放火事件と隣国の貴族
――結局、一緒に寝ることになるのよね。
いつもなら、ベッドに入ると同時に眠くなるのに、そう思ったが今夜は果たして眠れるかどうかも怪しかった。隣で寝息を立てているレオディラスの寝顔を眺める。息がかかるほどに彼の顔が近づいてきたのは随分久しぶりのことだ。そう思うと顔が火照るのが分かる。昔はなんとも思わない、むしろ隣にいることに安心した彼も、この年になると羞恥しか湧いてこなかった。なんだか、気恥ずかしい。
――客をソファに寝せるわけにもいかんし、かといって俺もソファでは寝たくない。俺の身長ではソファで寝たら足が出るからな。この寒いのにそんな寝方をするのは御免だ。
そのレオディラスの一言でイフェリアは久方ぶりに彼と寝ることになった。子供の頃はここに泊まるたびにそうしていたのだから、今さら気になるようなことでもない、ないはずなのに、どうしても緊張感は消えてくれない。男と寝ているのだと妙に意識してしまう。彼のベッドは一人用で、大人が二人で寝ると必然的に身体をくっつけなければ寝られないからかもしれない。その窮屈さ、じっとしていても感じられる彼の温もりが、その意識を強めてしまうのかもしれなかった。
その意識をなくすためには、とにかく眠るしかない。もうとにかく眠るしかなかった。けど、妙に昂った緊張感がなかなか眠気を起こさせてくれない。瞼を閉じていれば眠れるはずだと、目を閉じて身体の力を抜いたが、そうすると今度は耳元で聞こえる寝息が妙に大きく感じる。それに今度は意識が向いてしまい、耐えかねてイフェリアはベッドから抜け出た。起き上がると冷気が布団のなかに入り込んでレオディラスを起こしてしまうかもしれないため、横に転がるようにして室内に下りる。火のない室内は、足許から寒さが這い登ってくる。それに肩を震わせ、自分の上着を着込むと、部屋を出て階下に降りた。
もっとも一階に下りても、何かすることがあるわけではない。小さい頃から馴染みの家とはいえ、我が家のごとく居間の暖炉に火を入れて、くつろぐなど論外だ。それでもすぐにはレオディラスの部屋に戻る気にもなれず、仕方なしにイフェリアは居間のソファに腰を下ろす。夜闇の静寂のなか、カーテンの隙間から差し込む月明かりに照らされて、昼間とは異なる不思議な印象を醸し出している絵画を眺める。
――ルリアさん、相変わらず巧いな。
あの絵画は他ならぬルリアが描いたものだ。遠い異国の街角の、ありふれた日常の光景が、繊細な色使いで柔らかく描かれている。ルリアは昔から、素人とは思えない筆遣いで絵を描いた。なぜ画家にならなかったのだろうと不思議になるくらいの出来栄えで、イフェリアはいつもそれを惜しいと思っていた。これだけの技術が、単なる趣味の範疇で、描いた本人の目を楽しませるだけで終わるだなんて勿体無いと心底思う。それぐらい、目の前の絵は立派な、美術品としての価値が感じられた。しかし肝心のルリアは、イフェリアがそう言うと必ず笑う。
――ありがとう、イアちゃんにそう言ってもらえると嬉しいわ。けど、私はこれでいいの。私はただ見るだけじゃなくて、食べても美味しいものを作るのが好きなんだから。菓子職人としての仕事のほうが天職なのよ。
それに私は、写生は苦手だしね、そうも言っていた。自分が描く絵はどれも想像で思い描いた風景ばかりなのだと。頭で思い浮かべたものを、そのまま目の前に持ってきて再現するのは得意だが、実際に目の前にあるものをそのままに再現するのは不得手なのだと。そんなことあるのかと、ルリアとは全く逆のイフェリアには信じられない気がしたが、ルリアは、だからこそ自分は画家にはなれなかったのだと言った。肖像画も似顔絵も描けない画家なんて、一流とはとてもいえないと。
――この絵はね、昔、旅行で訪れた外国の風景なの。いいところだったわよ。食べ物も美味しくて景観にも風情があって。懐かしいから、画布の上に再現してみたの。こうすれば、自宅にいても行った気分になれるでしょう?
その言葉を思い出して、イフェリアはなんとなく立ち上がってその絵画の傍まで歩み寄った。あの頃からいったいどこの国を描いた絵なのかと気になっていたからだ。少なくともイフェリアには全く覚えのない、どこかも分からない国だ。ルリアはなぜか言葉を濁して教えてくれなかったが、だからこそ余計に気になるし、分からないということが悔しくもある。イフェリアは初等学校に通っていた頃から地理は得意だった。成績も上位だったし、外国の風土も文化も、それなりの知識は備わっているという自負がある。その自分が街の様子を見てもどこの国だか分からないなんて悔しい。だからこの機会にこの絵の国を特定してみようと思った。もっとよく見れば、何か絵に、思索の手がかりになるようなものが描かれているかも。
そう思って絵を凝視する。何かその国を象徴するものが描かれていないかと眺め渡し、それはないと見るや、イフェリアは辺りを窺って壁から額縁を外した。さほどに大きくはない絵だから、イフェリアでも楽に抱えられる。慎重に額縁の裏蓋を外し、絵の裏側を見た。ルリアはいつも、作品のタイトルなどを絵の裏側に書く。それを見ればどこの国か分かると思ったのだ。
うっかり留め金を破損してしまわないよう慎重に留め金を外して裏蓋を取り、絵の裏側を見る。だがその瞬間、イフェリアは目を瞠ってしまった。
――なに、これ。なんでこんなものが額のなかにあるの?
額縁のなかには、およそ中に入っているはずのないものが収められていた。むろん絵の裏側も見えるが、本来それだけであるはずの裏蓋の下に、見る者の背筋を思わず凍らせるような代物が入っている。
――これ、ルリアさんのなの・・?
