捨てる少女
「あたし、余計なものを全部捨てるから」
夕食の席で、娘が唐突にこう宣言したことに、両親は驚きの色を隠せなかった。
生まれてこのかた、両親がいくら注意や説教をしても、モノを次々に積み上げるばかりで、捨てるどころか整理しようとさえしなかった娘が、何の前触れもなく言ったのだ。口だけなのではと疑う前に、このような発言をすること自体が衝撃的で、信じ難いことだった。
宣言した通り、娘は早速食後から捨てる作業を開始した。一番に食べ終わって、食器を流しに置いてから自分の部屋に戻っていくと、時折何かを動かす音や、袋のかさつく音が二人の耳に届いてくる。
本当にちゃんとやっているのか。いたずらにかき回しているだけではないのか。娘の行動が気にはなったが、両親が様子見に行くことはなかった。下手に娘を刺激して、モチベーションを消失させてしまっては良くないと考えたからである。
プライバシーの観念が薄い家庭なので、両親は普段から頻繁に娘の部屋へ立ち入っている。飲食物の残骸こそなかったが、とにかくモノが多い部屋、というのがいつも抱く感想だ。教科書、プリント類、コミック、絵本、衣服、バッグ、ゲーム機、ソフト、DVDケース、音楽・映像再生機、ぬいぐるみ、小物、ポスター、化粧品、寝具、スポーツ用品――これまで娘が歩んできた人生と、現在進行形の青春を構成する全てが、規律も統率もなく、六畳の和室全体に混沌を生み出し、その質量は年齢と比例して増す一方であった。
一晩で全て片付かないことは承知だ。例え思うような成果が上がっていなかったとしても、今日の所はやる気を出してくれただけで充分だと、両親は考えていた。また、娘から助力を乞われたら喜んで手を貸すつもりでいた。
物音は数時間にわたってし続けていたが、二人がそろそろ床に就こうかという時間になると、唐突に止まった。思考を盗聴したかのように。今晩は一旦中断させて寝るようにと促すべく部屋に行こうと考えていたが、手間が省けたと、この夜は特に娘の部屋には向かわず、二人はトイレを済ませてそのまま消灯した。
代わりに立って聞こえてくる、娘によるものであろう、浴室に向かう足音やシャワーが流れる水音を耳に入れながら、二人はゆっくりと眠りに落ちていった。
翌朝は土曜日で、学校は休みだったが、娘はいつも通り同じ時間に起きてきた。顔からは眠気が完全に抜け切ってはいなかったが、疲労の色はない。
「ゆうべはずいぶん頑張っていたみたいだけど、片付けは進んだのかい?」
朝食の席で父親が早速成果を聞くと、パジャマ姿の娘はにっこりと笑って答えた。
「うん、ひとまず部屋のものは捨てたよ」
「頑張ったのね。後でちょっと見に行ってもいいかしら?」
「いいよ」
母親の申し出にも、同じ顔で答えた。元々年頃の少女にしては珍しく、娘は自室に家族が立ち入ることを嫌がらない性質であった。
朝食を終え、両親は早速娘の部屋を覗いてみることにした。
成果を楽しみにしていることが、袖を捲られた父親の腕と、心なしほころんだ母親の顔に表れている。娘が、御開帳と言わんばかりの動きで襖を開けた。
飛び込んできた光景に、四つの目が、剥き出したように見開かれた。
娘の部屋から、全てのものが、文字通り跡形もなく消えて無くなっていたのである。正面の窓と、両側面のくすんだ白壁、下の褪せた畳だけがやけにくっきりと、部屋の存在を主張していた。
「きれいになったでしょ?」
言葉を失っている両親に、娘は自分の頑張りをアピールするような、弾んだ声で言う。
両親は答えない。いや、答えられない。
娘は笑顔のままで、二人の反応を待った。
「……ぜ、全部、捨て、たのか?」
ようやく父親の方が反応を見せた。部屋を指差して、どもるような話し方で娘に問いかける。
「そうよ? だって必要ないから。昨日言った通り、余計なものは捨てただけ」
