通報
「はい。こちらは防衛軍第一基地です。どうなさいましたか?」
呼び出し音が鳴り響き、いつものようにイフェリアは間髪を入れずに受話器を取った。
早口で話しかける。慌ててはいけないが、ゆっくりでもならない。その間も耳は電話の向こうに注意を集中させていた。受話器の向こうの僅かな空気の乱れの変化も、逃さず感じ取るようにする。緊急通報に電話をかけてくるような人間は、通話が可能になった瞬間にはもう意識がないこともある。些細な、気のせいかとも思えるほどの些細な気配の変化が、とても重要な要素になる。
受話器の向こうはしばらく無音だった。だが、通話が切れたわけではないことは音で分かる。微かだが息遣いのようなものも聞こえる。荒い、息。穏やかな呼吸ではなかった。イフェリアは緊急連絡装置のボタンに指を這わせる。このまま通話の相手が無言のままなら、意識不明と判断して応答を待たずに救急隊に出動を要請せねばならない。
「どうなさいましたか?もしもし。私の声が聞こえますか?」
イフェリアは再び呼びかけた。しかしどんな言葉も返ってこない。聞こえてくるのはやはり微かな呼吸の音だけ、これはいよいよ危ないのでは、イフェリアはそうみなした。指先に力を込め、ボタンを押そうとし、その直前にふう、という溜息が聞こえた。鼓膜が震える。空気の流れに意味が加わった。
イフェリアは俄かに緊張した。注意の全てを受話器の向こうに注ぎ、僅かな音の乱れも逃さず受け止めようと意識を凝らす。すると、ごくかぼそい声が聞こえた。した、という響き。荒い吐息に言葉に混じっていた。誰かが、何かを伝えようとしている。
「・・したの」
低い声だった。低く、小さな声。しかしそれでも女性の声であることはしっかりとイフェリアの耳が捉えていた。一瞬、老人の声かと思うほど嗄れていたが、よくよく聞いてみればそれほど年入った感じはしない。かといってそれほど若い声でもなかった。やや低すぎるものの、ごく当たり前の大人の声、少なくともそのように聞こえる。
「大丈夫ですか?もうすぐ救急隊が行きますからね。それまで頑張ってください。もう少しですから」
イフェリアは励ました。実際、緊急通報で救急隊を要請した場合、到着するまでさほど時間はかからない。第一基地には五分救命という言葉がある。基地に所属する救急隊が、出発から到着までにかかる最大の時間が五分なのだ。救急隊は道路上で通用するあらゆる交通法規を無視できる上に、必ず五分以内に到着できるよう管轄の街が区分けされ、その区ごとに救急隊の待機所があり車両が控えている。道で救急隊の車両を見かけたら、どんな車でも道を譲らねばならない。国の制度と人々の心が、街で暮らす全ての人々の生命を守っているのだ。心臓発作や窒息などの場合、たった一分の救命の遅れが、致命的な結果を生むこともあるのだから。
女性の息はどんどん荒くなっていた。イフェリアの耳には、呼吸困難というより息切れのように聞こえた。だんだんそのように聞こえてきた。喘息の発作というよりまるで全速力で走ってきて息が苦しくなっているような、そんな感じの喘ぎ方に聞こえる。少なくとも呼吸困難というようには聞こえなかった。さほど重篤な状態ではないのかもしれない、とふと思う。しかし緊急連絡装置のボタンからは指を離さないまま、イフェリアは冷静に問いかけた。
「落ち着いてください。必ず助けに行きますからね。どこが苦しいとか、痛いとか、言えますか?」
「――苦しくはないわ。ううん、むしろ逆よ。気持ちいい・・」
は、イフェリアは思わず間抜けな声を上げていた。言うべき言葉を見失うと、恍惚としたような溜息が響いてくる。
「あのねえ、私、苦しくはないの。全然。そんなことない。むしろ気持ちいいくらい。私は全然、大丈夫よ」
「・・そ、それは、良かったですね」
イフェリアはボタンから指を離した。自分でも引き攣っていると分かる笑みを浮かべながら、悪戯電話か、と内心で毒づく。緊急通報をなんだと思ってんのよと心中で悪態をついた時、続いて聞こえてきた言葉に背筋が凍るような寒気を感じた。
「良くないわ。だって、私は、人を殺したんだもの」
冷静な響きだった。先ほどの自分の声よりも、さらに落ち着いているように聞こえる。
「人を殺したの。殺してしまったのよ。だから捕まえてちょうだい。自首したいのよ。早く警邏隊を寄越して」
「どういうことですか?人を殺した?自首したい?それは救急隊ではなく警邏隊への出動要請ということですか?」
イフェリアは問い返した。勿論、緊急通報は何も突発的な疾病への対処を求める救急隊専用電話ではない。同じように突発的に起きた事件や事故への対処を求める警邏隊への通報電話も兼ねている。どちらに出動を要請するべきか、それを判断するのはイフェリアたち通信室に配属された軍人の仕事なのだ。市民が使う番号はどちらも同じだ。
「そうよ。だから早くして。早く私を捕まえて。そうでないと死んでしまうから。死にたいのよ。生きていたくないの。ああ、誰か助けて」
イフェリアは戸惑った。
「警邏隊は五分で伺います。救急隊と同じですよ。ですから落ち着いてください。死ぬなどと仰らないで。すぐに伺いますから」
言いながらもイフェリアのほうが混乱していた。こんな電話を受けたのは初めてのことだ。人を殺した、早く捕まえろ、死ぬなどと、この女はどこまで本気で喋っているのだろう。
しかし全て事実なら、これは大変な電話だった。イフェリアは救急隊への緊急連絡装置のボタンから警邏隊への連絡ボタンに指を這わせる。一気にそれを押しこんだ。
その瞬間、受話器の向こうで不気味な哄笑が響いてきた。
「これで終わり。何もかも終わり。もうなんにも悩まなくて済むんだわ」