入っていたのは一本の短剣だった。鞘はないが、柄には目にも麗しい豪奢な細工が施されている。暗くて見えにくいが、繊細なその造作は、完璧な形であればそれなりの値がするものだろうと思えた。しかしその美しい武器は不完全な形で残され、しかも刃こぼれの形跡が残っている。どう見ても、実際の戦闘で使用された剣だ。だがなぜ、そんなものをルリアが持っているというのか。
いまこの国は平和だ。国境での小競り合いもなく、イフェリアも士官学校を出ておきながら未だに戦闘経験などない。軍人といいながら実体は通信室の単なる電話番に等しい。その自分ですらも見たことがないような人の生命を吸った剣など、なぜ軍とは無縁のルリアが持っているのか。
――それに、この剣・・。
イフェリアはその短剣を凝視した。月明かりが射し込むと未だに美しい煌めきをみせるその剣の柄、その持ち手の細工の精緻さから見る使い勝手は、およそ武人の持つ武器とも思えなかった。そもそも短剣というのは至近距離での戦闘でしかその威力を発揮せず、あまり実戦に向いている武器でもない。それどころか柄に大仰な装飾など施せば、使用の時に邪魔になったり、あるいは最悪の場合は手を負傷する原因にもなり得る。軍人なら、自分が愛用する武器への装飾は避ける。武器にこのような飾りを施すのは、飾り以外の目的で武器を使用しない人々だ。それこそ昔の貴族のような、そんな人々。そういう人々しか持ち得ないような剣、それが使用された形跡で残っている。それは何を意味しているか。
――骨董商から、買ったわけじゃないわよね。
普通に市場で流通している骨董品を、ルリアが買ったのだろうか。武器の市場での販売には厳しい規制が布かれているが、物が骨董品や使用可能な状態でない武器、例えば銃口を鉛で塞いだ拳銃のようなものであれば、装飾品としての流通も可とされている。そういうものをルリアが買ったのだろうかと思った。この細工は最近の職人の造作ではないし、これだけ刃先の状態の悪い剣なら軍の検査もすり抜けたかもしれない。しかし、それならなぜこんなところに隠してあるのだ。裏蓋をよくよく見てみれば、わざわざ内側の板を削って窪みを作ってある。短剣を額縁のなかに隠しても、外からはそれが分からないようにするための細工だろう。なぜそこまでしてここに隠す必要があったのか。
イフェリアは絵の裏側に視線を向けた。この短剣の柄に、隠されるようにして記されてあった絵のタイトルに目を向ける。そこには美しい書体で作品名が記されていた。シェルレーザンの夕べ、と書かれている。そして何かの花を図案化したような奇妙な記号があった。よく見れば、短剣の柄頭にも同じ記号が彫り込まれている。これは、いったいどういう意味だろうか。
――シェルレーザン、・・それってあそこの、こと?
記憶に間違いがなければ、シェルレーザンとはここよりずっと東のほうにあったベルガルト王国という国の首都だったはずだ。今は選主国と名を変えたその国は、確か二十年ほど前に最後の国王が崩御し、王位継承者が一人もいなかったために王家が断絶したはずである。その後は時代の変遷に従って選主国と名を変え、国民の選挙に基づいて統治者を選ぶという制度に変わったはずだった。通常そのような大きな変革に際して付き物の、既得権益を守ろうとする貴族の戦乱などもなく、比較的穏やかに変化した国とイフェリアは聞いている。ルリアが観光などで訪れていたとしても不思議はないが、そこの風景を描いた絵のなかに武器が隠されていたとなれば、その意味を感じずにはいられなかった。なぜこんなところに隠したのだろう。隠せる場所がここしかなくて、ここなら誰も見ないだろうという確信のもとに隠したのか。それならなぜ隠したのだろう。それとも何かの暗喩か。いずれここを開ける者がいたとして、画布では表現しきれない絵の意味を言外に伝えるために入れたのか。
イフェリアには分からなかった。分からなかったが、周囲の寒気を高めるだけのその武器は、大事にしまい直して元通りに裏蓋を閉めた。額縁を寸分の違いもないようにして壁に戻し、そっと居間を出る。ベッドに戻ろうと思った。もういちど戻るのは気がひけるが、彼が起きたとき自分が寝室にいなければ、かえって彼が妙な気を遣ってしまうかもしれない。
それに、なんとなく極寒の雪山並みの寒気を感じている自分には、彼の温もりが恋しかった。
溜息をつく。白く吐き出される不規則な空気の乱れに、自分の心も乱れたような気がした。不安を感じると傍にいたくなる辺り、自分はこの家では幼い頃からちっとも成長していないのかもしれない。
翌日は、レオディラスの家から彼とともに基地に出勤した。いつも乗り慣れた路線のバスとは異なる路線のバスに乗ると、流れる車窓の景色もなんとなく新鮮に感じる。一緒に門を潜ればさっそく色香のある噂の的にされるのかもしれなかったが、それは昨夜彼の家に入った時から覚悟していたことなのだから、気にはならない。
基地ではいつもどおりの任務に就いた。いつもどおりに通信室で電話をとり、不毛な問答を交わし時には緊急の通報に受話器越しの判断を下しながら警邏隊や救急隊への指示を出し、とりあえず状況が落ち着いた頃には昼をかなり過ぎていた。食堂に赴き遅い昼食と早い夕食を兼ねた食事を摂っていると、声をかけられる。振り返ると、この食堂の料理人の一人だった。いかにも逞しい男たちばかりが闊歩する基地内にあっては貧相に見えるほど、小柄で痩せている。もっとも男性としてはごくごく当たり前な背格好なのだということはイフェリアも理解していた。基地にいる軍人たちが皆、常人より体格がいいだけだ。
「――通信室に配属されている、二等指揮官のイフェリアさん、ですね。あの、あなたに外線でお電話が入っていると、いま内線で連絡がありました。お取り次ぎしても宜しいでしょうか?」
私に、イフェリアは驚いて瞬いた。食堂の料理人が電話を取り次いでくるとは思わなかったのだ。ここに内線で連絡があるということは基地にある受付電話にかかってきた電話だということだろう。緊急通報ではなく、軍人個人を名指しにしてかけた何か私的な用事の電話ということだ。基地にかかってくる電話というのは緊急通報がほぼ全てで、他にはほとんどない。そうでない電話は門前の警護兵が受けてその都度取り次ぐことになっている。食堂の料理人が内線で連絡を受けたということは、当の外線電話を受けた警護兵が通信室に連絡し、その際にイフェリアはいま食事中だと応じられたということなのだろう。
それにしても、いったい誰が、自分宛てに電話をかけてきたのだろうとイフェリアは怪訝に思うと同時に言い知れぬ不安を覚えながら料理人の持つ内線電話機を受け取った。イフェリアは基地に外線などかけてくるような知り合いに両親しか心当たりがない。いったい二人に、イフェリアの帰宅を待てないような何が起きたというのだろう。
