このままわけも分からず追い出されるのは我慢がならない。せめて将佐の質問の意味だけでも知りたかったのだが、訊ねても将佐はもう何も答えてくれなかった。イフェリアは将佐に手を引かれるようにして半ば強引に部屋に戻され、将佐とは別れることになった。

 釈然としないものを抱えたものの、一軍人のイフェリアではそれ以上、将佐を問い質すことは難しい。イフェリアは自分の部屋で途方に暮れ、しばしなす術もなく呆然としていたものの、やがて我に返って部屋を出ることにした。将佐は今日はもう自分に用はないと言っていた。市街地に遊びに出ても構わないと。なら、今のうちに近所の診療所でも訪ねて診てもらったほうがいいと思ったのだ。人前で突然、意識を失うなど初めてのことだ。自分の身体は、自分でも気づかないうちに何かの病を患っていたのかもしれない。それなら一刻も早く診てもらって、医者の診断を仰ぐ必要がある。

 そう思ってイフェリアは室内の小テーブルの上に置いておいた自分のハンドバッグだけを手に部屋を出た。ホテルの一階に降り、フロント係に伝言を預けて、ここからいちばん近い場所にある診療所の場所を訊く。フロント係は丁寧に教えてくれた。ホテルの前の道を、まっすぐ北に歩いたところにラジオ局があり、その向かいにあるという。イフェリアは礼を言ってホテルを出た。言われた通りにまっすぐ歩道を歩くと、確かにラジオ局の向かいに診療所があった。向かいというには少し位置がずれているが、かなり大きな診療所であり、入院設備も備えているようだ。イフェリアはその診療所の入り口に歩み寄った。入り口の木製扉を開けてなかに入ると、待合室のような部屋で看護婦らしい白衣の女性が声をかけてくる。

 イフェリアはその看護婦に診察を頼みたい旨を伝えた。看護婦は了承してイフェリアを待合室の長椅子に座らせ、簡単に容態を訊いてきた。イフェリアはその看護婦に自分が旅行者であること、到着してすぐホテルの部屋で倒れ、同行の者に心配されたことから診察を受けに来たのだということを告げた。看護婦はイフェリアの言葉を丁寧に聞き、そして少しだけ待ってくれと言い置いてどこかに駆け去っていった。そして言葉通りすぐに戻ってきた。イフェリアに診察室まで来てほしいと頼み、イフェリアは頷いて彼女に従って廊下を歩いていく。一階奥にある診察室に案内され、なかに入った。初老の医者がイフェリアを出迎えてくれた。

 医者はイフェリアを椅子に座らせ、診察をしていった。具合の悪いところはどこなのか、痛いところはないのか、持病はないのか、過去に何か大病を患ったりはしていないのかなどを、一つ一つ穏やかな声音で問診していく。イフェリアはそれに答えていき、答えていくうちに医者はどんどん怪訝そうな表情を浮かべていった。問診が終わると医者はイフェリアの身体に触れ触診していき、最後には採血までしてきた。医者は採った血液を検査するよう看護婦に指示し、その結果が記されているらしい書面が届くとそれを眺め、そしてようやくイフェリアに向かって口を開いてきた。

「どこも悪いところはありませんね。・・あなた、何か間違えて口に入れたのではありませんか?」

 例えば持参したピルケースの薬とかを。医者はじつに気軽な感じでそのように問いかけてきた。イフェリアは瞬いた。

「薬、ですか?」

「そうです。あなたは不眠に悩んでたりしますか?それとも旅先だからですかね?睡眠薬を持参してきていて、それをうっかり菓子と間違えて召し上がったのではないですか?最近の薬には子供が飲み込みやすいように甘い味がついているものも多いですからね。間違えて食べて体調を崩す人が時々現れるんですよ。この間も、近所の小さい子が風邪薬を一箱全部食べてしまってかなり大変だったんですが」

 医者の口調は何でもないような感じだった。それだけよくある事故なのだろう。医者はイフェリアに持病がなく、さらに診察した結果でも異常がなかったので採血して血液を調べた。それでも何も異常がなければ一晩だけでも入院させて身体の内部を入念に調べるつもりだったらしいが、その必要はないという。採血した血液から微量ではあるが市販の睡眠薬の成分が出てきたのだという。それで医者はイフェリアが直前に睡眠薬を服用していたことを知った。イフェリアが旅行に睡眠薬を携行していて、それをどこかでうっかり菓子と間違えて食べたために体調を崩しただけだと結論づけたのだ。

