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爆発事故と謎の明かり

 ――すごいわ。綺麗。

 イフェリアは辺りを見渡して、感嘆の溜息をついた。

 周囲には広々とした花壇が広がっていた。今は冬であるから当然花など咲いていないが、その代わりのように花壇には電線が巡らされ小さな電球が無数に取り付けられていた。その無数の電球が闇のなかに色とりどりの光の彩りを与えている。そのさまがとても幻想的で、花がないのならと天上の星空が地上に降りてきたかのように思えた。とても美しい。わざわざ陽が沈んでから訪れた甲斐があったというものだ。

 ――さすが国立公園。私営の施設ではこうはいかないわ。

 思わず感心してしまう。電球はこの国ではまだ高価な部類に入る。色のついた電球などそうそう気軽に手に入るものでもない。その貴重な色つき電球を屋外の花壇にこれだけ繋いで光の花園を作るなどまさに国立公園にしかできないことだ。同じように感じているのか、イフェリアの周囲でも同じような感嘆の溜息が響いている。

 イフェリアがいるのは俗にクロックパークと呼ばれる国立公園のなかだった。公園と名がついてはいるが、正確には三百二十年前に崩御した当時の国王を祀るための陵墓であり、本来ここは墓所である。しかしその国王が自分の死に際して墓所を公園とすることを決めたためにイフェリアのような普通の国民でも入ることができたのだ。自分の墓が、儀式の時以外誰も来ない寂しいものでなどあってほしくない、端的に言えばそういう意向であったらしい。それでその国王の墓所には、当時はまだ珍しかった時計を備えた塔が建てられ、花壇や噴水が整備されて公園となった。野外劇場も設けられて、毎日何かしらの公演も行われている。それらを鑑賞するために毎日大勢の人々が訪れているのだから、国王の望みは現在も叶えられているのだろう。ついでに国王の霊廟に参詣していく人々も多いというのだから、死者にとって喜ばしいはずだ。

 その美しい光の花園を、しばし時間を忘れて観賞すると、ふいに吹いた冷たい風にイフェリアは自分がここに来た目的を思い出した。若干の名残惜しさを感じたが、光の花園に背を向ける。ワイン売りの店を探して辺りを歩いた。

 イフェリアが今日、わざわざ休日を利用してこのクロックパークを訪れたのはあの紙切れの文字への好奇心を抑えきれなくなったからだ。クロックパークまではバスに乗っても一時間ほど、さほどに遠くはないから、イフェリアの自宅からなら散歩感覚で気軽に訪ねられる。それでこれまでにも何度か観劇などで訪れたことのあるこの公園を、再び訪れてみることにした。クロックパークでワインなど売られていた覚えなどなかったのだが、最近訪ねていなかったから新たな店ができたのかもしれないと思ったし、この季節なら毎年光の花園が必ず話題になる。久しぶりにそれも堪能してみたかった。それで夜にわざわざ訪れたのだ。

 しかしワイン売りの店は見つからなかった。そもそもクロックパークに店はほとんどない。野外劇場の傍に僅かに露店が出ているだけだ。いちおうここはかつての国王の墓所であるのだから、王制でなくなった今も国はこの場所での商業活動を認めていないのだ。観劇が開かれる時だけ、観客を当て込んだ露店商が軽食などを売ることを黙認しているにすぎない。したがってたいしたものは売られていないのだから、アップルワインなるものを探すのは楽なはずだと思ったのだが、ポテトフライを売る露店の主人は、そんなものここでは売られていないはずだという答えを返してきた。

「ワインはどこも売ってないと思うよ。ここは一応、陵墓だからね。酒を飲んで酔っ払いが乱痴気騒ぎなんて起こさないよう、役所が常に目を光らせてる。ここに出店する時は売るものを全て役所に申告して、許可を得ないといけないんだよ。酒はまず許可されないし、煙草もだめだね。ワインが飲みたいならこの公園を出たほうがいいよ。少し離れたところに大きな繁華街があるから。あそこならこの時間でも物は揃う」

 その返答に、イフェリアとしては首を傾げざるをえなかった。ここがそもそもワインを売ることができない場所なら、あの紙片はいったい何だったのだろう。書いたシェリヴィナの、おそらく彼女に違いないが、勘違いだろうか。

 それならそれで構わない。もともとそれほど重要な何かがあったわけでもない。ふいに沸いた興味を満足させるためのものだったのだ。両親には電飾を楽しんでくると言って出てきたのだ。本当にそれだけを楽しんで、ついでに観劇でもしてくればいい。だが単なる勘違いだとするには、あの紙片は不可解すぎた。