「二等指揮官のイフェリアです。所属は通信室。いま、取り次ぎの電話を貰い受けました。どうぞ」
受話器から了解、取り次ぎを開始しますという短い回答が返ってきた。回線を切り替える際の独特の音が響き、しばらくして受話器に声が聞こえてくる。イフェリアさんですか、と訊ねられてイフェリアは思わず瞬いた。そうですけどと応じながらも首を傾げる。
全く聞き覚えのない声だった。声の響きから推察するに、七歳か八歳ぐらいの女の子のように思える。が、イフェリアは身近にこれほど幼い女の子の知人はいない。リアラちゃんはもっと小さいし、彼女はまだ一人で電話をかけることができない。できたとしてもかけることはないだろう。イフェリアとは家族でもなんでもないのだから、特別な用事があるはずもない。
「あの、イフェリアさんに伝えてほしいことがあるって言われました。だから伝えます」
舌足らずな口調は幼い子特有のものだ。たどたどしい感じで、お仕事が終わったらフラワーハウスパークに来てくださいと話してくる。フラワーハウスパーク、とイフェリアは訊き返した。
「どうして?どうして、そんなところに行かないといけないの?」
イフェリアには意味が分からなかった。フラワーハウスパークといえば、フラワーレイン地区の外れにある植物園の名前だ。大小の温室と庭園が連なる国立公園で、入園料を払えば誰でも入ることができる。東西の名花や季節の花々が咲き乱れるフラワーレイン地区の知られた観光名所だ。なぜ自分がそんなところに呼び出されなければならないのか。しかも仕事が終わってからというなら今日のことではないのか。イフェリアは今日、誰かとそんなところに行く約束などしたことがない。
だが問い質すと女の子は困ったように黙り込んでしまった。しばらくして小声で、言われたんですと呟く。
「伝えてくださいって、言われました」
「誰に?」
「ええと、男の人です」
大雑把すぎて誰のことを指すのかイフェリアにはさっぱり分からなかった。思わず頭を抱えたくなったが、辛抱強く言葉を尽くして通話相手の子供から相手のことを聞き出すと、どうやら子供はイフェリアへの伝言を要求した男とは何の繋がりもないらしいことが分かった。外遊びのさなかに近づいてきた男に小金でも渡されて電話を頼まれでもしたのだろう。大人ならあからさまに怪しいそんな申し出にも、小さな子供なら素直に応じてしまうのかもしれなかった。幼児であれば電話のかけ方も知っているか怪しいが、七歳ぐらいであれば、昨今、電話のかけ方ぐらい心得ている。イフェリアの子供の頃には考えられなかったが、近年の電話の普及の早さには目を瞠るものがあるのだ。
女の子からその妙な伝言をした男の人相を問い質すと、どうやらその男にはこれといった目立つ特徴がないらしいということが分かった。特に若くもなければ老人でもない。それほど長身でもなければ容貌の美醜にも特に目を瞠るものがないごく普通の男。強いて言えばかけていた眼鏡に少し変わったアクセサリーがついていたことぐらいのようだ。
「分かった。ありがとう。今日、仕事が終わったらそちらに行くから。そう伝えてくれる?あと、あなたはなんていう名前なのかな。いま、どこから電話してきているの?」
単に小金で頼まれただけにすぎないと推測してもそう訊ねたのは、いざという時のためだ。子供の行動範囲は知れている。この電話がどこからかかってきたのか、なんという名前の子供がかけてきたのかが分かれば、こんな怪しげな電話を要求した男が現在どこにいるのかが分かる。いざという時はその情報が男の足跡を追う手がかりになるのだ。
「私ですか。私はメルルっていいます。ええと、アニマルパークっていう公園にいます。公園の電話からかけています」
分かったわ、メルルちゃんね、ありがとう。礼を述べると通話は切れた。言うべきことを言ってしまったからか、それとも伝言の男に指示されたからなのかは分からない。しかしイフェリアは内線電話機を料理人に返しながら心が逸るのを感じた。
――アニマルパーク。うちの近所だわ。
アニマルパークとはイフェリアの自宅からもほど近い場所にある小さな遊園地の名前だ。主に子供向けの遊具などが置かれてある小さな公共の遊び場で、イフェリアも幼い頃にはよく遊んだ。可愛らしい動物の形をした滑り台やブランコや、遊動円木、そんなものが置いてあることからアニマルパークと通称されている。あのメルルという女の子からそこから電話をかけてきたのだ。おそらく遊んでいて、声をかけてきた男に小金でも与えられて頼まれた。園内に設けられた東屋には隣接して電話ボックスがあったはずだから、そこからかけてきたのだろう。
イフェリアはうそ寒い思いがした。こんな怪しげな要求をしてきた男は、まさか自分がどこに住んでいるのか知っているのだろうかと思えたからだ。少なくとも自分が第一基地に勤務する軍人だということ、どこの配属で所属階級が何かも知っているのだ。そうでなければ自分を名指しにして基地に電話などかけられるはずがない。メルルが知っていたはずもないから、それは男が教えたのだろう。こういう人物に伝えろと要求したのだ。では、自分は伝言をした男がどこのどういう人物かも知らないのに相手の男は自分のことをよく知っているのではという疑いも出てくる。ひょっとして、自宅にも行ったのではと思えてきた。行っていなかったために基地に電話をかけさせて、呼び出そうとしたのではと思えた。
しかも基地に子供を使って電話をかけさせてきたという点も不穏な予感を漂わせる。普通なら、そんな不確実で怪しまれやすい方法など取らないだろう。自分で電話をするほうが、確実で手間もかからないはずだ。にもかかわらずあえて園内で遊んでいる見知らぬ子供に声をかけるという辺りですでに奇妙を通り越して恐ろしいほどに不安になる。伝言を寄越した男には、自分で電話をかけられない何かがあったということだ。例えば聾唖の障害がある、異国の出身で言葉に不自由があるなどの事情がある。もしくは自分が直接電話をすれば警戒されて応対してもらえない恐れがあるなどとといったことなどの。
前者なら何も問題はない。聾唖の者や異邦人が、誰かを代理にして電話を使うことはよくある話だ。しかし後者ならいったい誰がそこまでしたのかと不安を通り越して恐怖を感じる。何が何でも身元を隠してしまわねば電話で話すこともできないような人物に知り合いなど、イフェリアは持っていない。
――行くべきなのかしら。
フラワーハウスパークに行くべきなのだろうか。あの女の子の伝言どおりに。イフェリアは逡巡した。得体の知れない男の伝言に従うのには、戦場に出るのと同じくらいの勇気が必要だった。敵はどこにいるのか分からない、何があるのか、何をされるのかも予想できないからだ。
