発見
甲高いブザーの音が鳴り響いて、エアルは仮眠の浅い眠りから一気に目覚めた。
待機室の簡易寝台から跳ね起きるようにして起き上がる。靴に足を通し終えた頃には、すでに同僚のフェディルはドアに向かっていた。彼は寝ておらず、長椅子で雑誌を読んでいたのだから、そのぶん早く動けたのであろう。ほんの数秒の差にすぎないが、緊急出動においてはこの数秒も貴重な時間だ。
ブザーの音に急かされるようにして待機室を駆け出て、ほんの僅か廊下を走り、その果てにある扉を開ける。短い階段をほとんど飛び越えるように地面に降りてコンクリートの上を駆け、そこに止められていた緊急車両に乗り込んだ。フェディルが運転席に、エアルが助手席に座る。エンジンを駆動させると同時にフェディルはアクセルを踏み込み、エアルは無線のスイッチを入れた。
「こちら警邏隊第三待機班、ただいま出発しました。どうぞ」
無線マイクに向かって怒鳴る。すると間髪を入れずに女性の声が響いてきた。
「了解。フラワーレイン地区の三丁目、五番地に向かってください。通報者はシェリヴィナという者です。女性です。人を殺した、これから死ぬという通報です」
了解、エアルも応じた。無線のスイッチは入れたまま、頭の中の地図をめくり、フラワーレイン地区の三丁目、五番地への道順をフェディルに指示する。
エアルたち警邏隊に配属されている軍人は、二、三人で一斑を組み昼夜を問わず交代で管轄の街を警邏している。街を移動しない時は基地の待機室で休み、あるいは仮眠しているが、そうしていても今夜のように緊急通報が入り通信室から出動の指令が下れば、こうして出て行き、通報源となった事件、あるいは事故の対処に当たるのだ。警邏中も同じで、警邏中はその連絡は車両の無線で受ける。警邏隊とは通信室の手足であり、市民にとって最も身近な部隊だ。エアルはそれを誇りにしていた。
「・・珍しい通報だな」
ふと傍らから低い声が響いてきた。フェディルが巧みにハンドルを操りながら夜の輝きに満ちた道路を走り抜けていく。
「そうか?――まあ、たしかに、滅多に聞かない通報かもな」
エアルは首を傾げたが、すぐに頷いてみせた。確かにそのとおりかもしれない。緊急通報を使って自首する人間は珍しい。罪を犯して自首する人間自体はそう少なくもないが、たいていそういう人間は弁護士を同伴して、最寄りの基地へ出頭するものだからだ。弁護士を立会人にすることで、確かに自首したのだと証明してもらうのである。そのシェリヴィナという女性が誰を殺したにせよ、弁護士同伴での出頭ではなく緊急通報を利用して自首するとは驚きだった。緊急通報で軍人を呼んで自首した場合、傍に弁護士が控えていなければ、自首ではなく現行犯逮捕という形になってしまうことがある。それでは自首したことにならない。裁判でなんの有利ももたらさない。
だが通報が珍しいからといってその理由をいちいち考えているような暇などエアルにもフェディルにもあるはずがなかった。エアルは的確に道を示し、フェディルは周囲に危険をもたらさないぎりぎりの速度で道を走り抜けていく。危篤の患者を搬送することも多い救急隊と違って一秒二秒を争うようなことではないものの、赴く理由が理由だ。一刻も早く到着してシェリヴィナなる女性の身柄を押さえなければ、到着までの僅かな時間に心変わりを起こして車で逃亡を図られるかもしれない。実際、過去にはそのために市街地でカーチェイスを繰り広げ、道路標識に衝突して犯人を取り逃がした同輩もいる。死人が出なかったのだけが不幸中の幸いだが、再びそんなことが起きてしまえば最悪の失態だ。
頼むからそんなことにはならないでくれと心の奥で願いながら、エアルは次の信号を右に曲がるようにと指示した。フラワーレイン地区の三丁目、五番地は、この角を曲がってすぐのところにある。毎日の警邏の経験が積み重なったおかげか、今ではエアルは住所を言われれば、それがどこにあるどういう場所なのか、たちどころに思い浮かべることができた。フラワーレイン地区の三丁目、五番地といえば、地区の中心部にほど近い、閑静な住宅街のなかにある。赤い屋根の上についた風見鶏が特徴的な、三階建ての瀟洒な造りの家のはずだ。住人の名前は記憶にない。これまで警邏隊が関わるような揉め事とは縁のなかった人物なのだろう。シェリヴィナ、エアルはその名を内心で反芻してみた。いったいどんな人物なのだろうか。
