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襲撃事件と盗難事件

「――なーんかずいぶん久しぶりだね。こうして二人だけでランチするのって」

 学生の頃に戻ったみたい。そう呟いてピュラナはふふ、と軽く笑った。つられてイフェリアも軽く笑う。お茶の入ったカップを口に含んだ。常々、安いだけが取り得でぜんぜん美味しくない、ほとんど色のついたお湯だと思ってきた食堂の紅茶も、なぜかこうして親しい友人と飲むと美味しく感じるから不思議だ。

 イフェリアがいるのは第一基地の食堂だった。昼夜を問わず一日を交代で勤務する軍人であれば誰でも利用できる。ここで日々の軍務の合間に食事を摂ったり場合によっては喫煙などを楽しみ気力体力を補充するのだ。街のレストランよりも安い料金で食べられることからイフェリアもピュラナもけっこう頻繁に利用している。味のほうはいまひとつでも値段と提供時間の早さには素晴らしいものがあった。この食堂で働く人々は、基地では数少ない軍人ではない一般市民で、基地の近所の家々から毎日通ってイフェリアたち軍人のために食事を作ってくれる。軍人でもないのに彼ら彼女らの手際の良さは軍人並みにいっさいの無駄がなかった。基地で働いているうちに軍の規律が食堂の従業員にも影響を与えるのだろうかなどと思ってしまう。

「本当。最近なかなかピュラナとは時間が合わないもんね」

「そうそう。イアは最近、どうしてる?急に会いたいなんて言われたから吃驚しちゃったんだけど、通信室ってすごい忙しいんでしょ。噂に聞いてるよ。毎日電話が鳴りっぱなしで耳が痛いって」

 イフェリアは曖昧に微笑んだ。忙しいよ。けど基地はどこの部隊もそうだから。

「むしろずっと屋内で座ってられるんだから楽かもしれない。警邏隊や救急隊みたいに街じゅうを駆けずりまわったり、航空防衛隊みたいに空中で一触即発なんてこともないしね」

 ふうん。ピュラナは相槌を打って口のなかにちぎったパンの欠片を投げ込んだ。

「まあ、あの人たちはいわば最前線だからね。けど、本当に辛いのは実は基地勤務の自分たちのほうだから。イアももうちょっとしたら分かるようになるわよ。同じように日々職務に精励しても、基地勤務には昇進なんかの機会がほとんどないからね」

 しかもやることは毎日毎日変死体の解剖ばっかりだし。と、なかば愚痴るようにこぼしてから、ピュラナは苦笑してイフェリアを見た。

「いけないいけない。イアは人生の選択に失敗した軍医の愚痴聞きにきたわけじゃないもんね。私に聞きたいことって何なの?」

 視線が合うと、イフェリアも苦笑してしまう。シェリヴィナという女性のことなんだけど、と言葉を紡いだ。

 ピュラナは第一基地に所属する軍医で、唯一の女医だった。一般の病院には今時、女医などたいして珍しくもないが、軍医となると今でも女医は希少だった。この国では軍医は軍人に含まれるから、士官学校を卒業しないとなることができないからだろう。士官学校は軍人を育てる学校であるだけに入学志望者は圧倒的に男が多いのだ。しかも指揮官として軍で出世することを夢見て入学する者たちばかりが集まってくるのだから、必然的に後方支援に廻りがちな軍医は敬遠される。そもそも軍医自体が人気のある職業ではない。軍医の仕事など、ほとんどが近隣の街で見つかった変死体の解剖と軍人の健康観察ばかりだからかもしれない。臨床の経験を積む機会はそう多くなく、退役した後に街で診療所を開こうとしても一般の医者より不利になる。そのため、どこの基地でも軍医は慢性的に人員が足りないものだった。したがって管轄を越えて執刀することも頻繁にあり、それでイフェリアはシェリヴィナのことを聞くために真っ先にピュラナを訪ねたのだ。フラワーレイン地区で変死した女性なら、ピュラナが解剖した可能性が高い。死体の解剖でも健康観察でも、相手が女性なら女医が担当するのが普通だ。少なくとも軍ではそうなっている。

「このあいだ、フラワーレイン地区でシェリヴィナという女性が亡くなったでしょ。彼女がどうして死んだのか知りたいの。ついでに、彼女が殺したのがどこの誰だったのかも。ピュラナはそれ聞いてない?」

 ピュラナは当惑したような表情をした。

「フラワーレイン地区の、シェリヴィナ?――ああ、あの売れない女優さん?あの人って誰か殺してたの?私はなんにも聞いてないけど」

 驚いたような声音だった。イフェリアは頷いた。

「そう。ああ、解剖したのはピュラナじゃないの?そのはずよ。通報の電話で本人が自分からそう言ったんだから。自分は人を殺した、これから自殺するって」

 へえ、とピュラナはパンをちぎる手も止めて本当に意外なことを聞いたような顔をした。

「それは知らないわ。初めて聞いたもの。――ああ、でもそういえば、警邏の人が変なこと言ってたわね。殺しを自首するって電話だったのに行ってみたら死体がなかったとかなんとか。あれのことかしら」

 何かを得心したような口調だった。イフェリアは首を傾げた。軽い痛みが首筋に走ったが、それは無視する。

「死体が、ない?」

 ピュラナは頷いた。

「そう聞いたよ。けど電話した後に自殺しちゃったのは事実だから、薬でもやってたんじゃないかって、そう言ってた。だから私、あの女性の血液をけっこう念入りに調べたんだけど、確かにいろんな幻覚剤の成分が出てきたのよね。そうしたら、ああやっぱり、ってことになったみたい。麻薬中毒者が変な幻覚でも見て、自分は殺人犯だって思い込んだんだろう、ってさ。そんなことあるのかと思ったけど、それ以外に説明がつかなかったらしいから。警邏の人、家じゅう調べて庭に穴まで掘ったらしいよ」

 イフェリアは思わず考え込んだ。シェリヴィナの今際の言葉が耳に甦ってくる。

「――血液のなかに幻覚剤の成分が残ってたってことは、彼女は死ぬ直前まで薬を使ってたのよね?」

「そうだと思うよ。あの薬は、そんなに長い間は身体に留まってないし」

 言って彼女はイフェリアに、シェリヴィナの体内に残留していたという薬の名前を教えてくれた。

「じゃあ、死因は、なんだったの?そういうことなら、やっぱり薬物中毒?」

 ピュラナは首を振った。

「違う違う。自殺したのよ、それは確か。自分でナイフを持って自分の喉を突いたの。警邏の人が行った時には血まみれだったってさ。だから死因は自傷行為による大量出血がもたらした失血死ってこと。私は報告書にそう書いたよ」


 あれが薬で錯乱していた人の声?