――どうしよう。
「閉園は八時ですので、それまでにはお戻りください」
受付の女性にそう声をかけられて、イフェリアは頷くと足早に園内に入った。
時刻はもう七時近くになっている。人影はすでにもう疎らだ。しかもその少ない人々も、ほとんどが受付のある出入り口のほうに向かって歩いている。すでに散策を終えた後なのだろう。今から入園しようなんていうのはイフェリアぐらいに違いない。
――ここ、けっこう広いものね。一時間程度じゃ全部を見てまわるなんて不可能かも。
イフェリアは歩きながら辺りを見回していた。結局、悩んだ挙句にここ、フラワーハウスパークに来てしまった。仕事が終わってからどこかに赴くとなると、どんなに急いでもこの時刻になってしまうのだ。これでもかなり急いだほうで、普通にバスに乗って歩いてきたのではとても、閉園に間に合うことはできなかっただろう。
――それにしてもどこへ行けばいいのかしら。
とりあえず来てみたはいいが、どこへ行くべきなのかは分からなかった。闇雲に歩いていては、全てを見て回るまでに閉園の時刻が来てしまうだろう。電話ではフラワーハウスパークに来いとだけ伝えられて、パークのどこに向かえばいいのかまでは伝えられなかったのだ。この植物園はそれなりに広い。できればどこに行くべきなのかまで指示してほしかったと、内心で舌打ちする。これではここに来てもどうすべきなのか分からない。
――どちらに行こう。
辺りを見まわしながら歩いて、最初の分岐点まで来た。今、イフェリアの目の前にはパークエントランスに続く広場から、小道が二本延びている。来園者が散策するための小道だ。一方は温室が連なる区域へ。もう一方は広大な花壇のある庭園へと続いている。今現在、人が多いのは庭園のほうらしい。このパークの庭園には花壇でできた迷路があり、それがこのパークの人気スポットなのだ。今の時期に果たして迷路の壁となりうるほどの花々が咲いているのだろうかと思うが、とにかくそちら側から戻ってくる人々が多い。
それでなんとなくイフェリアもその庭園のほうへ足を踏み出しかけ、そして足を止めた。視界の端に映り込んできたものが気になったからだ。
――あれ、伝言板。ちょっと見て行こうかしら。
イフェリアは小道には踏み出さず広場を横切った。屋根もなく単に石畳で覆われているだけの広場は、寒々として行き交う人々以外に見るべきものもないが、端のほうには幾つかの建物が建って明かりが灯っている。レストランと土産物屋だ。時刻を考えると園内でいちばん賑わっているのはあそこではないかと思えるそれらの建物の、一軒の土産物屋の外壁に大きな黒板のようなものがあった。イフェリアはそこに歩み寄り、その黒板に書き込まれていることを端から順に見ていく。
この黒板は伝言板と呼ばれる代物だ。かつては駅舎にも停留所にも、役所にも学校にも、それこそ個人が経営している街の小さな商店に至るまで、至る所に設置されていた人々の生活必需品だったものだ。今ではもう電話の普及に伴ってほとんど見かけなくなったものの、古くからある建物にはまだこうして残されていたりする。待ち合わせの際など、ここに相手への連絡などを書いて無益な時間を浪費するのを防ぐのだ。イフェリアは今までこれを使ったことはなかったが、見方や使い方は当然に心得ている。記載事項はそれほど多くはなかったから、すぐに一つの伝言に目が留まった。
――第三フラワーハウスにて待つ、三時の電話の者、って、これが電話で伝えられた人物からの伝言かしら。
そう思った。見渡してみても他には伝言らしい伝言も書かれていない。低い位置にやたらと落書きらしい妙な絵や意味不明の言葉が目につくだけだ。電話ボックスが普及してくると、街の伝言板は伝言目的の必需品というより近所の子供たちのお絵かき板と化し、無意味な悪戯書きと防止するために撤去が加速したのだという。これもその類いだろう。唯一ある本来の用途に適った使われ方に、もしも伝言板に心があるなら久方ぶりの喜びを感じているのではないかと思えたが、イフェリアの心は緊張に高鳴っていた。
あの電話がかかってきたのはちょうど三時頃のことだ。上部に書かれた宛名を見ても、自分の名前がある。普通は同名による混乱を防ぐために宛名には伝言を宛てた人物の肩書きなども書いておくものだが、それはなかった。伝言は一つしかないのだから、間違えようがないと考えたのかもしれない。
――とりあえず、ここへ行ってみるのがよさそうね。
第三フラワーハウスならそれほど遠くない、イフェリアは温室が連なっているほうへ続く小道に足を踏み出した。どうせ園内を歩き回らなければならないのなら、最初にどこへ行っても同じことだろう。
第三フラワーハウスに、人気はほとんどなかった。
もともと、あまり人気のない区画でもある。フラワーハウスとはここでは温室のことだが、薔薇や蘭や、比較的管理の難しい名花を育てている温室とは異なり、ここで栽培されているのはサボテンばかりだ。いつも常に花を咲かせているとは限らないから、来園者はなかに入っても足早に出て行くことが多いのだ。
しかも今はもう閉園間際である。故にイフェリアが温室に入った時には、ほとんど無人に近かった。先客は一人だけ、上品な身なりの老紳士が傍の鉢を眺めている。彼はイフェリアが入って行くと、こちらを振り返ってきた。
「貴女がイフェリアさん、かな。防衛軍の二等指揮官の。第一基地の通信室に所属しているのだったね」
優しげな口調だった。しかしイフェリアは答えなかった。初対面の人間が自分の素性を知っている、それも顔を見ただけで判別できるというのは、充分に警戒するべき事柄だ。
「・・あなたは?」
静かに問い返した。油断なく周囲を見回しながら言葉を紡ぐと、ふっ、と老紳士は軽く笑ってくる。
「そう警戒せずともよい。ここには私と貴女以外に誰もいない。この時間からここの散策を楽しむ者もいないだろう。いたとしても、私の用件はすぐに済む。今のうちに話はしてしまえるはずだ」
「・・話をするだけがあなたの用事であったのなら、なにも私を、こんなところへ呼び出さずともよかったのではないですか?」
なにもあんな妙な方法で電話をかけてこなくてもいいはずだ。言外にそう主張すると、老紳士は再び軽く微笑んだ。
「それでは貴女の周りにいる者たちに知られずに貴女と話をすることができない。私は余計な人目など気にせず貴女と話したかった。自宅に電話をすれば必ず貴女が出るとも限らぬし、かといってまさか緊急通報にダイヤルするわけにはいかぬであろう。知らぬ男が電話をするより、子供にかけさせたほうが警戒はせぬと思ったが、そうでもなかったかな?」