 そもそも猫の首輪にああいう特殊なペンダントを付けておくこと自体が奇妙だ。あのペンダントは猫ではなく人間がアクセサリーとするために作られたものだ。ならばそれなりに高価なもののはずであり、なぜ猫などの首輪につけたのかが謎である。しかもそれにああいう紙片を挟むという行為の意味が見えない。かつてあのペンダントが流行した頃は、あのなかに小さく折り畳んだ恋文を入れて意中の人間に送ることで思いを伝えるという告白が流行ったことがあるらしいが、それはもう随分以前のことだと聞いたことがあるし、第一あれは明らかに恋文ではない。猫に伝言を伝えて意味などあるはずがない。いったい何のためにあんなことをしていたのか。

 ――何か、意味があったはずなのよね。ああしないといけない意味が。

 紙片をペンダントに収めて猫の首輪に付けておくという行為に、普通では考えられないような意味があるとしたら、当然、この紙片に書いてある内容も普通では考えられないような意味があるに違いない。クロックパークでワインが売ってないからといって必ずしも勘違いではないということになるが、しかし勘違いでないとしたらいったいなんなのか、イフェリアには皆目見当もつかなかった。並んでいる数字の意味も分からない。12、48、36とはいったいなんの数字だろう。時計塔の文字盤は数字が十二個だが、まさかそのことを書いているのではあるまい。48と36に至っては、まったくなんのことかも不明である。

 イフェリアは紙片を片手にしばしその場で思案してみたが、結局なにひとついい考えは浮かんでこなかった。それで溜息をつき、まあいいかという気になる。あまり深刻に悩むようなことでもない。イフェリアはバッグに紙片をしまった。せっかく来たんだから観劇でも楽しんでいこう、と思う。明日からまた七日、あの半数以上が不毛な問答の緊急通報の受信係に戻るのだ。その前に憂鬱な気分は少しでも払拭しておきたい。ちょうど今日は面白そうな演目をやっている。普段は見ない恋愛物だったが、あの光の花園を観賞した後なら気分を盛り上げるのにちょうどいいかもしれない。恋人と来ているわけではなくても、雰囲気だけは盛り上がる。

 それを見たらもうバスで帰って寝ようと心に決めた。猫の世話を母にばかり任せてしまうわけにもいかない。猫は友人のを預かったということにして両親を納得させられたが、主な世話はやはり自分でするべきだった。母も猫は好きとはいえ、この年になってあまり甘えるわけにもいかないだろう。

 イフェリアは野外劇場のほうへ足を進めていった。切符売りに声をかけようとしたが、客席の様子を見ていったん踵を返す。席はまだ充分に空いていた。今のうちに周りの露店で何か食べるものでも買っておこうと思った。指定席ではないのだから、いちど客席に座ってしまえば劇の終了まで離れられなくなる。離席そのものは自由でも、いちど離れてしまえばいい席は簡単に他の客に取られてしまうのだ。ならば飲み物や軽食などは、先に買っておいたほうがいい。

 何を食べようかとイフェリアは数の少ない露店を歩きながら物色した。もう陽も暮れているのだから身体に負担が少ないよう甘い菓子類のほうがいいだろうか、それとも鶏肉の揚げ物のような少しでも食べ応えのあるもののほうがいいだろうかと逡巡し、いちばん値段が手頃で量も多いポテトフライにしようと先ほども近づいた露店に歩み寄った。注文しようと店先に近づき、並んでいる列の後ろに並ぶ。店主はよほど手際がいいらしく列はするすると短くなっていき、先頭から徐々に人が離れていって、自分の番が近づいてきた。前の客が注文を終えるとバッグから財布を出して小銭を掌に握りしめる。するとちょうどその時、前の客がポテトフライを入れた紙袋を持って店先を離れた。それを見送るとイフェリアは先ほども話しかけた露店の店主に、もういちど話しかける。ポテトフライを一袋、注文した。

 今度は単なる問いかけではなく商品の注文だったからか、店主は先ほどの何倍も愛想が良かった。にっこりと微笑んで礼の言葉を口にする。そして少し屈み込んだ。ポテトを揚げる鍋の火加減を調整しているのかもしれない。何やら手を動かすと、少し身体を鍋から離した。奥の棚に手を伸ばしている。どうやらそこに芋を保管しているらしい。何か大きな袋のようなものを開けようとしていた。その時のことだった。