 イフェリアはピュラナと別れ、食堂から通信室へ戻る道すがら、考え込んだ。やはり何度考えても、シェリヴィナの言葉は薬物中毒者のそれには聞こえなかった。

 ――薬でありもしない幻を見るほど酩酊している人なら、あんなに冷静には話せないはずだし。

 幻覚を見るほど薬に酔っている人は、そもそも冷静な思考など働かせられないはずだ。イフェリアは職業柄、それを疑われる人の言葉など何度も聞いたことがあるし、酒に泥酔している人ならそれ以上に頻繁にある。そのいずれもが支離滅裂にしか話せなかった。何を言っているのかも分からない人も珍しくはない。あんなに落ち着いて話せる薬物中毒者など見たことがない。

 勿論、彼女が薬を使っていたことは事実だろう。あの妙な紙切れのこともあるし、何も用いていないのなら人を殺したなどと、虚偽や悪戯で述べられることではない。ならば、彼女は本当に人を殺したのではないのか。そう考えるのが自然な気がする。彼女は本当に人を殺した。そして自首するつもりだった。けど死んだ。死んだ後に血液中から麻薬が見つかり、さらに現場に死体がなかったことから軍は幻覚として処理した。

 ――そんなことってある?

 イフェリアは内心で首を捻った。傍目には不自然さはないように見える。しかしイフェリアは納得できなかった。彼女が麻薬に酩酊しているようには聞こえなかったし、麻薬に酔っていたのでないなら現場に死体があるはずだ。これから自首しようとわざわざ軍を呼び、死ぬ覚悟まで決めた人間が、わざわざ手間をかけて軍が容易には探せないようなところに死体を隠すとも思えない。それとも、殺して死体を捨てたのはもっと以前のことなのだろうか。それが最近になって罪悪感に耐え切れなくなってきたのか?

 ――もういちど、あの日の電話の声を聞いてみようかな。

 腕時計を見た。お昼を早めに終わらせたおかげでまだ少し時間に余裕があった。通信室の隣、通信資料室に足を向ける。あまり時間はかけられないが、数日前のことならすぐに記録は見つかるはずだった。


「――お疲れ。あれ、イフェリアはまだ帰らないの?」

 通信室の同僚に声をかけられ、イフェリアは書き物をしていた手を止めて微笑んだ。

「うん。私はまだやることがあるから、先に帰って。お疲れ様」

 同僚の女性兵士はイフェリアの手元を覗き込んできた。

「なにしてるの?――あー警戒指示書。なに、今日、そんなにやばい通報あったの?」

 イフェリアは苦笑して頷く。警戒指示書とは通信室の交換手が緊急通報を受信した際に、通報そのものに緊急性はなくても犯罪の気配を感じた時などに交換手がしたためる指示書だ。この指示書は警邏隊に属する全ての軍人に行き渡り、今度の警邏の要注意先として優先的に見て廻るようになっている。それで犯罪を未然に防ごうというものだ。過去にこれがきっかけとなって暴かれた犯罪は幾つもある。子供の悪戯電話と思っていたら実は虐待が行われていた、耄碌した老人の妄想だと思っていたら実際に不法侵入者がいた、など、そういう例は多いのだ。

「面倒だよねえ。でもさ、なんかちょっとやる気でるよね?こういう時って、自分たちが最前線って気がするじゃん。私たちだって、単なる電話番じゃない軍人なんだって気になれるし」

 頑張ってね、そう言い残して彼女は去っていった。イフェリアは息を吐いて再び書面に向かう。続きの文章をしたため始めた。これは本来なら警戒指示書の対象ではない、しかし、どう考えても報告しなければならない奇妙な事態だった。

 ――普通なら、通報記録がこんなに早く消去されるはずがないからね。

 イフェリアが通信資料室で調べてみると、シェリヴィナが通報した時の記録だけが綺麗に消えていた。緊急通報は、受信と同時に自動的に録音されるようになっている。事件の第一報を伝える電話が多いために、後々のことを考えて長期間、通報の電話そのものを録音して保存するようにしているのだ。記録は録音テープの耐久年限中はずっと保存されるし、特に重要なものはテープそのものが劣化して聞き取れなくなる前に新しいテープにダビングして何十年も保存しておくことさえある。それらの保存記録は全て通信資料室に保管されるのだ。内容を考えれば、シェリヴィナの通報記録がたった数日で廃棄されるというのは考えにくい。というか、そもそも明らかに軍は関係を持たなくていい迷惑通報の電話であっても僅か数日で処分されることはないものだ。実際、あの手伝いを寄越せと非常識な電話をしてきた料理屋の女将の通報も、勘違いで息子の不明を訴えた老人の電話の記録も、きちんと残されていた。彼女の記録だけが消える道理がない。

 本来ならあるはずの通報記録が消えている。これは充分に不審を感じていい事柄だった。だからイフェリアはこのことを警戒指示書に記入して通信室の室長に報告すべきだと思ったのだ。警戒指示書はいちおう通信室内部に犯罪の疑惑がある時にそれを室長に報告する書面でもある。だからイフェリアは報告にこの書面を使った。犯罪というには大仰でも、この異常は見逃すべきではない。シェリヴィナの記録が消えている原因が如何にあるにしろ、通信記録の管理は通信室の室長の務めだ。

 ――どうして記録が消えたりしたのかしら?

 イフェリアは書面をしたためながらその疑問を弄んだ。理由は全く思いつかなかった。故意に廃棄するようなものとも思えない。では誰かが誤って廃棄したのか。あの記録を資料室に保管するための手続きをしたのは自分だ。廃棄した覚えなどない。確かに保管したはずだ。ならば自分が保管した後に誰かが誤って廃棄したことになる。そんなことがありうるのだろうかと思った。あの部屋に保管した後は、通報の記録など必要がない限り取り出したりはしないはずだ。誰が取り出したというのだろう。

 ――警邏隊の人?シェリヴィナに殺人の疑いがあったから、確認のために記録を取り出して聞いたのかしら?