当たり前だ。イフェリアは内心で吐き捨てた。むしろ却って警戒心は高まった。この老紳士が自分で電話してきてもイフェリアは怪しんだだろうが、彼が子供を使って電話をかけさせてきたことで余計に怪しくなった。この老紳士には自分の素性を明かす気がないのではという疑惑が、どうしても消えないからだ。
「――で、あなたの話とはなんですか?」
だがあえてそんなことは口に出さず、イフェリアは淡々と話した。こんな妙な男とこれ以上係わり合いになるのは遠慮したい。相手に用事があるというのなら、余計なことは喋らず、さっさと言わせて帰るに限る。
そのイフェリアの意思は無言のままでも通じたのか、老紳士のほうも淡々とした表情に戻った。
「私の用件は一つだけだ。貴女はシェリヴィナという女性を知っているね?」
静かに問われた。しかしイフェリアはすぐには返答しなかった。質問の意味を図りかねたからだ。
「さあ。存じ上げませんが。同名の女優なら存じておりますがね。昔、父がファンだったもので」
嘘ではない。イフェリアはシェリヴィナとは面識がない。ひょっとしたら映画で見たことや、近所で顔を合わせたことぐらいはあったのかもしれないが、記憶に残っていなかった。記憶にないのなら知っているとは言わない。
すると老紳士は頷いた。
「そのシェリヴィナですよ。私が申し上げているのは。貴女は彼女を知っているはずです。そうですね?」
「まあ、確かに名前ぐらいは知ってます。というより、女優という職業の者に対する一般の認識はそんなものだと思いますが。知っている程度なら私の他にも大勢いると思いますよ。それがどうかしましたか?」
「貴女は名前だけを知っている、という程度ではないでしょう。そんなことはないはずだ。そうでなければ、彼女の代わりにクロックパークを訪れようとはなさらない」
老紳士は訳知り顔で微笑んだ。
「なんのことですか?」
イフェリアは問い返しながらも、あのことだろうかと己の思考を巡らせた。あの、シェリヴィナの家で拾った飼い猫の、首輪に入っていた妙な紙片。麻薬の隠語が書かれたあの紙片を手に、クロックパークを訪れたことを、この老紳士は言っているのか。
だがなぜ彼がそのことを知っているのだろう。イフェリアは訝しんだ。イフェリアはあの紙片に書かれていたことが気になったからクロックパークに行ったなど、誰にも言っていない。両親には観劇を兼ねた観光としか伝えていないし、あのポテトフライの露店の店主も、紙片がシェリヴィナのものであるなど知らないはずだ。そしてイフェリアは、クロックパークではあの店主以外の者と接触していない。
「確かに私はクロックパークには赴きました。露店の爆発事故に巻き込まれましたからね、よく覚えています。しかし私が赴いたのはあくまでも観光のためです。他の来園者となんら目的は変わることがありません。それがどうしてシェリヴィナなどという女優の代わりとして訪れたことになるんですか?彼女はあそこで公演でもする予定がありましたか?あったとしても私はそれとは関わりがないですよ。私は女優ではありませんから」
「そういう意味ではないよ。私の前で惚けなくてもよい。貴女は知っているはずだ。シェリヴィナがアップルワインを愛用していたことをね」
その言葉にイフェリアは沈黙した。咄嗟に何をどう返したらいいか分からない。
「貴女はクロックパークで売人に問うたはずだ。アップルワインを売っている店はどこかとね。どうして貴女がそんなことを知っている?あれは我々が顧客との取引のためだけに作り出した言葉だ。顧客でない貴女が知るはずはない。まあ、一度だけ売人の一人が軍に摘発されたことがあるから、名前だけなら貴女が知っていたとしても不思議はないだろう。しかしあそこを我々が取引の場所としていたことは軍も知らないはずだ。まだ取り締まられたことはないのだからな。にもかかわらず貴女は知っていた。それはなぜかね?そしてなぜ貴女があれを求めるのだ?」
ああ。イフェリアは得心した。ようやく目の前の老紳士の素性が理解できた気がした。
おそらくこの男はあの紙片が指し示す麻薬の、商人なのだ。おそらく配下に大勢の売人を抱え、それぞれに商売をさせているのではないか。あのポテトフライを売っていた露店の店主は、そのうちの一人だったのだろう。メルルという少女に電話をかけさせた名も知れぬ男もそうなのかもしれない。ではあの時の露店の店主がアップルワインのことを訊ねたイフェリアに対して、そんなものは扱ってないと虚言を述べたのはどういう理由によるものか。
考えたがこうなってくると理由は一つしか思い浮かばなかった。シェリヴィナはこの男の取り扱う麻薬を欲して取引をしていた。それの詳細を書いたのがあの紙片だった。麻薬はこの国では違法だ。そんなものを購入し、あまつさえ所持し吸引したなどという事実が明るみに出れば、ただでさえ往時の人気はない彼女の女優としての人生に、致命的な汚点を付けかねない。それで彼女はあの紙片が容易なことでは見つからないよう隠した。高価な麻薬を得られるだけの資金を調達できたら、おそらくその紙片を基に売人に連絡を取って購うつもりでいたのだろう。しかしその前に彼女は死に、そしてその紙片を彼女とは何の関係もないイフェリアが手に入れ、興味本位で売人の下まで辿り着いてしまった。それで焦って咄嗟に否定してしまったのではないか。軍人である彼女に、身元が明らかに分かる場所で自分が麻薬の売人であると明らかになれば大事になるから。
クロックパークで店を構えるには、役所に許可を願い出て許可証を貰う必要がある。その際には当然、身分証なども必要になり、あの場でイフェリアにそのことが知られるのは非常に都合が悪かったはずだ。イフェリアはクロックパークへは私服で行ったが、軍人は休日に遊びに行く時にも軍の階級章を襟元や胸元など目立つところに付けるのが義務とされている。咄嗟の事故や事件に際して、国民が真っ先に頼るのは軍なのだから、すぐに的確な対処ができるよういついかなる時も、誰もがすぐに身元を特定できるように制度ができているのだ。だからあの日も、イフェリアは自分の階級章をコートの襟にさしていた。露店の店主でも、一目見ただけでイフェリアの素性を知ることは可能だったはずだ。しかも軍の階級章は、入隊検査に合格すれば誰でも入ることができる一般兵士と、士官学校を卒業しなければなることができない指揮官のような高位の軍人では色も形も造作も違う。この国では兵士は軍人の指揮下でしか動けないが、軍人は単独で事件の捜査権まで有している。イフェリアに自分の素性が知られれば、そのまま逮捕されるのは自明の理だ。