「まあ、あなたの場合は量が僅かですので大事はありません。もう普段どおりに過ごされて大丈夫ですよ。これからは気をつけてください」

 医者はそれだけを口にして、イフェリアに帰宅しても大丈夫だと言ってくれた。病ではないので薬などは出されず、イフェリアは診察費だけを支払って診療所を出る。入ってきた扉から再び歩道に戻りながら、イフェリアはますます釈然としなくなった。

 ――睡眠薬って。私、そんなの持ってないのに。

 イフェリアは普段、ピルケースなど持ち歩かない。足が悪いのを除けば特に持病など抱えていないからだ。ましてや睡眠薬など、これまでの人生で一度も服用したことのない代物である。両親も不眠症などではない。家にも睡眠薬などなく、イフェリアがうっかりのど飴か何かと間違えて持ってきてしまったこともないはずである。そもそも、イフェリアは汽車で、車内販売から買った紅茶を飲んで以来、何も口にしていない。まさか車内販売の紅茶に薬が混入していたはずなどないだろう。何かの事故でそんなことがあったのなら、汽車にいる時にはすでに騒ぎになっていたはずだ。あの汽車で車内販売の紅茶を買ったのは自分だけではないはずなのだから。症状が出たのが自分だけである以上、汽車の車内販売や乗車前に寄ったレストランの食事は何の関係もない。では、いったいどこで自分は睡眠薬など口にしてしまったのか。

 そこまで考えてふとイフェリアは思い出した。そうだ、自分がものを口に入れたのは何もあの車内販売が最後ではない。その後にも一度だけ、飲み物を口にしている。他でもない将佐の部屋で、室長が淹れてくれた紅茶を飲んだのだ。紅茶を淹れる道具はホテルの客室には常備されていなかったから、あれはあの時、百貨店で購入していたものの一つなのかもしれない。ひょっとしてあの紅茶に混入していたのではないのか。思えば、あの紅茶を飲んだ直後に具合が悪くなったような気がする。そして意識を失ったのだ。それは、あの紅茶に睡眠薬が混入していたからではないのか。そう思えば辻褄は合うような気もする。睡眠薬の混ぜられた紅茶を一気に飲み干せば、たしかに気分も悪くなるだろうし、ものが睡眠薬なら意識を失ってなんの不思議もない。だがどうして、あの紅茶にそんなものが混入されなければならなかったというのか。

 ――将佐は、自分と会話をするためだけにわざわざ場を設けたと言っていた。

 イフェリアはさっきまで会っていた将佐の言葉を思い出していた。自分が倒れ、その自分だけをあの場に残してルベウスや室長は自室に戻った。いうなれば、自分が倒れたことで将佐はイフェリアと二人きりになることができたのだ。将佐が自分と二人だけで内密の話をするためだけに、わざわざ比較的効力の浅い、市販の睡眠薬を混入したのだとしたらすんなりと納得できる。あの部屋は将佐の部屋だ。茶器も将佐が準備したものだとしたら、自分や室長たちが部屋を訪ねてくるよりも先にカップなりポットなりに細工をしておくことは充分に可能だろう。室長が紅茶を用意したとしても、なんとでも口実をつけてイフェリアが飲むカップを指定し、カップを渡した後は飲むように指示すればいい。そうすれば、イフェリアは確実に出された紅茶を飲む。イフェリアが倒れてしまえば、適当なことを言って室長たちを部屋に戻し、目覚めた頃を見計らって自分と話せばいい。だからあの時、言っていたのだろうか。もう少し長く寝ているかと思っていたって。それは彼が薬の持続時間を計算して薬を混入していたからだったのだろうか。

 ――でも、だったらどうして、将佐はそこまでする必要を感じたの?

 そこまでせねばならないほど、イフェリアは将佐と重要な会話を交わしたという自覚はなかった。それどころか、イフェリアには将佐が何を訊きたかったのかも分からない。将佐に訊ねられ、意味が分からなかったので問い返して、知らないのならそれでいいと勝手に納得されたのがさっきまでの会話のほぼ全てだったのだ。あれだけのやり取りを交わすためだけに、そこまで手の込んだ細工が必要だったとは、イフェリアにはどうしても思えない。あれだけの会話なら、通常の職務の合間にでも、機を見計らって内線電話をかけ、話してしまえばいいことのような気もする。

 ――それとも将佐は、自分が知らないとは思ってもみなかったのかしら。

 自分には分からない、何かの確信があったというのか。知らないという事実を、あの場で初めて知って、拍子抜けしたとでもいうのだろうか。将佐はイフェリアが何かを知っていると思っていたのか。そしてその何かを問い質すためには、絶対に外部の人間の入ってこない、二人きりで話せる場が必要だったというのだろうか。会ったということすら自然に見えるようにするために、わざわざこんな手の込んだことをしたのか。

 ――けど、だったらそれは何なの?