 そしてそのままうっかりごみと一緒にどこかに投棄した?ふいにその考えが浮かんだ。彼らが大事な記録をそんな杜撰に扱うのだろうかと思ったが、他に記録が消える理由はイフェリアには分からなかった。


 その夜は、イフェリアが帰宅しても家には誰もいなかった。

 居間のテーブルの上に母が残した書き置きが載っている。歌手の人との打ち合わせで遠方に行くとのことだった。泊まりなるかもしれないからとどこかの電話の番号らしき数列も書かれている。たぶん泊まる宿屋の番号だろう。イフェリアは何も感じずにその書き置きを流し読みして、一人で夕食の支度を始めた。下ごしらえは母がやってくれたらしい。加熱するだけでよかったので、イフェリアにはずいぶん楽だった。

 イフェリアの母は、演奏家だった昔の経歴を生かして今は時折作曲家としての活動もしている。決して売れっ子ではないが、歌手の人と組んで曲を作ったり、舞姫と組んで既存の楽曲を舞台用に編曲したりもしていた。イフェリアは音楽はあまり好きではなかったが、親が今でも自分の特技を生かして活躍しているのは嬉しいし、一人で過ごす夜というのも気楽でよかった。親が不在で寂しかった頃はすでに遠くに飛び去った。父がいないのは夜勤だからだろうが、これはいつものことだから気にもならない。

 夕食のシチューが温まると、イフェリアはそれを皿によそって紅茶を入れ、一人で食事を始めた。静寂が気に障るようになるとラジオをつけ、流行りの音楽やニュースを聞く。食事が終わり食器を片付け終えると、イフェリアは浴室に向かった。団欒に興じる相手がいない夜には、早めに湯を使って本でも読みながら眠りにつくのが一番だろう。イフェリアはシャワーヘッドを持って頭から熱い湯を浴びる。日中の疲れを汗や埃とともに洗い流し、シャンプーに手を伸ばそうとしてふと蛇口を閉めた。咄嗟にドアに近づいて掛け金も下ろす。周囲の音に耳を澄ませた。その瞬間、家のどこかで、がたり、と大きな物音が響く。

 ――なんの音?

 イフェリアは俄かに緊張した。息を顰めて耳を澄まし、外の音を一音も漏らさず聞き取ろうとする。すると再び、がたっ、と荒っぽい音が聞こえてきた。誰かが動きまわるような音がしている。足音だとすぐに気づいた。誰かが家のなかを動きまわっている。歩きながら、家捜しでもしているかのような音を立てている。

 ――誰?まさか、泥棒?

 全身に戦慄が走った。少なくとも両親のどちらかが帰ってきたのではない、と思う。父も母もこんなに荒っぽい物音を家のなかで立てたりしない。しかし両親でなければ、他の誰もイフェリアの許可なく家に入れるはずがない。

 ――けど泥棒なら、浴室には近づかないわよね?

 そのはずだった。そのはずだと信じたい。灯りが消えているのを見て、この家が留守宅だと信じた空き巣が、窃盗のために侵入したのなら、金品など絶対に置かない浴室になど、入ってきたりはしないはずだ。運が良ければ脱衣所の扉から漏れる明かりに、在宅であることを知って、逃げ出してくれるかもしれない。

 だがそうはならなかった。足音はむしろ浴室のほうへと近づいてくる。音はどんどん大きくなってくる。そして唐突に止んだ。その瞬間に木材がひときわ大きな音を立てた。

 ――外に、いる。

 もはや考える必要もなかった。この音は誰かが外から脱衣所の扉を開けようとしている音だ。もはや絶対に両親ではありえない。父も母も、こんなふうにドアを無理やりこじ開けるようなことはしない。だがなぜ、泥棒が脱衣所への侵入を図っているのだ。こんなところに金品を置く家など、あるとは思えない。なぜそんなふうに考えたのだ。

 イフェリアは狼狽した。脱衣所には鍵がついているものの、あれは鍵というより単なる掛け金だ。防犯の用途などほとんどない、単に入浴中の人の出入りを制限するためのものにすぎないのだから、力任せに開けようとすれば壊されるのも時間の問題だ。浴室のドアに急いでかけた掛け金も、構造はほとんど変わらないのだからほとんど防御としては使えない。いや、いちおうは木製の脱衣所のドアよりもさらに浴室のドアのほうが脆弱だった。浴室のドアはすりガラスだ。その気になれば、割るのは容易いことだ。

 ――なんとかしないと。

 木材がしなるような音がした。もはやドアが壊されるのは時間の問題だ。イフェリアはシャンプーと一緒に置いてある浴用のタオルを身体に巻きつけ、父の髭剃り用剃刀を武器代わりに構えた。浴室は狭く、武器に使えるものなど何もない。おまけに床は濡れて滑りやすく、戦おうと思えば自然と不利になる。しかしイフェリアは怯えていても怖じ気づいてはいなかった。これでも軍人だ。実戦の経験はなくても戦いの仕方ぐらい心得ている。半年前に卒業するまで、三年も士官学校に在籍していたのだ。剣でも銃でも素手でも、その気になればどんな手段でも戦える。

 覚悟を決めた時、激しい音を立てて脱衣所の扉が内側に倒れ込んでくるのが見えた。誰かが脱衣所内に踏み込んでくる。すりガラス越しではその誰かの人相までは分からなかったが、ずいぶん背の高い人物だった。イフェリアは女性としては背が高いと自負している。その自分よりも頭一つ分は大きいのだから、男性だったとしてもかなり長身の人物だ。

 その誰かは浴室のドアを引き開けようとした。しかし先ほどかけた掛け金が最後の防御としてイフェリアの味方となった。ドアは開かなかったが、すぐに誰かはドアが開かないのなら蹴り破ればよいと考えたらしい。外側からの強い衝撃を受けてドアが震える。ガラスのドアは脱衣所のドアより呆気なかった。すぐに下のほうが蹴り破られ、ドアが内側に倒れ込んできた。

 音を立てて破片が床に砕け散る。反射的に目を閉じたがその一瞬が大きな隙になってしまった。気づいた時には目の前に敵がいた。目深に被った帽子のせいで顔はよく見えなかったが、大柄な男だということは分かった。イフェリアは懸命に剃刀だけで応戦した。

 ――どうにかして、ここを切り抜けないと。

 とにかく浴室を出ることだと思った。狭い浴室には窓がない。脱衣所に出ないことにはどうすることもできない。しかし脱衣所にさえ出てしまえば、後はなんとかなる。なにより電話があるのだから、どこにでも助けを呼べるのだ。

 それで必死に剃刀を振り回した。侵入者のほうは武器など持っていなかった。自分を殺すつもりで押し入ってきたわけではないということだろうか。金品目当てに侵入したら、たまたま女が一人でいたために先に襲っておくことにした、そういうことなのだろうか。

 いい覚悟だとイフェリアは不敵に笑った。女だから誰もが非力だなどと思い込みは、この場で捨てさせてあげるわね。

 繰り返し剃刀を突き出す。目を狙って剃刀の刃先を向け続けた。目に刃物が急速に接近してくれば、誰もが本能的に目を閉じる。その隙を狙い続けた。本当に目を刺すつもりはない。しかし一瞬でも相手が自ら視界を塞げば、勝機はこちらにあるはずだ。