そうなると、とそこまで思考が及ぶと自然にイフェリアの心には戦慄が走る。こうなってくるとあの露店の爆発事故は偶然とは思えなくなってきた。本当にあの事故は偶然の産物だったのだろうかと思えてくる。イフェリアが再び露店を訪ねたらその露店が爆発し、イフェリアはほんの一時のこととはいえ意識不明の重体に陥った。これが本当に偶然だとしたら些か都合が良すぎやしないか。もしやあの事故は必然なのではないか。イフェリアが再び訪ねてきたことに不安を感じた店主が、思い余って故意に事故を引き起こし、イフェリアを殺そうとした。その可能性もあるのではないか。ひとつ間違えば自分も怪我ではすまない事態になりかねない危険な行為だが、店主がイフェリアの来訪に前後が見えなくなるほど焦っていたとしたら、充分に考えられるように思えた。ああいう露店の焜炉は、昔は炭火が一般的だったらしいが、最近ではもっぱら瓦斯を使う。瓦斯の加減を調整するだけでも簡単に事故は起こせるのかもしれない。実際、瓦斯の使用中に事故や中毒を起こしたという通報は、イフェリアも頻繁に受信する。
しかしすると、この老紳士はあの麻薬をいったいどこから入手していたのであろうか。イフェリアはどうにかしてこの男の身元を特定しようと彼の細部にまで目を凝らした。シェリヴィナがこの老紳士と麻薬の取引をしていたのなら、この老紳士が第一基地の医療隊で開発途中だった新薬を盗んだ可能性もあるからだ。だとするなら彼がどうして基地から新薬の開発資料など盗み出すことができたのか、イフェリアはそれを探らねばならない。
そしてなにより、なぜこんな場所で自分に接触してきたのかを知らねばならなかった。あの露店の店主が意図的に爆発事故を起こして自分を殺そうとしたという自分の推測が真実なら、なぜ今さらあえてそのことを明かしてまで接触してきたのかが分からない。イフェリアはすでにアップルワインが何かも知っており、シェリヴィナのことも知っているのだ。少なくともそう、彼が考えているのは確かなことなのだから、イフェリアをわざわざ自分の前に呼び出す理由が分からない。彼はそうすることで自分がイフェリアに捕まるとは思わないのだろうか。
思っていないはずなどない。だからこそ彼はアニマルパークにいた子供に代理で電話などかけさせたのだから。ではなぜ、彼は自分を呼び出したのだろう。
「――まあ、求める理由は想像がつきますがね」
問うているのに老紳士はイフェリアの返答は勝手に想像したようだった。イフェリアの答えなどほとんど待つ様子も見せず、ふっと笑ってくる。
「おおよそのところは私にも分かりますよ。それで、今日はここに貴女をお呼び立てさせていただいたわけです。おそらく、貴女にとっても悪い話ではないと思いますので」
「・・どういう意味ですか?」
イフェリアは問うた。発言の意味を図りかねた。
「私どもは確かにアップルワインを商品として商っておりました。それはお認めいたしましょう。事実ですからね。そして貴女が求められているはずのあれも、商いの品として扱っておりました。それを確認したかったのでしょう?貴女はあれをシェリヴィナが愛用していたことを知っていた。だからアップルワインのことを口実に、クロックパークで我々に接触してきたのですよね?しかしあれのことを公の場に出してしまうことには、貴女にとって非常に都合が悪いはずです。そうではないのですか?」
「仰る意味がよく分かりませんが?」
イフェリアはあえて惚けてみせた。
「麻薬の売買はこの国では犯罪です。犯罪を取り締まるのは軍の務め。それでいったいどのような不都合がありましょうか?」
「私どもがあれを手に入れたのが軍であってもですか?」
老紳士は逆に問い返してきた。
「機密の流出はさすがの防衛軍にとっても大変な不祥事になることだと思いますがね。特に、そのせいで一人の人間が死んでいるのですから」
「ああ、そのことですか」
イフェリアはあえて淡々としてみせた。ここで動揺した様子や困惑した様子など見せてはならない。そんなことをすれば相手の掌で踊らされるだけだ。
「確かに、単に流出しただけでしたら大問題でしょう。私は医療隊の所属ではありませんが、新薬の開発資料の紛失、盗難は開発者にとって大変な損失です。なんとしても取り戻さねばなりませんし、取り戻すということは、資料を盗んだ者を窃盗犯として逮捕するということです。逮捕して、その者の居所から資料を押収する。当然のことではないですか?世間は我々を非難するでしょうが、捕まえてしまえばそれほど騒ぐことはないのではないですか?軍の損失は国の損失で、ひいては国民の損失になりますが、捕まえたのならその損失は取り返すことができますからね。臨床試験も経ていない薬が一般医薬品として出回っていたのであれば話も違ってくるでしょうが、麻薬として流通していたのなら真っ当な市民は購入していませんから。シェリヴィナという女性に対してだけはもはやお詫びのしようもありませんし、遺族には軍が責任を持って充分な補償をする必要がありますが、それはもう医療隊のほうで準備を進めているでしょう」
だからあなたが案じねばならないことではないと、イフェリアはきっぱりと告げた。
「あなたが案じねばならないのは私どものことではなく、むしろ自分たちの今後のことでしょう。麻薬の売買がこの国でどのような罪に問われ、どのような刑罰が課されるのが慣例なのか。存じ上げないわけではありますまい」
「それは勿論存じておりますよ。しかしお若い貴女はまだご存じでないようだ。世の中、そうそう貴女の思ったとおりに事は進まないものですよ」
「どういう意味ですか?」
「例えば私があれを手に入れたのが、そもそも軍が新薬の開発資料を売ったからだと告白したら、どうなりますか?」
周囲に沈黙が落ちた。イフェリアがすぐには言葉を返さなかったからだ。イフェリアは慎重に問い返す。老紳士の問いの意味を、図りかねた。
「――それは、あなたが軍の開発した新薬を手に入れたのは盗んだからではないという主張ですか?軍のなかにその開発資料を売った者がいた。自分はそれを買って使ったにすぎない。確かに犯罪に使いはしても、そもそも軍が売ることがなければ自分はそれを入手することすらできなかったのだから、全ての非は軍にあると?」
「そうですよ。その事実を公にしてもなお、この国の民は我々だけが悪だとお考えになりますかな?」
イフェリアは眉を顰めた。
「それは脅迫ですか?自分たちにも罪はあるが、そもそも軍の売却という行為がなければ罪は犯しようがなかったと。つまり麻薬を流通させたのも、シェリヴィナという女優を死に追いやったのも、元はと言えば軍なのだから自分たちの罪などたいしたことはないと」
「そんなことは申し上げませんよ。しかし、世間のなかにはそのように考える者もいるだろうということです」
老紳士はやんわりと首を振った。