 突如、イフェリアの目の前に閃光が走った。

 足が宙に浮くのを感じる。何を思う間もなかった。直後に全身に激痛が走ったのは分かったが、痛いと思っても身体は動かなかった。それ以外の感覚は働かなかった。


 ――血圧は安定しています、たぶん心配は要りませんよ。

 ――大きな怪我はありません。目が覚めれば、明日には帰れると思います。

 誰かの声が耳元で響いて、イフェリアの意識は鮮明になった。目の前は暗いが、それはどうやら自分が寝ているかららしいということも自覚できる。イフェリアは自分の瞼に力を込めた。よほど深く眠っていたのか、瞼がひどく重かったが、なんとか開けると途端に光が視界に飛び込んでくる。

 ――眩しい。

 反射的に再び瞼を閉じようとしたが、その前に大きな声が聞こえてきて、イフェリアは薄目を開けた。

「イア、気がついたのね!」

 声が聞こえたほうにイフェリアは視線を向けた。視線を向けると首を動かすことになるが、そうするとなぜか首筋に痛みが走る。思わず小さく呻いた。

「痛いの?イア、可哀想に。大丈夫よ。そんなに酷い怪我はしてないから。少し、火傷してるだけだから。だからすぐに良くなるからね」

 火傷?イフェリアは怪訝に思った。なぜ自分が火傷などしているのだろう。自分は火など使っていなかったはずなのに。

 そこまでを思い出して、突然にイフェリアの脳裏に目覚めるまでの記憶が甦ってきた。そうだ、自分はついさっきまでクロックパークにいたはずだ。露店でポテトフライを買って、それを食べながら野外劇を見ようと思っていたはずだ。それでなぜいま寝ているのだろう。なぜ劇を見た記憶が、すっぽり抜け落ちているのか。

 イフェリアは先ほど痛みのために閉じた目を再び開けた。今度は前よりもしっかりと、目の前の光景を認識できた。両親が、寝ている自分を覗き込んでいる。目が合うと、母が今にも泣きそうな表情をしていた。

「・・お母さん、どうか、したの?」

 目覚めたばかりだからなのか巧く舌が回らない。言葉が引っかかる感じがしたが、話しかけると母はいよいよ泣き出した。

「話せるのね?イア、話せるのね?――ああ、良かった・・」

 母は泣きながらイフェリアに縋りついてきた。イフェリアは困惑して、なぜ泣いているのかも分からない母を宥めようと手を動かそうとしたが、動かす前に誰かに止められ、腕を押さえられるのが分かった。

「まだ動かないでください。傷が開くかもしれませんので」

 心配そうな表情の父の傍らから、一人の男が覗き込んできた。見知らぬ顔だった。白衣の襟元が見えるから医者だろうか。なぜ医者が自分を覗き込んでいるのだろう。自分は病院にいるのか。べつに病気をしているというわけでもないのに。

「・・あの、私、は、なんで・・」

 こんなところにいるのか、そう問おうとしたが、全てを言い切る前に白衣の男がイフェリアを制するようにしてきた。

「――ああ、まだ起きられないでください。安静にして。大きな怪我はしていませんから、大丈夫ですよ。安心して、身体を休めることだけを考えてください」

「・・怪我?」

 イフェリアは首を傾げた。実際には首を動かすと痛みが走るので、気持ちそうしたつもりでいただけだが、いつ自分が怪我などしたというのだろうかと思ったのだ。こんな、病院に運ばれるような怪我などした覚えはない。自分が無意識に起き上がろうとしていたことにも気づかなかったが、それ以前にこの怪我にはさらに意識がなかった。いつどこでどんな怪我をしたというのだろう。首に痛みが走るということは、首を傷めたのだろうか。ちょっと転んだぐらいで、そんなところを傷めたりはしないはずなのに。

「覚えてはおられませんか?――ああ、大丈夫です。それも当然でしょうから。あなたはクロックパークにいた、これは分かりますか?」

 イフェリアは頷いた。頷くというにはあまりにも微かな動きだったという自覚はあるが、男に意味は伝わったようだ。

「あなたは、そのクロックパークで、負傷なさったんです。ポテトフライを売る露店の前にいたのではないですか?あなたの怪我は、その露店が原因なんです。露店の店主が焜炉の操作を誤った。そのためにポテトを揚げるための油に引火して、爆発事故を起こしたんです。あなたは、その事故の現場に倒れられていました。身体のあちこちを火傷していました。事故による負傷とみて間違いありません。爆発の衝撃で地面に倒れて、その後の火災で出た火の粉をかぶったのだと思います」