フェディルが信号を右折した。幸いにも、交差点に侵入した時は青で、対向する車もなくすんなりと曲がることができた。いくら緊急車両が交通法規を無視できるといっても、赤信号の交差点に無理に侵入すれば事故を起こす可能性は高くなる。交差点を通るときだけでも一般車両と同じように通行することができればそれに越したことはなかった。右に曲がればもう目的の家が見えている。フェディルは右折のために落とした速度を上げ、すぐに停車した。シェリヴィナの家は目前だった。
エアルは車のドアを開け放ち、外に飛び出した。エンジンを停止させねばならないフェディルよりも助手席の自分のほうが早く動ける。急いで駆け、門前の煉瓦のステップを駆け上がった。
煉瓦造りの門柱につけられた、白い鉄製の門扉に鍵はかかっていなかった。それで躊躇いなく開け放ち、さほどに広くはない前庭を駆ける。煉瓦が敷き詰められた小道は両側から庭木やフラワーボックスに挟まれて、枝葉や花々の蔓が時に身体に絡みつき走りにくかったが、そもそもさほどの距離がない小道のこと、すぐに玄関の扉の前に辿り着くことができた。インターホンのボタンを押し、木製の扉を叩く。
室内から応答はなかった。誰かがなかで動いているような気配も感じられない。エアルは扉から注意を逸らさないようにして背後から来るはずのフェディルを振り返った。小道を近づいてくる彼の姿を認めると、視線を巧く利用して合図を送る。フェディルは頷いて玄関には近づかず、庭木を掻き分けるようにして庭に踏み込んでいった。前庭から庭伝いに家を監視し、万一にもシェリヴィナなる住人女性が、玄関からは見えにくい窓や裏口から逃走するのを防ぐためである。
エアルはその動きを見送りながらも、しきりにインターホンを押し、扉を叩き続けていた。繰り返し呼びかけるが、室内からは全く何の音も聞こえてこない。いかにも深夜の住宅らしい静寂さだが、あまりの静かさにふとエアルの背に嫌な汗が流れた。最悪のシナリオが思い浮かばれてくる。人を殺したと告白した女性が、自分たちが来る前に捕まることに恐怖を感じて逃げ出したのではないかという可能性だ。しかも、それだけではない。
――彼女は、通報で交換手に死ぬと告げている。ならば、その可能性もゼロではない。
そう思うと、いてもたってもいられなくなってきた。忙しなく扉を叩き、ノブにも手を伸ばしてみる。扉には鍵がかかっていて開かなかった。そのことが、さらなる焦りを招く。玄関から家のなかを見通すことはできない。ドアの上に設けられた明かり取りのステンドグラスから室内を覗き見ることなどできず、かといって自分がドアの前を離れてしまえば、無人になった玄関を通って肝心のシェリヴィナが逃走してしまうかもしれない。
無線で応援を呼んでみるか、と思った。腰のベルトに装着した携帯の無線機に手を這わせる。運が良ければ、近くを夜間警邏しているかもしれない同輩たちが、援護に駆けつけてくれるかもしれない、そう思ったのだが、そのための呼びかけを行う前に、すぐ近くでガラスの割れるような音が小さく聞こえてきた。はっと息を詰め、同時に耳が音声を拾う。微かに雑音にまみれた音声、フェディルの声だとすぐに分かった。裏手にまわった同輩の声に耳をそばだてると、エアルは一目散に彼のもとへと駆けた。駆けるといっても庭に植物が繁茂しているなかでは思うように足が動かない。エアルは舌打ちした。庭はある程度には見通しを良くしておかないと、泥棒を寄せ付けやすくなるぞ、と腹のなかで愚痴る。
庭に分け入って裏手にまわったはずのフェディルのもとへと近づいていった。フェディルはすぐに見つかった。彼はガラスの割れた出窓に足をかけている。そのさまは、窓から漏れ出た明かりを受けて、闇のなかをまるで舞台上の俳優のように目立っていた。事情を知っていなければ、彼こそが今にも侵入を図ろうとしている空き巣のようだった。