 ――今だわ。

 好機は訪れた。何度目かに突き出したイフェリアの剃刀に、侵入者が反射的に目を閉じた。一瞬のことだったがイフェリアにはそれで充分だった。その一瞬にイフェリアは侵入者の首筋、急所を狙って拳を叩き込む。侵入者はそのまま仰向けに倒れて気を失った。

 イフェリアはその隙に浴室を飛び出した。ガラスの破片を踏まないよう気を配りながら脱衣所に飛び込み、廊下を走って電話機を置いてある居間に駆け込む。緊急通報の番号をダイヤルした。毎日自分が受信している場所に、自らが発信者として電話をかけるのは初めてのことだった。

「緊急通報です。警邏隊の派遣を願います。住宅への侵入者です。場所は――」

 イフェリアは受話器に向かって自宅の住所と侵入者の特徴、現在の状況などを手早く手短に伝えていった。だがそのさなか、再び大きな音がして、イフェリアは受話器を取り落とした。

 ――まさか、また、来る?

 恐る恐る居間の戸口のほうを振り返った。明かりの灯されていない廊下は闇に包まれている。その奥のほうから恐ろしい気配と物音がしていた。まさか、もう目が覚めてしまったのだろうかと思う。ありえないことではない、そもそも自分はさほどに力を込めていない。そうでなくても滑りやすい床の上、足にも充分に体重をかけられない状況では思うように強い力が加えられなかったのだ。だからこれほど早くに目覚めてしまったのだろう。もう少し寝ていてくれればという気がしたが、今さらどうにもならない。受話器からはまだ何か声がしていたが、構わず戸口へ意識を向ける。あいつは必ずこの部屋へやってくるだろう。いつ目覚めたにしろこの部屋から声は聞こえてきたはずだ。濡れた自分の足は廊下に足跡も残していたかもしれない。

 イフェリアは息を詰めながら侵入者が来るべき戸口のほうへ向けて再び構えた。掌に食い込むほど深く剃刀を握りしめ、敵を待ち受ける。士官学校を出ても平和な昨今では未だに実戦の経験がない自分が、まさか初戦を自宅で迎えることになろうとは夢にも思っていなかった。

 足音が居間へ迫ってくる。ずいぶん自分に執着しているのだなとイフェリアは皮肉っぽく思ったが、それも当然なのかなと思い直した。侵入した家で住人に姿を見られたとしたら、そのまま逃げても遅かれ早かれ捕まってしまう。何としてでも口は封じておかねばと考えるのかもしれない。

 しかしこちらもおとなしく殺されてやる気はない。イフェリアは先手を打つことにした。体格の違いは戦闘能力に影響を与えるとはいえ、先制した場合はそうとも限らない。自分のほうに絶対的な不利を感じるのなら、隙を作れる機会は絶対に逃してはならない。

 足音が戸口のすぐ傍で聞こえた。暗い床にさらに暗い影が落ちる。その影に向けてイフェリアは居間のテーブルに置いてあった花瓶を投げつけた。

 花瓶は見事に侵入者に命中した。誰かが呻くような声が宙を震わせ、しゃがみこんだような気配が伝わってくる。

 やった、と思った。イフェリアは荒い息を吐きながらうずくまる侵入者を狙いすました。そもそも片足に不自由を抱えたイフェリアに、戦える手段は限られている。投擲は、その数少ない手段のうちのひとつだ。子供の頃に夢中になった球技が、初めて生きるために役に立った、そういう気がした。

 今のうちに捕らえておこう、イフェリアは剃刀を構えながら徐々に侵入者に近づいていった。相手がどのような動きをみせても、確実に喉を切り裂いてしまえる、少なくともそのような動きに見せられるよう、あらゆる動きに応じられるようにしながら。

 蹲った侵入者が起き上がる気配があった。かなり侵入者に接近していたイフェリアは、その瞬間に腕を伸ばして侵入者の喉に剃刀の刃先を押しつけた。

 侵入者の動きが止まる。自分が窮地に立たされているということは理解できているらしい。だがこの状態を窮地と捉えていることでイフェリアは自分の優位を認識することができた。この侵入者は武術に長けていない、と。戦うことに慣れた人間ならば、足の不自由な自分が繰り出す剃刀など、容易く避けられるからだ。そもそも浴室で相対した時に動きを見れば相手が身体に弱点を抱えているか否かは分かる。その時に充分、見定めることができたはずだ。たとえ片方であったとしても、足が悪ければ咄嗟の動きに支障が出る。剃刀ぐらい、突きつけられても簡単に背後に逃れられるはずだ。そんなことにも頭が回らないということは、この侵入者には武術の心得がないということになる。力任せの喧嘩以上のやり合いを経験したことがないということだ。それなら自分のほうが有利だ。これでも軍人なのだ。戦い方なら目の前の侵入者の数倍は、熟練しているという自負がある。

「・・あなたは」

 何者なのか、とイフェリアは問い質そうとした。どうせ単なる空き巣に違いないのだし、侵入に成功したらまだなかに住人がいたために居直って強盗に変じたか、さもなければ住人が一人の若い女であることを見て取って目的を変えたか、どちらかに違いないのだが、問い質して相手に喋らせて時間を稼ごうとしたのだ。緊急通報は、途中で通話が切れても事件性の強い通報は逆探知した結果を基に通信室の交換手が判断を下して警邏隊を向かわせることになっている。自分はまだ受話器を置いていない。ならばこの音は異常さを伴って通信室にまで届いている可能性が高い。ならば警邏隊が到着するまでの五分、イフェリアは自分の身を守りながらどうにかしてこの侵入者を足止めさせればいいということだ。そうでなければみすみす犯罪者を取り逃がしてしまう。国の治安を預かる軍人の一人として、イフェリアはそれだけは我慢できなかった。

 侵入者は答えなかった。暗がりで表情が見えにくく、相手が怯えているのか否かは分からない。質問の内容を変えても結果は同じだった。ただ無言のままでいる時間だけが流れ、しかしその時間は長くは続かなかった。遠くに聞き慣れた音が響いてきた。警邏隊の緊急車両が放つ音だ。緊急走行中は自分たちに通行の優先権があることを、周囲に報せるためのあの喧しいだけの音。それが徐々にこの家に向けて近づいてくる。

 音が接近してくると、目の前の侵入者が息を呑んだような気配を見せた。その気配に動揺の感情を探り取ってイフェリアのほうにも余裕が生まれる。このぶんならこの侵入者はすぐに観念しておとなしく捕縛の縄につくかもしれない。