 白衣の男はゆっくりとした口調で丁寧に話してくれた。分かりやすく、言われればイフェリアにもなんとなく思い当たるものがある。じわじわと記憶が甦ってきた。そういえば、自分にはポテトフライを注文してから先のことを覚えていない。しかし注文した時、何かの閃光が目の前に走ったことは覚えている。その直後に自分の足が宙に浮いたことも、全身に痛みが走ったことも覚えていた。あれが、この男の言う爆発事故の瞬間だったのだろうか。足が浮いた時、自分は爆風に吹き飛ばされていたのか、あの痛みは、地面に叩きつけられた時のものだったのだろうか。そう思えば、そうなのだろうという辻褄は合うような気がした。確か、あの露店の店主は、自分が注文した後に屈み込んで何やら手を動かしていた。ひょっとしたら、あの時に焜炉を動かして、あの店主はその操作を誤ったのかもしれない。

 だがそう思うとふと疑念が湧き上がってきた。焜炉は、それほど誤操作を起こしやすい機械だっただろうかという疑念だ。イフェリアも子供の頃、手伝い屋を経由して何度か露店を手伝って小金を貰ったことがある。子供だから危ないと、焜炉の操作はしたことなかったが、操作しているのは何度も見たことがあった。それほど複雑な操作には見えなかった。それにたかが焜炉の誤操作で、爆発事故が起きるというのも信じ難い。揚げ物に使う油が火災を起こすというのはよくある話だろう。少なくとも救難隊の人間は冬が来ると揚げ物が原因で起きた火災への対処によく出動を求められるし、イフェリアもそのための通報は何度も受信したことがある。士官学校時代にはそのための消火訓練にもよく参加した。その時の経験によれば、確かに油に火がつくとよく燃えるものだ。しかしイフェリアは訓練でも通報でもその後の報道でも、揚げ物で爆発事故が起きたなんて話は聞いたことがない。それでどうして、たかが焜炉の誤操作で爆発事故など起きたのだろう。

 ――粉塵爆発かしら?あの露店はそれほど粉っぽかったようには感じなかったけど。

 益体もない推測がふと脳裏を過ぎる。そんなことないだろうとは思ったが、それ以上は考えるのも億劫だった。だがそれで、両親が自分を覗き込んでいるのかと思えば納得がいった。自分は軍の階級章を常に身につけている。病院に運ばれてから誰かが自分の身元を調べようとしたとしたら、容易く自分がどこの誰であるか分かったことだろう。おそらくその誰かが階級章から自分を軍人と理解して、基地に連絡したのではないか。そして基地から両親に連絡がいったのだろう。母は娘が爆発事故に巻き込まれて意識不明などと、生きた心地がしなかったかもしれない。だからさっき、自分の顔を見るなり泣き出したのではないか。よかった、イフェリアはまだ生きていると、あの一瞬に安心したのかもしれない。

 ――お母さん、心配かけてごめんね。私は、もう大丈夫だから。

 ちゃんとものも考えられるし、話せるよ。生きてるから。

 イフェリアは心のなかでそう繰り返しながら、まだ自分に縋りついている母の温もりに、安らぎを感じた。


「――災難だったな。元気か?」

 気安く呼びかけられて、イフェリアは読んでいた新聞から顔を上げた。

「誰かと思ったら。レオだったの、なんか用?」

 病室のなかでのことだった。クロックパークでの事故の翌日だった。大きな怪我はないというのは本当のことで、昨夜目覚めた後はまた眠り、今朝になってから治療室を出、普通の病室に移された。検査のために明日までは入院するようにと言われているが、遅くとも明日の夕方までには自宅に戻れるだろうと医者には言われている。

「つれないねえ。人がせっかく見舞いに来てやったというのに」

 イフェリアに気安い呼びかけをしながら病室に入ってきた彼は、大仰なほどに肩を竦めてきた。それからいっそ気味悪いほど妙に気取った動作で手にした花束を捧げるように渡してくる。この男に他人の見舞いに際して花を渡そうという感性があったことに驚いたが、この動作から見るにおそらく自分をからかって遊んでいるだけに違いない。そういう男だ。そうでなければ見舞いになんか来ないだろう。

 イフェリアは渡された、というより押しつけられた花束を傍らの小テーブルの上に置いて、男を見上げた。

「明日には退院できるから、見舞いなんか不要よ。明後日からは職務に戻らないといけないし」

「よかったな。いちど任官するとなかなかこんなふうに連休なんて取れないし」

 彼は白い歯を見せた。聞きようによっては相当に失礼な発言だが、しかしイフェリアは気にも留めなかった。今は病室を離れている母であれば、発言の不謹慎さに眉を顰めるだろうが、イフェリアは今さら気にしない。というよりこの男が慇懃な言葉など使い始めたら、それこそ気味が悪くて会話にならないだろう。