「ですから私は貴女に申し上げたい。何もなかったことに致しませんか?少なくとも今回は。私を逮捕したとしても、貴女の名誉に繋がることはないかと存じますよ。そもそも犯罪のきっかけを作ったのは軍なのですから、身内の恥を身内で雪いだだけと冷笑されるだけではないですか?それならば、ここは沈黙に徹したほうがお互いのためでもありますよ」
イフェリアはふっと笑った。ようやく彼の言いたいことを悟ることができた。
「生憎ですが、そのご要望には応じることができません」
明確に伝えた拒否の意思だった。沈黙には到底、応じることなどできない。国の防衛と治安を預かる軍が、身内の不祥事に関わるからと犯罪を黙認することなどできるはずもない。そんなことをすればそれこそ国民の軍への信頼感という、最も大切なものに重大な瑕疵がつく。
「ご用件は、それだけですか?」
イフェリアは極めて事務的に応じた。彼の会話の目的が知れてしまえば、もはやイフェリアのほうに彼と話さねばならないことは何もない。
「――何もなければ、閉園の時刻も迫っていますので、これで失礼いたします」
老紳士の言葉が途切れると、イフェリアは彼が再び口を開くより前に足早に温室を退出した。
――初めてだわ。あんなに堂々と軍人に癒着を要求してくる犯罪者なんて。
イフェリアは呆れた思いを抱きながら、客室のベッドに身体を投げ出すようにして座り込んだ。
――とりあえず、あのお爺さんの身元を、特定するのが最優先ね。
これは難しいことではないだろうと、イフェリアはシャワーを浴びる前に枕元に置いておいた自分のハンドバッグを引き寄せて中をまさぐった。なかから取り出したキャンディを口に入れながら思索に耽る。甘いものを食べると考え事が捗る、いつものことだ。
あの老紳士は最後まで自分の名を明かさなかった。明かせるはずなどない、自身が犯罪者だと自覚していればなおのこと、軍人の前で己の素性を詳らかにするような愚を犯すはずがなかった。しかし名前など分からなくても身元を探る手がかりはある。なにより、あの場でもしも彼が名を名乗っていたとしても、ほぼ間違いなく偽名であろう。
名前が分からなければ、この場合は容姿が重要な手がかりになる。容貌、声の特徴、喋り方、言葉の端々に滲む訛りの有無とその種類、服装、そしてその人物が現れた場所。
これらの事柄だけでも、その人がどういう人物なのかを探る手がかりは容易に得られる。出身、職業などがある程度には推測がつけられる上、会話の内容を分析することで日頃の行動半径や交遊関係も推察することが可能になる。今回はそれは若干の困難を伴うがあの時の露店の店主が配下の一人らしいと分かっているだけでも大きな手がかりだ。なによりいちばんの大きな手がかりは。
――顔が分かれば、人捜しは特に簡単だわ。
イフェリアはバッグからノートと鉛筆を取り出した。鉛筆を軽く削り、尖った芯先を紙面にこすらせるようにして絵を描いていく。記憶が掠れてしまわないうちにあの老紳士の顔をノートに描いていった。事件の捜査の際、似顔絵はとくに有力な捜査資料として使用できるため、士官学校では美術が必修の教科と定められている。イフェリアは自らの美術表現能力を高いとは評価していないものの、写生に関してだけは下手とは認識していなかった。自分で見た顔ぐらい、正確に描けるという自信はある。
描けたら、明日にでもこの絵を持って医療隊を訪ねるべきだろう。この老紳士が語ったことを詳細に告げ、彼らの判断を仰ぐべきだ。軍が開発資料を売却したから犯罪に手を染めたという彼の言葉が真実であるなら、そうすることで自ずから彼の身元は判明するかもしれない。そうなれば、後は警邏隊の役目だ。そのほうがいい。二等指揮官である自分は、こういった事件の捜査権も逮捕権も有しているが、あの場で逮捕していれば事情が事情だけにいろいろとこじれるものがあっただろう。
そう思って、まずは描画に専念する。色をつけるための画材などは持参していなかったが、鉛筆の濃淡だけでも臨場感のある似顔絵は描けるものだ。学生の頃は油彩や水彩よりもむしろ鉛筆だけで描く速写のほうが得意だった。これくらいの絵はたいした手間でもない。
似顔絵を描き終わると、イフェリアはノートと鉛筆を元通りハンドバッグにしまって、ベッドから立ち上がった。壁際の小テーブルに歩み寄る。部屋に入る前に一階の売店で買っておいた缶入りのコーヒーを取り上げた。プルタブを引き開けて飲みながら椅子に座る。
ここはあのフラワーハウスパークからほど近いところにあるホテルの一室だった。閉園の直前にパークを出たイフェリアは、自宅までの最寄りの停留所に停車するバスの最終便に乗り遅れた。それで仕方なくこのホテルに宿泊を決め、一階のエントランスホールにある公衆電話で両親に連絡を入れ、こうして客室に入ったのだ。明日の朝、いつもより少し早めに起きて始発のバスに乗れば、充分いつもどおりの時刻に基地に着く。乗り換えが少々面倒になるが、それぐらいはなんでもない。
コーヒーを飲みながら、これも同じく売店で買ってきたパンを袋から出して口に含んだ。細長く焼いたパンの中央に切れ目を入れ、野菜や肉を挟んだものだ。単純な食べ物だが、安くて美味しく、どこでも手軽に食べられるため外出先で食事を摂らねばならない時には重宝する。食べ物を扱う店では、だいたいどこでも売っているからだ。調理が簡単だからイフェリアも自宅でよく作る。片手でも食べられるから非常に便利なのだ。
簡単な夕食を終えてしまうと、イフェリアは歯を磨いて入浴を済ませ、すぐにベッドに入った。シャワーを浴びているあいだ、以前の襲撃のことが思い出されてきて自然に緊張したものの、当然というべきか、ホテルの客室に不逞の輩の襲撃などはなかった。人目のある施設だからか、それとも警備があるからかはともかく、何もなかったことでイフェリアは安心して眠りに就くことができた。
だがその安穏とした眠りは、突如として鳴り響いてきたけたたましい音に打ち破られた。
――何事。
イフェリアの睡魔は一瞬にして飛び去った。もともと、こういった宿泊施設ではさほど深く眠れる性質でもないのだが、そうでなくてもここまでの大音量が急に響いてきたらすぐに目を覚ましただろう。否、今も響いている。そしてそれは、イフェリアにとって聞き慣れた音だった。
――大変だわ。
すぐさまベッドを飛び起きてバッグを手にし、足を引きずりながらも急いで部屋を駆ける。急な宿泊で寝間着など準備していないせいか、まるで基地の仮眠室で寝ている救急隊の兵士のように動くことができた。最低限の動作で最速の行動をとること、それが基地で待機している兵士全員に与えられた鉄則だ。時間は、一秒たりとも無駄にしてはならない。
――誤作動だといいけど。
部屋のドアを開ける直前に一瞬だけ思ったその思いは、しかしすぐに誤りだと知れた。外の廊下にはすでに異臭が漂っている。うっすらと煙ってさえいた。誤作動などではない、誰かが悪戯で鳴らしたのでもない、紛れもなく、本物の非常ベルの音だ。――どこかで火災が発生している、その音だ。