 だが事態は、そうそうイフェリアの都合に良くは進まなかった。

 突然、イフェリアの腹部に強烈な痛みが走った。

 その痛みに弾かれでもしたかのようにイフェリアは背後に倒れる。咄嗟に受け身の態勢をとったことで床で頭を打つことは避けられたものの、イフェリアが床に倒れた隙を突かれるようにして侵入者は廊下を駆け去っていった。逃げられると判断し、イフェリアは痛む腹を押さえながら立ち上がるも、その頃には廊下に侵入者の気配はなくなっていた。

 ――逃げられた。

 イフェリアは悔しさに唇を噛んだ。痛む腹を手でさする。侵入者はおそらく決死の覚悟でイフェリアの腹を蹴り、倒すことで逃亡したのだ。たかが喧嘩慣れした程度の空き巣に、士官学校出の軍人がしてやられるとは。その屈辱にともなう痛みのほうが、腹の痛みよりもよほど痛かった。


「災難だったな。大丈夫か?」  

「なんでそんな嬉しそうな顔で言うのよ?まさかあんたじゃないわよね、あの泥棒」

「まさかまさか。俺が喜んでるのはお前のそういう色っぽい姿をお目にかかれたことだけだって。いやあ、瑞々しいねえ。泥棒とやらが興奮したのも分からなくはないよ」

「・・なんか変な想像してるなら気持ち悪いから帰ってからにして」

 イフェリアは自分を舐めるように見回してくるレオディラスにそう吐き捨てた。レオディラスは肩を竦めて仰せのままにと心の籠もっていない大仰な敬語で少し身体を離したが、かといって部屋を出る様子はなく手持ち無沙汰のまま居間のソファの背もたれに身体を預けている。

 悠然とした素振りの彼の周囲には先ほどまで警邏隊の兵士たちが調べまわっていた痕跡が随所に残っていた。生憎と、あの侵入者は警邏隊が駆けつけてきた頃にはすでに逃走を図った後だった。しかしイフェリアの自宅に侵入者があったのは確かなことなので、それらの侵入者の侵入経路や浴室、居間での格闘の跡などを調べなければならず、逃走した侵入者の追跡もせねばならない。イフェリアはそれらの調査に協力し、警邏隊の兵士たちの質問に答えていった。レオディラスはそのさなかに駆けつけてきて、なぜか警邏隊が引き上げていった今も居座っている。今日は基地勤務で噂を聞いたから飛んできたのだと彼は言っていたが、果たして本当に心配だけが理由で来たのか、今の発言を聞く限り疑わしいとまで思ってしまう。

 イフェリアは室内用のガウン一枚を身につけただけの格好で居間にいた。居間で痛む腹を押さえていた時に兵士に入ってこられた、あの時の恥辱感はむざむざと泥棒の侵入を許した屈辱感よりも大きなものがあった。ぎょっとしたように目を逸らした兵士たちの許可を得てガウンだけを着用したのだが、兵士が気を遣うように自分から不自然に目を逸らしていたのもなんとなく癪に障る。・・もっともレオディラスのようにそれをもって色っぽいと称されるのも腹が立った。ガウンの下に何も着ていない女が、未だ水滴の光る髪のままでいるのだ。そんな状態を真正面から見させられれば、変な欲求も疼くのかもしれない。だったらその想像は帰ってから思う存分楽しんでほしかった。暖炉の火だけではなかなか暖かくはならない。風呂はいいから早く寝てしまいたかった。しかし客がいるとそういうわけにもいかない。イフェリアはレオディラスを内心で罵った。だから早く帰れ。邪魔だ。

「帰れっつったって、俺がいなきゃお前は今晩一人だろ?不安じゃないか?その不安を解消してやるためにまだいるんだよ。安心しろ。今夜は一階でずっと起きててやっから。心置きなく休んでくれ。一階に番人が控えてりゃ、もう誰も入ってこんよ。お前んちは庭が広いから、誰かが隣から屋根伝いに来ることは不可能だ」

 あんたが一階に陣取ってると余計に不安よ、とイフェリアは返した。

「番人なんかいらないわよ。一人のほうがよほど落ち着いて寝られるわ。そうでないならとっくにどこか近所に宿を探してる。壊れたところは、いちおう全部塞いでくれたし」

 あの侵入者は人目につきにくい裏庭の、音楽室の窓を壊して侵入していた。ピアノやバイオリンや、数々の楽器が置かれたその部屋は母の仕事部屋でもある。幼い頃はイフェリアも手ほどきを受けたが、イフェリアはその頃からおとなしく椅子に座って鍵盤に指を這わせるというその行為がどうしても好きになれなかった。イフェリアが好きなのは昔から身体を動かすこと、小さな頃から女の子と遊ぶより男の子と遊ぶほうが多かった。士官学校に入ったのも自然な成り行きで、だから音楽室の防犯など母しか分からない。イフェリアだけでなく父もあの部屋にはほとんど入らないから、窓の施錠がどうなっていたかも分からなかった。裏庭は住人でない限り誰かの目に触れることもないから庭木の手入れもおざなりで雑草が生い茂っている。空き巣が身を潜め、侵入するには絶好の部屋だったろう。

 音楽室の割れた窓はとりあえず鎧戸を閉め、浴室のドアは、兵士が調べ終わった後にとりあえず新聞紙で塞いでくれた。この時間では普請職人に電話しても寝ているし、この家には予備のガラスなど置いていないからだ。今夜はこの、急拵えの応急処置で我慢するしかないのだが、それでも番人など必要ではなかった。イフェリアの部屋にはドアに内側から鍵がつけられる。窓には鎧戸もある。二階からの侵入が難しいのはイフェリアもよく知っているから、それで今晩は過ごせるはずだ。だから番人など必要でない。

「いるだろ。俺はお前のご両親のことを思ってんの。少しは二人の気持ちを考えてみ?大切な一人娘が爆発事故で意識不明になったかと思えば、それから何日も経ってないのに今度は自宅で強盗に襲われましたってさ。不安で堪らないと思うぜ?だから俺はあの二人の代わりにお前を守ってんの。帰ってくるまで守ってやる義務がある」