 彼はレオディラスという名前だった。イフェリアが幼い頃からの友人で、父母の言葉によれば、まだおむつをしていた頃から一緒に遊んでいたらしい。成長してからは学校にも一緒に通ったし、士官学校を出て軍に入隊してから配属された基地も同じだった。二つ年上で、授業でも訓練でも趣味で入ったスケートの同好会でも何かと面倒を見てくれた、頼りになる先輩でもある。しかしなにしろ口が悪かった。気安いを通り越して失礼なことを平気な顔でほざく。防衛軍航空防衛隊のエリートパイロットで二等指揮官で、ついでに映画俳優並みに整った美貌の彼が未だに色気のある話とは無縁なのも、おそらくこの口の悪さが原因に違いない。軍で問題を起こした話は聞かないから、こう見えて自分の上官には丁寧な言葉で話しているのだろうが、こうして見ると信じられない気がした。

「そうね。そういうあんたは今日は休みなの?今頃に来るなんて」

 窓の外を見る。まだ陽は高いところにある。勤め人が見舞いに来られる時間じゃない。

「いんや。休みじゃないよ。お前と違って忙しいもんで。昼飯食うついでに寄っただけだ。少し顔を見たらすぐに出ていくさ」

「じゃあ早く出て行ったら。お昼、食べ損なったら身体保たないんじゃない?一階に見舞い客用のレストランがあるらしいけど」

「ひでぇ。せっかく来てやった見舞客を到着早々追い出しにかかる入院患者なんて、この病院じゃお前くらいじゃねえの。――なに読んでんだ?」

 見舞いと言いながら来てやったなどと上から目線で言う見舞い客も、あんた以外にそうそういないわよと腹のなかで毒づきながらイフェリアは今日の新聞、と短く答えた。昨日の事故のことが、今日付けの日刊新聞にもう記事として掲載されているのだ。母にそのことを聞いて、一階の売店で買ってきてもらった。陽が落ちてからの事故だというのに、よく取材や執筆、印刷が間に合ったものだと思う。

 クロックパークの事故のことは写真付きで大きく報じられていた。露店の爆発などという事故は滅多に聞かないからかもしれない。怪我をした人はイフェリアの他にも幾人もいるみたいだったが、死者は出ていなかった。これは不幸中の幸いかもしれない。記事には女性客が一人、意識不明の重体と書かれている。自分のことだろうかとふと思った。ここに運び込まれた段階で自分に意識がなかったのは事実のようだから、そうかもしれない。この「意識不明の女性客」が自分のことだとしたら、あの事故では本当に軽傷の人間しか出ていないのだろう。他に軽傷者数名、とあるが、これは自分の前後にいた客や露店の店主のことではなかろうか。他に該当する人間がいるとは思えないし、自分と店主が無事ならそれ以上の被害を蒙った人間はいないかもしれなかった。

 記事には爆発の原因について明確な見解は出ていなかった。飛び散った油が焜炉の火に引火したのではという、当たり障りのないことしか書いていない。住宅火災などを報じる際、軍が公式発表を出す前に速報を出さねばならない記者がよく使う書き方だった。ありふれた、ありがちなことをどうとでも解釈できるように書くことで誤報を防ぎ、しかもその上で真相に迫っているように見せかける。記者というのはさぞかし口が巧いのだろうなとイフェリアはぼんやりと思った。口八丁を文字で使う。ならばさしずめ字八丁か。

「ふうん。――ああ、お邪魔しています」

 急にレオディラスが愛想の良い敬語を使ったのでイフェリアは新聞から顔を上げた。誰か来たのだろうと思ったからだ。病室の患者を訪ねるなど医者の診察しか考えられなかったが、そうではなかった。母が缶入りの飲み物を手にしてレオディラスに微笑みかけている。昼食を摂りに行くと言って病室を出たはずなのに、戻ってくるのが存外に早い。レストランが空いていたのかもしれない。

「邪魔なんてことないわよ、ゆっくりしていってね。――イア、よかったわね、彼が来てくれて。お花は私が活けてくるから、イアは彼とゆっくり喋っていて大丈夫よ」

 母はイフェリアに缶に入ったジュースを手渡すと、レオディラスに押しつけられて放り出した花束を持って急ぎ足にまた病室を出て行った。看護婦に花瓶を借りに行くのだろう。大きい病院には概ね、患者用に見舞い客が持参した花を生けるための花瓶が常備されている。