 将佐がたかが確かめるためにそこまでするほどのこととはいったい何だったというのだろうか。イフェリアは首を傾げたが、自力では答えなど出そうになかった。それで溜息をついて、肩にかけたハンドバッグの留め金を外す。なかから財布を取り出してテレホンカードの残り度数を確認した。まだけっこう残っている。長く通話することができそうだった。

 ――公衆電話。たしか駅にあったはずだわ。

 ここに来た時に降り立った駅舎には、改札前広間に電話ボックスが設けられていたはずだった。そこへ行こうとイフェリアは決心した。自力で答えが出せないのなら、それが分かる他人に訊くのがいちばん手っ取り早い。

 将佐は自分が祖国に関わることを気にしていた。つまりイフェリアが関わっているこの国の何かが気になるのだ。それが何かを知ることができれば、将佐の行動の意味もイフェリアに分かるようになるだろう。彼が何を訊きたかったのか、きっとすぐに分かるはずだ。

 ――レオ、いま話せるかしら。

 将佐は航空防衛隊に所属しているレオディラスにとっては直接の上官だ。彼なら、将佐と接触する機会もイフェリアより断然多い。将佐のことについて、何か知っているかもしれない。


 受話器の向こうはしばらく無音だった。

 もっとも通話が切れたわけではないことはイフェリアも知っていた。無音なのは相手が押し黙っているからに他ならない。いったい何にそれほど言い迷っているのかとイフェリアは苛立った。早く話してほしい。そうでないとテレホンカードの度数がなくなってしまう。

 イフェリアは駅に着くとすぐに広間の隅にある電話ボックスに駆け込んだ。幸運にも到着すると同時に先客でもあった老女が扉を押し開けて外に出てきたのですぐに電話を使うことができた。受話器を取りテレホンカードを差し込み、レオディラスの自宅の番号をダイヤルする。今日はたしか彼は休暇に当たっていたはずだ。休日も外出していることの多い彼のことだから、まだ陽の出ているこの時刻に自宅に電話をしてもいない可能性のほうが高かったが、意外にもすぐに本人が出た。気に入りの歌手の新曲のレコードを聴いていたのでずっと家にいたらしい。助かった、と思った。いなければ何度も電話ボックスまで往復しないといけなくなる。今日はもう暇を貰えたとはいえ、そんな面倒は勘弁してほしかったからだ。

 それでイフェリアはすぐにレオディラスに将佐との顚末を話して聞かせた。すると途端に彼は今のように押し黙ってしまったのだ。最初は普通に話していたのに、まるで急に言うべき言葉を失ったかのように黙りこくっている。それからずっとそのままで、苛立ちのあまりイフェリアが言葉を急かそうとしたところでようやく受話器から声が響いてきた。まるで何かを悟ったかのような、諦観の響きの強い声だった。

「――イア、イアはもう、今日は暇なんだな?」

 確認するように訊ねられ、イフェリアは答えた。そうだけど、と返す。

「なら俺もこれからそっちに行く。今から出れば夕方の汽車に間に合うからな。夜にはそっちに着くから泊まってるホテルを教えてくれ。着いたら直接、部屋に電話を入れるから。この話はお前の部屋でしたほうがいい」

 なんで、とイフェリアは電話だというのに首を傾げてしまった。

「なんでそんな面倒なことわざわざするの。電話で話してくれればいいわよ。今から家を出たらレオがこっちに着くのは深夜になるわよ。帰りはどうする気?明日も休みなの?戻れなくなるわよ」

「構わん。明日のことは親戚に不幸があったとでもいうさ。ばれたら大事になるが気にするな。それに――」

 レオディラスはあっさりととんでもないことを口にして、僅かに言葉を切った。それから思い定めたような口調で再度口を開いてくる。

「それにたぶん、そこまでの事態になってるなら俺は遠からず退役するだろうよ」


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