 ないわよそんなもの、と思わず返してやりたくなったが、イフェリアは黙った。両親の心情は想像できたからだ。父母とはまだ連絡はつかない。警邏隊がいちおうこの家の主人である父に電話を入れたところ、父は運び込まれてきた急患の手術中だという返答が返ってきたらしい。母のほうにはレオディラスが電話をしたのだが、宿屋の人間は外出中だと答えてきたという。こんな夜中にまだ打ち合わせなのかと訝しく思ったが、それなら帰ってくるまで話す手段がない。話してないのだから二人は今夜のことをまだ知らない。ならば不安など抱きようがないはずだが、両親のことを思えばイフェリアも軽はずみにレオディラスを追い出しにくくなった。どうせ帰ってくれば両親や嫌でも今夜の出来事を知ることになる。警邏隊が質問することがあるからだ。曰く、盗られたものはないか、恨まれる心当たりはあるかなど、その時にレオディラスが仲介してくれると助かるのは本音だった。イフェリアは正直、今日のことは思い出したくもなく、警邏隊に再び連絡をとることも面倒だった。だがそういうわけにもいかず、だからそういう細々としたことをやってもらえるのは有り難い。

 イフェリアが黙るとレオディラスは勝ち誇ったような笑みを浮かべた。

「ようやくそこに思いが及んだか?分かったらさっさと休め。明日もお前は務めがあるんだろ。休まないと身体に悪いぞ」

 言われて壁の時計を仰いだ。時刻は深夜に迫っている。イフェリアは溜息をついた。

「そうする。火の扱いは気をつけてよ。今の季節は火事がいちばん怖いから」

「存じておりますよお姫様。プリンセスを守りに来て姫様のお城を燃やすようなへまをする騎士は存在しませんのでね。ごゆっくりお休みください」

 またしても大仰な口調だった。大仰すぎて気障にも聞こえるこの種の冗談は、レオディラスのいつものことだ。レオディラスはいつも、冗談でイフェリアのことを姫様などと呼ぶ。からかわれているだけなのは分かっているが、言葉とは真逆に彼に不誠実なところはなかった。今晩もきっと、自分が二階の自室に戻ってベッドに入った後も寝ずにここで見張っているつもりだろう。

 分かったわ、イフェリアはそう言い置いて居間を出ようとした。戸口を潜ろうとして、言い難かった一言を部屋に投げる。

「言い忘れてたけど、有り難う、来てくれて。おかげで今夜は安心できるから」


 有り難う、か。レオディラスは燃え盛る暖炉の炎を見つめながらその言葉を反芻した。まさか彼女から、そんな言葉を賜れるとは思わなかった。

 言葉自体は決して特殊なものではない。むしろ逆に普遍的に使う言葉だ。現に今までも数限りなく言われたことのある言葉でもある。授業で、訓練で、スケートの演技会でのパートナーとして、彼女とはずっと縁があった。士官学校に入る以前、幼い頃には外を駆けまわって遊んだこともある。幼馴染みであり学友であり、そして今は同僚だった。職責こそ違えど、同じ基地で働く者どうし。本来ならばありえなかったこと。

 ――あのことが、なかったのなら。

 彼女は今もずっと、レオディラスにとって手の届かぬ人であっただろう。

 しかし運命はあの日に狂った。レオディラスがまだ三つだった、あの日に。

 脳裏にあの日の悪夢が今も甦る。本来なら覚えてもいられないはずの、幼い頃の記憶。しかし彼は覚えていた。忘れられるはずなどない。全ての運命を引っくり返したあの夜のことを。

 ――クロウスティンさまに、伝えておいたほうがいいかもしれない。

 そのほうがいいだろう。レオディラスは居間の電話機に足を忍ばせて近づいた。できるだけ音を立てないよう静かにダイヤルを回す。かける時の呼び出し音は受話器のなかにしか聞こえないから、深夜の電話を階上のイフェリアに聞かれて不審がられる心配はない。

 ――この時期にイフェリアが立て続けに不幸に見舞われたこと、あのことを無関係とは思えないからな。

 外科手術というものがどれくらいの時間がかかるものなのか、医者でないレオディラスにはよく分からない。しかし何度も繰り返しかけ続けていれば、いくらなんでも明け方までには繋がるだろうと思われた。イフェリアが起きてしまえば、クロウスティンやその妻のリリスティアと、レオディラスが人知れず話せる機会はそう多く得られない。電話だと盗聴の危険がある。少なくともゼロにはならないが、こういう時のために第三者には無害に聞こえるよう、あらかじめ決めておいた符丁があるのだ。家ではクロウスティンとリリスティアが、外ではレオディラスたちが守る。それがイフェリアを守るために、全員で交わした不変の約定だった。

 ――こういう時のために常日頃から無害な知人として長々と付き合ってきたんだから。ちゃんと意味は理解してくれよ。

 騎士はお姫様が幽霊でも、ちゃんと守り続けますぜ。


 翌日、イフェリアが基地の通信室に出勤すると、室内の同僚たちが電話を受けながらもちらちらと意味深な視線を投げてきた。

 ――ああ、やっぱり。

 イフェリアは溜息をついた。自分に与えられた席に着き、鳴り響いた電話の受話器を取ると、さすがに視線は逸らされたものの、それらの者たちの腹のなかは容易に推察できる。同僚の心は好奇で満たされているはずだ。それはそうだろう。逆の立場ならイフェリアとてそうなる。交換手が、務めを終えて自宅に帰ってから通信室に緊急通報を入れてくるなど、それほど先例のあることではない。

 そしてそれは務めの合間に許された僅かな休息の時に証明された。食堂で持参した遅い夕食を口に運んでいると、方々から声がかかる。食堂で働く従業員たちは夕刻までで帰宅してしまうため、夜勤になる者たちは全員、食事はランチボックスにでも入れて持参してくるしかないのだ。

「聞いたよ。昨夜、大変だったんでしょ?」

 好奇心の塊のような言葉は向かいに座った女のものだ。イフェリアより幾つか年下の、士官学校卒ではない一般兵士で、本来なら階級の上では大きな差があるのだが割と親しく話をしている者だった。故に昨夜のうちにどこかで聞き及んだのだろう。警邏隊の兵士か、それともイフェリアの通報を受けた同僚の誰かからか、ひょっとしたら彼女本人が通報を受けたこともあり得る。あの時は受話器の向こうの声の主が、同僚の誰であるかまでは識別できなかった。

 うん、まあね。イフェリアは曖昧に応じた。大声で吹聴するようなことではない。すでに噂として広まっていることを思えば、なおさら自らの口では語りたくなかった。あの日のことは、もうあまり思い出したくない。

「泥棒なんて物騒だよねえ。ほんと、イフェリアは危なかったよ。最近多いんだからさ、気をつけないとね。戸締まりとか、用心しないと。うちもさ、窓の鍵は全部二重にしたのよ。そうしないと不安だからさ。聞いてる、この基地だってなんかあったらしいよ。盗難騒ぎが」