「今日来ているのは、お前の母親だけか?」

 病室の扉が閉まると、レオディラスがイフェリアに訊ねてきた。そうよ、とイフェリアは頷く。

「父は仕事。私より重体の患者さんが大勢待ってるのに、こんなところで足止めさせておくわけにもいかないでしょ。だからもう帰したわ」

 へえ。とレオディラスは何を思ったのかしばし病室の出入り口のほうを窺い、そうしてから急に思い出したみたいな顔でイフェリアを振り返った。振り返りながら自分の上着のポケットに手を突っ込み、何かを投げ渡してくる。

「それ、どういうことだ?」

 突然彼の口調が変わった。何かを咎めているような険のある声になり、イフェリアは怪訝に思って投げられたものを手に取る。それは小さな紙片だった。見覚えがある。イフェリアが持っていた、あの謎の紙片だ。猫の首輪に入っていた、あれである。

「どうって、何が?なんでこれをレオが持ってるの?バッグに入れてたはずなのに」

「さっき看護婦から渡された。お前の病室の場所を訊ねたら、見舞い客なら返してやってくれとよ。手荷物をお前に返す時にうっかり零れ落ちて気がつかなかったらしい。お前ので間違いないから渡してやってくれって言われた。いま忙しいから自分で返しに行くと遅くなるからってね。――で、俺はその紙切れを見て疑問に思った。なんでお前がそんなもん持ってるのかってことだ。どういうつもりかは知らねえが、道を踏み外すつもりなら俺はお前だからって容赦するつもりはねえからな」

 なぜかものすごく怖い顔で睨まれた。イフェリアは当惑した。彼に責められるようなことをした覚えはない。

「――なによ。なに言ってるの。道を踏み外すって?私は何もしてないわよ」

「じゃあなんでそんなもん持ってる?単にどっかで拾っただけとでも言うのか?だったらさっさと捨てろ。マッチで火をつけて燃やすのがいいぞ。へたにそのへんのごみ箱なんかに放り込んで、誰かに拾われたら大事になるからな」

「なに、これそんなにやばいもんなの?」

 イフェリアは紙片を取り上げるとひらひらと振った。それから簡単にこれを入手した顚末を語る。家に迷い込んできた猫の首輪に付いていただけのものだと話した。シェリヴィナのことは黙っておいた。もしこれが何か拙い代物なら、死者の名誉を不当に穢してしまう恐れもある。

「やばいなんてもんじゃねえよ。そいつは麻薬のバイヤーがよく使うもんだ」

 アップルワインってのは麻薬の隠語だよ、数字はたぶん取引価格と詳細な受け渡し場所だ。クロックパークのどこで渡すというのを数字を使って暗号にして、やり取りしてるんだろうと教えてくれる。

「連中がよく使っている書き方だ。こんなふうに書けば、一見しただけでは買い物のメモか何かにしか見えんからな。こういうのはバイヤーか、連中を摘発したことのある捜査関係者ぐらいしか知らない。あとは麻薬の購入者ぐらいか。お前は麻薬捜査なんか関わったことないはずだからな、持ってれば誤解を招くぞ。得体の知れんもんを大事にバッグのなかに入れとくな。さっさと捨てろ。猫の首輪とやらに入れてたのは、これの元の持ち主が、簡単には見つからないように工夫した結果じゃないか」

 麻薬。イフェリアはその言葉に慄然とした。シェリヴィナは麻薬をやっていたのだろうかと戦慄する。最期に際して電話で話した時にはとてもそうは思えなかったからだ。勿論、麻薬の摂取者だからといって常に錯乱しているわけではないことぐらいイフェリアも知っているが、人を殺したと口にしながらも冷静そのものだった当時の口調を知るイフェリアには信じられないものがある。あの彼女が麻薬に手を出していたのか。

 ――分からない、わけじゃないけど。

 一度は成功を手にした人間が、その後に没落した時、その惨めな暮らしに耐えられなくなって酒や麻薬に溺れる話はよく聞く。彼女もそうでなかったとは限らない。逆境にも負けずに頑張る人間も多いが、全員がそうではないのだ。そう考えれば自然なことだ。