イフェリアは咄嗟に口をハンカチで塞いで煙を吸い込むのを防ぎながら、煙の漂い方を見た。煙の様子を見て、どこが火元か探る。ホテルで出火したからといって、必ずしも厨房が火元とは限らない。客室で喫煙する宿泊客もいるだろう。もしも放火だとしたら、それこそ思いもかけぬところから火が出ていることだってありえる。
煙が漂ってくる方向から、逃げるべき方向を一瞬で見極めると、イフェリアは非常ベルの音にうろたえて廊下に出てきた他の部屋の宿泊客たちを、大声で誘導しながら避難していった。ホテルに泊まる時、最初に確認すべきことは客室の設備などより非常口の位置だ。万一の際、どうやって避難するべきか、それは何よりも優先せねばならないことで、だから避難も、足が悪いにもかかわらずイフェリアがいちばん迅速だった。自分の素性を、ハンカチ越しとはいえ大声で叫びながら、人々を非常口に誘導していく。
廊下を走りながら、手早く客室を改めていく。逃げ遅れがいないかどうか、一つ一つ部屋を覗きながら確認していった。走る、確認するといっても、そもそも片足の悪いイフェリアは普通の人よりも非常時の避難は遅れやすい。だから確認作業、誘導作業に時間をかけることはできなかった。下手に時間をかければ自分が逃げ遅れてしまいかねない。
イフェリアは廊下に据え置かれていた消火器を片手に廊下を移動していた。と、視界の片隅に動く人影が確認できた。そちらを素早く確認する。自分の指示に従い、辺りをイフェリアよりも速く走っていく人々のなかにあって、その者の動きはひどく緩やかだった。
――この人、目が。
それはまだ若い男性だった。しかし彼の動きを見れば、その男性が目が不自由な人間であることはすぐに窺い知れた。彼は客室の壁に手をつき、音と臭いの源を探るようにしている。聴覚と嗅覚だけを頼りに、必死で現状を確認しようとしているのだろう。
「――こちらに。私は軍人です。助けに来ました。私について、避難してきてください」
イフェリアは彼に駆け寄り、腕をとって非常口へと誘導していった。部屋を出る際にその部屋にも逃げ遅れがいないか確認し、廊下の人気も絶えていることを確認してから、非常口に飛び込んだ。
目の見えない男性を誘導しながら、煙で白濁し視界の利かない階段をできるだけ速く、しかし慎重に駆け下りていく。自分も足に不自由を抱えているのだ、こんなところで足を踏み外しでもしたら洒落にならない。この男性の部屋が、非常口に最も近いところにあったのは助かった。ひょっとしたらこれは従業員の配慮かもしれない。障害のある者がいざという時に素早く避難できるようにとの。有り難かった。こういう災害を誰よりも恐れているのは、他ならぬ自分たちのような者だからだ。
姿勢をできるだけ低くし、傍らの男性にも姿勢を下げさせ、口許は手で覆っているよう指示した。視界と、足許の感触にだけ意識を集中させながら非常階段を降り続け、そしてふいにバランスを崩した。一瞬、ひやりとして転倒に備えたものの、それはならず、足はしっかりと地面を踏みしめていた。どうやら気づかぬうちに階段は終わっていたらしい。降下することだけを考えていたので、突然に降りるべき場所がなくなって無意識が混乱したのかもしれなかった。
だが、これで地上に着いた。それは確かだと安堵できた。イフェリアはその安心感を抱いたまま、あともう少しだと、傍らの男を励ましながら階段の先、外へと続く通路を駆けた。
ホテルの火災は、ほどなく鎮火した。
イフェリアはその報を、路上で救急隊や警邏隊の兵士たちが消火や救助を行っているのを見守っている時に聞いた。煙を吸って病院に運ばれた者が複数名いるらしい。しかし死者や逃げ遅れはいないと聞き、ほっと胸を撫で下ろす。軍人が現場にいておきながら、逃げ遅れの存在に気づかなかったなど、あってはならないと思った。
火災は、やはりイフェリアの推測した通り、イフェリアが宿泊した階の、客室の一つから発生したらしい。客室からの出火なら、原因はおそらく宿泊客の誰かの煙草の火の不始末ではないかと、兵士の一人が言っていた。他に考えられないと。
実際、イフェリアもそう思った。そういう小火騒ぎは何も今回が初めてではない。緊急通報の受信が生業のイフェリアはそれを誰よりもよく知っていた。だからこそ宿泊にあたっては最初に非常口や避難路を確認したのだ。ホテル側も概ねそれは心得ているのだろう。昨今ではホテルの客室に灰皿は準備されておらず、マッチの販売も行われないのが普通だが、客の荷物まで従業員に検められるはずもなく、この種の騒ぎはいっこうに減る気配がない。今のところ、惨事と言えるほどの大火だけは起きたという話を聞かないが、それはもしかしたらものすごく幸運なのではないか。何か、そんなことにはならないよう対策を考えるべきなのではないのか。
しかしそれを考えるのは自分たち軍人よりむしろ政治家の仕事であろう。イフェリアはそう考えるとそれ以上の思考を放棄した。外に出て、助かったと安堵すると急速に疲れが押し寄せてきた。時刻が深夜であることもあって眠気も催されてくる。これ以上、煩わしいことを考えていたくなかった。なにはともあれ、とにかく自分は助かったのだ。それで満足だ。
イフェリアはその後、救急隊の者に怪我などしていないか簡単に診られた。それから警邏隊の者に当時のことについての簡単な質問をされ、そしてすぐに警邏隊の車両で自宅に帰されることになった。遠方からの旅行客は近隣の別のホテルに移ったり、あるいは入院した者もいるというが、イフェリアはそうはならなかったのだ。本来なら別のホテルに移るところだが、警邏隊に頼んで送ってもらうことにしたのである。イフェリアの自宅までは、徒歩ではとても遠くて朝まで辿り着けない距離にあるが、自動車であればいくらもかからない。それでそう頼んだのだ。とてももう一度、ホテルに入る気にはなれなかった。安心できる自宅で、両親のいる我が家で眠りたかった。
それで夜更けにイフェリアは警邏隊の車両で自宅まで帰り、夜中にも関わらず起き出してきた両親と家に入ると、そのまま眠り込んでしまった。両親はすでにイフェリアを襲った災禍について聞き及んでいたらしく、事情を聞きたがったが今夜ばかりはイフェリアもその心配を鬱陶しいと思ってしまった。とにかく疲れていた。眠ってしまいたかった。
それで朝も遅い時間まで自分の部屋のベッドでぐっすり眠り込み、ようやく目が覚めると、驚愕の報にイフェリアの意識はあの火災の発生時並みに昂ぶった。それほど信じられない報せが飛び込んできたのだ。
あの火災は放火であると。それを防衛軍のエアルという軍人が自白したという報だった。