 え、とイフェリアは首を傾げた。水筒に入れて持参したお茶を口に入れながら訊ねる。

「盗難?ここで?」

「そう。あれ、イフェリアは聞いてない?」

 女性兵士のほうが首を傾げてきた。イフェリアは頷く。すると彼女は顔を寄せて声を潜めるようにしてきた。

「じゃあ教えてあげる。全員に知れ渡ってることじゃないから、内密にしといたほうがいいかも。・・医療隊の研究棟のほうで何かなくなったとか、盗まれたんじゃないかっていう騒動があったらしいのよね。まあ、言われていることが全部事実ならとんでもない不祥事だから、当たり前のことなんだけど。私、友人がその研究棟にいるから、その伝手で聞いたの。医療隊の研究棟で、いろいろ新薬の研究開発とか臨床実験とかしてるじゃない?その研究中の新薬が、いつの間にか紛失していたって。盗まれた可能性が高いってのよ」

 初耳だった。イフェリアは驚いた。

「医療隊の研究棟から盗まれたの?あんなに警備が厳しいところから?」

 医療隊はピュラナのような軍医が所属する部隊である。救急隊を補佐する部隊でもあり、常には軍人たちの健康管理と警邏隊に収容された変死体の解剖が主だが、災害時や戦地においては傷病者に治療という側面において、非常に重要な役割を発揮する。そういった非常時には医療隊の軍医たちの指揮指導において軍人たちは活動をし、負傷者たちの救護に当たるのだ。戦地や災害時での活動が主体となると、医療隊の軍医たちはどんな治療にも精通している必要がある。したがって常から勤勉で、新たな治療法の開発にも余念がなかった。新薬の開発も行っており、難病とされた患者のなかには医療隊の治療に最後の望みを繋ぐべく、基地にある医療棟を訪ねることもある。新薬の開発には臨床での試験が必需のため、軍もそれを奨励しているのだ。実験だけに治療費はかからないが、効果の保証もない。それでも一縷の望みを賭けて最後に患者が訪れるのが医療隊だとも言われている。

 一般国民が利用し、さらに新薬の開発も行っているだけに医療隊の警備はそうでなくても警戒の厳重な基地のなかでもとくに厳戒なことで知られていた。医療隊が使う薬品のなかには劇薬や毒薬も多く、また開発資料などが流出しても都合が悪い。基地で一般人を預かっている以上、万一のことがあれば大事にもなりかねなかった。それ故のことだが、そんな場所で盗難が起きたというのがイフェリアには信じられない。いったい、どうやって盗んだというのだ。基地に入るだけでも、軍人としての階級章を見せ、警護兵による照会作業を受け、出入りの際には手荷物検査からボディチェックまで受けなければならない。武器や機密資料の持ち込み、持ち出しを防ぐための処置だが、毎日毎回、出入りのたびにそこまでのことをしているのに、どうして盗まれるなどということが起きたのだろう。犯人は、いったいどうやって盗み出したなどというのだ。

「そうみたいよ。まあ、研究中の新薬ってのはお金になるらしいからね。それでじゃないかって言われてる。開発資料を街の薬商人なんかに売ると、すごい金額で買ってくれるんだってね」

 そうだろう、イフェリアは頷いた。まだ発表前の、開発中の新薬の資料なら、どんな商人でも喉から手が出るほど欲しいはずだ。その資料を基に先に薬を作って発表し特許を取ってしまえば、莫大な利益を得ることができる。難病の薬ならなおさらだ。薬は最初に作って特許を得た商人に専売権が与えられることになっているから、利用価値が高く頻繁に使われる薬ほど商人の利益は大きくなる。新薬の開発には多額の費用と長い年月がかかるから、開発資料だけを買い取れば元手をほとんどかけずに大儲けができるというわけだ。

「で、やっぱり盗まれたのは本当だったんだってことになってる。これもさ、噂で聞いたんだけどね」

 彼女はさらに声を潜めてきた。ほとんどイフェリアの耳に口をつけるようにして、囁いてくる。秘密を共有していることを、楽しんでいるような雰囲気があった。

「このあいだ、イフェリアが通報を受けたんじゃない。シェリヴィナっていう売れない女優さんの通報。あの人さ、麻薬やってたのよね。身体にその成分が残ってたんだけど」

 その話なら知っている。イフェリアは頷いた。他ならぬ彼女の解剖を担当したピュラナから聞いたのだ。確かなことだろう。しかし彼女と、軍の新薬がどう関係してくるというのか。

「あのね。その女優さんがやってた麻薬の成分が、その新薬の成分と一致したらしいのよ。だからね、軍の新薬が、どこかの犯罪組織の手にでも渡ったんじゃないかって。開発資料が麻薬の精製に使われて、悪党が私腹を肥やしてるんじゃないかって推測されて、医療隊じゃもう大騒ぎよ。こんなこと、外部の報道なんかに知られたら大変なことになるからね」

 イフェリアは息を呑んだ。ピュラナはそんなこと、まったく感じさせない口調で話していたからだ。シェリヴィナがそんな特殊な薬を使用していたのなら、解剖を担当した彼女が気づかなかったはずはない。おそらくこの事実は医療隊だけで緘口令が布かれているのだろう。万一にも外部の報道あたりに漏れたら不祥事どころでは済まない大変な醜聞だ。国民を守るべき軍が、間接的にとはいえ他ならぬ国民を殺したのだから。

 ――でも、だったらシェリヴィナは、いったいどこからそんな麻薬を手に入れたのかしら?

 普通の売人から買えるような薬とも思えない。麻薬の売人は総じて犯罪者とはいえ、金銭のためにちょっと道を踏み外した程度の小悪党に入手が可能な代物だろうか。勿論、人と人の繋がりなど外からは見えないとはいえ、彼女がいったいどこからそんな薬を手に入れたのかということにイフェリアの興味は集約されていた。

 死んでからのほうが興味を掻き立てられる女優というのも珍しいかもしれない、と思いながら。


「ゆっくりくつろいでくれていいぞ」

 頓着なげにソファを示されて、イフェリアは腰を下ろした。しかしとてもくつろぐ気になどなれず、そわそわと周囲を見回してしまう。

「どうした?落ち着け。食いもんならそのうち姉貴がなんか作って持ってくると思うぞ。トイレなら一階のいちばん奥だ。忘れたか?」

「・・私がそんな図々しい欲求にばかりに凝り固まっているように見えるのかしら?他人の家に来て食べることしか考えてないように見えるの?」

 何気なく言われた一言に、イフェリアは思わず表情を引き攣らせて悠然とベッドに寝転がりながら何やら雑誌を読み始めたレオディラスを眺める。レオディラスは誌面から目を離すこともなく実に気のなさそうな口ぶりで答えてきた。