 ――けど、何か変な気がする。

 それが何かは分からない。けれど、イフェリアは何か、シェリヴィナが麻薬をやっていたということに違和感を覚えていた。


 退院することには何の支障もなかった。イフェリアが倒れた瞬間に意識を失ったため、医者は念のためと称して脳の状態から骨の状態まで、さまざまな、それこそイフェリアには用途のはっきり分からない多くの医療機器を使って無数の検査を繰り返したが、とくに長期入院や手術を必要とするような重篤な異常や危険な兆候は見つからなかったらしい。言われていたとおり、レオディラスが見舞いに来た翌日の昼には、イフェリアは自宅に帰ることができた。翌日から早速、通常どおりの軍務に戻ることになり、自宅で束の間の寛ぎの時間を得る。

 その時になってやっと、父がイフェリアにあの事故の当日のことを訊いてきた。そもそもなぜクロックパークになど行ったのか、事故に遭うまでに何か妙なことはなかったのか、クロックパークではどんな人に会ったのかと。

 イフェリアは何もなかったと答えた。クロックパークに赴いたのも観劇のためで、知り合いには誰も会っていないと、母にも話したことを繰り返す。父は母と違い、イフェリアの行動のことなどあまり関心を持っていないかのように普段は何も聞いてこない。たとえ外泊したとしても、何もなければどこに泊まったとも聞かれなかった。しかしイフェリアが外出先で何か問題に巻き込まれたとなると話は違っていた。いっそ嫌気がさしてくるほど些細なことまで聞きたがった。何のために何処へ行き、誰と会って何をしたのかは勿論のこと、食べたものの内容や周辺の人々の様子、直前直後の電話の通話相手、他にもうんざりするくらい細かなことまで聞きたがる。

 今回もまた同じだった。おそらく父は父なりにイフェリアのことを心配してくれているのだろうと思い、イフェリアは一つ一つ丁寧に答えていったが、今ばかりはさすがに怪訝に思わざるをえなかった。父はイフェリアにクロックパークに向かうバスの運転手の顔まで聞いてきた。これにはさすがにイフェリアとて驚かざるをえなかった。

 ――どうして、そんなことまで聞きたがるのかしら。

 単に心配だったというにしては些か何かを過剰に気にかけ過ぎている気がする。いったい父はイフェリアの何をそれほど気にしているのだろう。


 翌朝、イフェリアはなんとなく久しぶりのように感じて自宅の門を出た。

 あの日、クロックパークへ出かけてからまだ何日も経っていないというのに、一人で家を出るという行為に懐かしさすら感じる。病院では安静を命じられ、帰宅してからもまだ完治したわけではないのだからと外出や行動を制限されてきた身には一人で歩いて外出するという何気ないことにも感慨が沸く。たとえそれが単なる通勤にすぎなかったとしても、だ。本当は、運があと少し悪かったのならこうして仕事に行くこともできなかったのだから。

 慣れた道をいつもと変わらぬ歩幅で停留所へと向かう。その道の途上、やはりいつものようにシェリヴィナの家の横を通りかかり、そしてなんとなく足を緩めた。例によってしっかりと閉ざされた門扉の内側に、視線を向ける。

 ――いったい、ここで何が行われていたのだろう。

 かつての人気女優は、いったいここでどのように暮らしていたのか、そのことに思いを馳せた。ここで成功し、技術の進歩に伴って没落し、麻薬に手を出し、挙句には誰かを殺して自ら生命を絶った。この家は一人の人間の栄枯盛衰を見てきている。家が言葉を話せるのなら是非とも聞いてみたかった。この家に住んでいた女性は、いったいどのようにお暮らしだったのですか、と。

 なぜならこの家に住んでいた彼女は、アップルワインに手を出していたからだ。常用していたとは限らなくても、そんなものに縋らなくてはならないとはどれほどに追い詰められていたのだろうと。そして、なぜそんなものが一介の女優ごときに入手できたのだろうかと。

 アップルワインはその美味しそうな名前には似合わず、軍のなかでも最凶と称される麻薬だ。麻薬はこの国では違法なため、一つの種類に数多くの隠語があり、捜査担当者か売人でもない限り全ての隠語を把握している者はまずいない。故にイフェリアも麻薬の名前とは気づかなかったのだが、あの日の違和感の正体に気にかかり、帰宅してから両親の目を盗むようにして学生時代の友人に電話をかけ、アップルワインの隠語が指し示す麻薬のことを探ってみた。現在は軍医をしており麻薬にも詳しいその友人は、あっさりとその麻薬の正式名称を教えてくれた。それでイフェリアは奇妙に思えたのだ。なぜ一介の女優ごときに、そこまでのものが必要だったのかと思えた。