何をしてるんだと声をかけることはなかった。彼が何のために窓から入ろうとしているのか知っていたからだ。先ほどの無線の声が耳に甦る。エアルはフェディルが室内に入ってしまうと、彼を追って窓に手をかけながら室内を覗き込んだ。室内には煌々と照明が灯っていて明るい。おかげでなかの様子がよく見えた。なかで何が起きているのか、手に取るように分かる。
出窓の内側は広々とした部屋だった。柔らかな色合いの、座り心地の良さそうなソファや、繊細な装飾を施されたテーブルが、ゆったりと配置されている。壁際には花を生けた花瓶も、美しい絵画も飾られ、ゆったりとくつろげる空間を作っていた。平穏な時であれば、和やかな団欒の場となっていたであろう部屋の、床の上に、一人の女性がうつ伏せに倒れている。フェディルが窓を割って、外から強引に入り込んでいっても、まったく動く気配を見せなかった。
ただならぬ事態が起きているのは明白だった。エアルも出窓の窓枠によじ登る。割れたガラスの破片で手を切らぬよう注意しながら、壁を蹴って窓に這い上がった。出窓は大きく、身体さえ引き上げてしまえば鉄格子も何も入っていない窓を通り抜けるのは容易い。窓を飛び降りて室内の床に着地した。衝撃音はほとんどしなかった。床に敷き詰められた絨毯はよほど厚く作ってあるらしい。そこを駆けてエアルは女性の傍へと近づいた。フェディルは、すでに彼女の傍に跪いている。
フェディルは、自分の傍に跪いたエアルに気づくと首を振ってきた。その動きに嫌な予感を感じて、エアルは女性の身体に触れる。腕をとって脈を診、首筋に触れ、接触しそうなほど顔を寄せて呼気を確かめてみても、脈や息は感じられなかった。咄嗟に蘇生措置をしなければと女性を仰向けにしようとしたが、それでエアルは戦慄する。女性の喉は夥しい流血に染まっていた。よく見れば、女性の周りにだけ、絨毯に血溜まりができている。女性の手元には果物ナイフのような小型の刃物があった。禍々しい光沢を放つ刃先には、これこそが凶器に違いないと確信させるだけの存在感がある。この刃物が、この女性の生命を奪ったのだと。
女性の手元にはコードレスの電話機が転がっていた。親子電話の子機だろう。子機は通話中であることを示すランプが灯っていた。それを取り上げて耳に当てると、先ほどと同じ通信室の交換手の声が聞こえてきた。では、この女性が通報をしたこの家の、シェリヴィナという主人なのか、エアルはそう判断すると、目の前で絶命している女性を見下ろす。彼女は早く捕まえなければ自分は死ぬと交換手に告げていたらしい。その言葉どおり自ら生命を絶ったのか、警邏隊が駆けつけてくる僅か五分も待てなかったとは、最初から死ぬつもりで通報してきたのだろうか。
それはなんだか悔しい気がした。どんなに優秀な軍人も、あの世までは犯人を追うことができない。その事実があった上で、あの世に逃げられたのだと思えばなんとなく癪に障った。彼女は人を殺したのだと告白してきたのだ、なのに死ぬ前に捕まえることができず、法廷の場に出すことができないとなれば、罪を見逃したのと同じことだ。それは、秩序を守る軍人として、あってはならない失態に思える。
エアルは立ち上がった。女性のことをフェディルに任せ、自分は家の奥のほうへと向かっていく。通報の電話によれば、この女性は人を、少なくとも一人以上、確実に殺しているのだ。それがどこの誰なのかを早急に突き止めねばならなかった。女性はバスローブ姿だった。化粧もした様子がなく、しかも手にはコードレスの子機を持って、絶命の直前まで通話をしていたことが明らかだ。遠出した後とも思えない。ならば犯行現場はこの家のなかではないのか。確実にそうとも言い切れないが、だとしたらこの家のなかには、まだ他にも遺体がある可能性がある。状況によっては、まだ息があるかもしれない、だとしたら早く助けねばならなかった。急がねば。
だが室内を隈なく巡ったエアルは他に誰も見つけることができなかった。ダイニングらしい部屋も、寝室らしい部屋も誰もいない。キッチンや浴室、トイレまで見たが誰の姿もなかった。複数の人間が生活していたようにも見えず、なんらかの事件が起こった痕跡を発見するには至らなかった。
どこだ、とエアルは姿の見えない犠牲者を捜し続けた。
いったいあの女性は、どこで、誰を殺したのだと。