「そんなわけじゃない。でももう日暮れだろ?俺だっていい加減に腹減ってるんだよ」

「あんたと一緒にしないでよ。私は空腹どころじゃないわよ。この年になって、男の部屋に泊まるなんて」

 今夜、イフェリアはレオディラスの自宅に一泊することになっていた。父母がそう判断したのだ。父は昼間に一度帰宅してきたものの仮眠をとっただけでまた出て行った。今夜も夜勤らしい。母はまだ帰ってきていない。電話でリハーサルが長引きそうなのだと喋っていた。昨夜の侵入者のことには二人とも驚愕していた。それで今夜も一人になる娘のために、二人してレオディラスに連絡をとったらしい。今夜は娘を預かってくれと。子供ではあるまいし一人が不安ならホテルに泊まるか基地の仮眠室で寝ると言ったのだが、二人は聞き入れようとはしなかった。それでいまこうして彼の部屋にいることになった。今夜はここで寝なければならないとなると否応なしに緊張してくる。幼い頃から何度も訪れ、泊まったのも二度や三度の話ではないが、さすがにもう事情はあの頃とは違う。いつ結婚してもおかしくはない男女が、恋人でもないのに同じ部屋で寝るなんておかしい。

 しかしレオディラスのほうは全く気にした様子がなかった。なんだよ、と彼はようやくイフェリアに顔を向けてくる。軽く笑った。

「お前、なに心配してんだよ。昔は一緒に寝てたろうが。いまさら気取ってどうするんだよ」

 一人で寝るのは嫌とか言ってたくせにと言われてイフェリアは顔が熱くなってくるのを感じた。おそらく赤面しているに違いない自分の顔を思いながら口を開く。なんとなく舌が縺れて巧く話せなかった。

「あ、れは、四つかそのくらいのことじゃない?あの頃とは違うわよ。私たちはもう大人よ」

 レオだって、私と一緒に過ごす夜よりも、可愛い恋人と一緒に過ごす夜のほうが楽しいでしょうと言うと、彼は至極真面目な表情で首を振った。

「いねえよ、そんなもん。あいにく野郎ばっかりの軍隊にいるとそんな色気のあるようなこととは縁が持てないもんでね」

 お前はいるのか、とふいに話を振られ、イフェリアは言葉に詰まった。いないわよ、と返す。

「おんなじ言葉を返すわ。通信室は女性ばっかりだから」

 するとレオディラスは今度は本当に笑った。なんだ、じゃけっこう気が合うんだな、と軽く返してくる。

「恋人のいない寂しい若者どうしってわけか?なら、いっそ今晩はそのつもりで楽しんでみるか?恋人ごっこはけっこう楽しいかもしれんぞ」

 冗談はやめて。イフェリアは自分の肩に腕を回そうとしてきた彼の手を払った。

「何を読んでるの?」

 なんだか変な方向へ行ってしまった話を逸らすためにイフェリアは話題を彼が読んでいる雑誌のほうへ振る。話題を変えるためだったが改めて訊いてみるといつも読んでいる雑誌とはジャンルが違うように感じられた。彼が好んで読む雑誌はいつもスポーツを特集したものばかりだ。そうでなければ飛行機や自動車を扱った雑誌で、要は彼もイフェリアと同じで、家でじっとしているより外を動きまわるほうが好きなのだ。イフェリアも雑誌といえば、普通の女性が好む服飾や化粧を特集したものよりスポーツや旅行を特集した雑誌のほうが好きだ。ひょっとしたらこれは彼の影響も大きいのかもしれないと思う。

 しかしいま彼が読んでいる雑誌はそれらの彼の好みとは随分趣が異なるような表紙だった。最近になって買ったのだろう、まだ真新しく新品独特の香りを放っている。どういう趣向の変化だろうか。

「これか?これは演劇の雑誌だ。最新の映画とか舞台の情報や役者の動向なんかが特集されるんだよ。姉貴に貰ったんだ。たまにはこういうものも楽しんだらどうかってな。べつに興味はねえんだが、捨てるのも悪いし勿体無いから暇潰しに読んでるんだ」

 へえ。イフェリアはそう言われてなんとなく身を乗り出した。言われてみればレオディラスの姉のルリアは自分とは違ってとても女性らしい趣味の持ち主だった。趣味といえば絵を描くこと音楽を演奏すること、演奏会や観劇に行くのも好んだ。職業もいかにも女性がなりそうな菓子職人だ。なるほど彼女が弟であるレオディラスに読ませそうな雑誌ではある。

 どんな記事が出ているのだろうと自分も普段は読まない雑誌を覗き見ようとして、顔を彼に寄せた時に部屋のドアが叩かれる音がしてそちらを振り返った。久しぶりに聞く声に、懐かしさを感じる。レオディラスの声を受けて室内に入ってきたのは、案の定、レオディラスの姉のルリアだった。

「イアちゃん、久しぶりね。来てるって聞いてたから早めに帰ってきたわ」

 これが早めなのか、レオディラスの声が聞こえた。見ると寝転んでいた彼はベッドの上に身を起こしている。

「もうすっかり陽が沈んでるぞ。ずいぶん忙しいんだな」

 ルリアはその言葉にふふ、と笑った。こう見えても繁盛してるのよ、と笑う。

「夕食、もう食べた?――まだならお腹空いたでしょう?ちょっと待ってて。こういうことには全く甲斐性のない我が弟と違って職人の私が、美味しいもの作ってあげるから」

 首を振るイフェリアにルリアはその言葉を残して慌ただしく階下に降りていく。それを見送って、レオディラスは立ち上がった。

「ああ、ようやく飯か。じゃ、俺はその前にシャワーでも浴びてくるわ。お前も、食ったら適当に風呂を使えよ」

 そう言い残して彼も階下に降りていく。イフェリアはそれを見送って雑誌に視線を落とした。何か面白そうなことは書いてあるだろうか。

 しばらくページを繰ったが、あいにくイフェリアの好きな女優については載っていなかった。特に興味を持てそうな映画もなく、次第に飽きてくる。だが、ページのところどころに印がつけられ、一部の文章が下線を引かれて強調されているのが目についた。レオディラスが関心を持っている項目なのかなと思い、そこだけ探して読んでみる。

 すると、下線が引かれているのは全てあの、死んだシェリヴィナという女優についての掲載記事だと分かった。彼女を追悼する記事、生前のインタビュー、かつては人気があったことを伝えるための昔の映画の紹介、簡単な彼女のプロフィールなどなど。

 ――レオ、彼女のファンだったかしら?

 あまりそんな記憶はないなと思いながら、イフェリアはそれらの記事を読み進めていった。


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