 アップルワインの隠語の由来は、おそらくその麻薬が調合の過程で林檎に似た甘い香りを発し、吸引した者があたかもワインを飲んだ後のような状態になることからそう呼ばれているのだろう。この薬には強い鎮痛作用があり大昔には痛み止めとして用いる者もいたらしいが、あまりにも副作用と依存性が強いことから使用する者は歴史の上でも滅多に見かけることはないという代物だった。使用方法も簡易でなく、ほんの僅かな分量の違いによりたった一回でも心臓への過大な負担がかかり突然死することもある。たとえ巧く使いこなせたとしても、ほんの二、三回も吸引すれば、もう依存状態から脱け出せなくなるばかりか、全身の状態がぼろぼろになってしまうのだ。吸引方法が簡易でなければ、精製だって容易くはなく、この薬は高価な麻薬のなかでもひときわ高値で取り扱われている。普通の市民が興味本位で手を出せるような薬ではなかった。単に麻薬を使いたいだけなら、もっと安価で手軽な薬は、世の中にはいくらでもある。なぜそういったものを、彼女は求めなかったのだろう。バイヤーもあえて取り扱うことは避けるほどの薬を、求めたのはいったいなんのためだったのか。麻薬ならなんでもよかったにしては、その選択はあまりにも奇妙だった。

 ――関係ないって、忘れてしまえばそれだけのことなんだけど。

 忘れるのは簡単なことだ。昨夜、イフェリアはあの紙片を自宅の居間に設えられた暖炉に投げこんで完全に燃やした。レオディラスの助言に従ってあの紙を完全に焼却して灰にしてしまえば、イフェリアとシェリヴィナの繋がりは完全に消える。以降、イフェリアがシェリヴィナを気にかけなければならない必要はない。

 しかしイフェリアは気になってならなかった。そもそもイフェリアには、抱いた疑問は徹底的に究明しなければ気が済まないという習癖がある。自分でもそれは自覚していた。それが好ましいとされる時と好ましくないとされる時は状況によって分かれたが、今は明らかに後者だろう。少なくともイフェリアが気にかけなければならない事柄ではない。イフェリアはシェリヴィナの遺族ではなく、彼女が死んだ今となってはわざわざ軍に彼女の麻薬の使用のことを通告しても意味はない。

 イフェリアは溜息をついた。足を速めて門の前を通り過ぎようとして、今度はしっかりと地面を踏みしめて立ち止まった。

 ――誰か、いる?

 再び門の正面に戻った。自然に目は門扉の内側に見える玄関ドアへ向く。煉瓦が敷き詰められた短い通路の向こうにあるドアはありふれた木製だった。さほど凝った装飾もない簡素なもので、上部の白い外壁にはステンドグラスが見える。飾りではなく採光窓だろう。ドアが簡素な割には凝った作りをしていた。民家にしては贅沢な部類に入る。しかしイフェリアが足を止めたのは勿論、その造作に目を奪われたからではない。その採光窓に不自然に光が見えたのだ。細い光の線がふらふらと動き、やがて下方に吸い込まれたように消える。自然の光ではありえない。

 ――何をしてるの?

 イフェリアは怪訝に思った。今の光は明らかに人が灯したものだ。たぶん、なかで誰かが懐中電灯を灯して天井を照らしたのだろう。その行為が不思議だったのだ。遺族でも誰でも、正当な所有者なら何もそんなものを使わずとも室内の照明に電気を引けばよいし、軍がまだ調べているようにも見えない。それなら庭先に捜査車両が止められているなどして無関係な人々が出入りできないようにしているはずだからだ。基地からどんなに近い家だったとしても、兵士が車も使わず徒歩でやってきて、見張りも置かずに閉め切った室内を懐中電灯片手に調べるなど考えにくい。かといって、空き巣だとも思えなかった。空き家や留守宅に泥棒が入り込むのはよくあることだが、懐中電灯はけっこう高価な代物である。なかの電池が、まだまだ希少で手に入りにくいせいだ。留守宅を隙狙いで物色するような人間が、そんな高価なものを持っているとは思えない。実際、イフェリアは今までただの一度も、そんな話は聞いたことがない。庶民が夜道を歩くのに用いる灯りといえば今でも主流は手提げランプだ。

 新たな疑問が湧いてきた。しかし今度は、その疑問も躊躇いなく捨て去ることができた。確かめる手段がなければ諦めるのも容易だ。気にはなるが、それ以上はどうしようもない。全くの赤の他人である自分が、用件もなく訪ねていくことなどできないのだから。


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