娘はこともなげに答えた。反抗心も、当てつけた様子も一切見られない。純粋な感情でそう言っているのである。
それが両親には理解できなかった。例え状況の急転、娘の豹変という要素を抜いたとしても、この回答の真意を二人には理解できなかったであろう。
「な、何考えてるの! 教科書や制服、お洋服まで捨てちゃうなんて……!」
母親が、目尻を吊り上げ、声を荒げて咎めてきた。
「だっていらないんだもの」
若干の苛立ちを含んだ声で、娘は父親へ返したのと同じような言葉を口にする。
あまりに衝撃的な展開、娘の豹変ぶりに、両親はこの時点においても未だ失念していた。
昨日まで存在していた、あれだけの莫大な物量を、娘一人で一体どのように、どこへ移動させたのかということだ。娘の部屋には押入と天袋があるが、さほど広くはなく、到底入り切るような量ではない。そもそも収納部もとうの昔に一杯になっていたはずだ。
外に捨てたのかと、両親は慌ててベランダに出てみたが、娘の部屋にあったと思われるものはチリ一つ存在していない。いつものように、観葉植物や物干竿があるだけだ。手すりの先、眼下の道路沿いに見えるゴミ集積所へ目をやったが、やはり娘のゴミは出されてはいなかった。他の家庭が出したゴミがあり、まだ回収はされていない。
そもそも、夜中にせよ朝方にせよ、ゴミを捨てようと娘がベランダや外へ移動したならば、物音が聞こえているはずだが、至って静かな夜で、一度も途中で目が覚めなかったことを二人は思い出す。
とにかくこのままではまずいと、母親はまず娘の服を買い揃えるべく、慌てて外に出ていった。娘の古着などは全て娘の部屋に置いてあったので、ストックが何一つ存在しないのだ。一人っ子のため、代用もない。
「別に買わなくてもいいよ」
と娘は言ったのだが、母親は無視した。その時の母親の顔から、明らかに血の気が引いていたのを、父親は気付いていた。娘は素知らぬ風だった。
残された娘と父親は、居間でテレビもつけずに、向き合って座っていた。父親は、何やら恥ずかしそうにモジモジしている娘を見ながら、未だ混乱の治まらない頭をこね回し続ける。
一体、娘に何が起こったのか。急に片付けを宣言した理由もそうだが、どのようにしてあの膨大なモノを、手品のように消失させたのか。
聞きたかったが、どうしても聞けなかった。娘の存在を、不思議というより怖いと思っていた。昨日の晩、捨てる宣言をするまでの間に何者かと入れ替わっていて、今目の前にいるのは実は娘ではなく、全くの別人なのではないかとすら思えてくる。
いっそ本当にそうだったら良かったと、父親はこの後思い知らされる。
「ねえお父さん、まだ捨てたいものがあるから、手伝ってほしいんだけど」
娘が沈黙を破った。胸の前で両手を組み、上目遣いをしながら父親へ願いを乞う。娘が"おねだり"をする時の、昔からの癖であった。昔からこうやって頼まれると、何故か両親は断ることができない。滅多に使われない、娘の切り札である。
「ま、まだ何かあるのか」
普段なら少しだけ呆れながら聞いていたが、この時は肯定も否定もできず、目を泳がせて曖昧に答えるしかできなかった。
どんな返事がきてもそうするつもりだったのか、娘はすす、と父親の側まで寄り、手を添えて耳打ちをする。
「あたしの処女を捨てるのを、手伝って」
父親の体内を巡っている血液が、急速に冷却された。正反対に感情は高ぶり、上擦った声として思考から外界へと噴出される。
「――バ、バカ言うんじゃない!」
「あたし、真面目よ?」
からかっている訳ではないのは、雰囲気や声色で父親にも分かっていた。分かっていたからこそ、声を荒げたのである。
父親は荒い深呼吸を繰り返して、どうにか話せる程度に気を鎮めてから、諭し始めた。
「そういうのはちゃんと、本気で好きな人と出会うまで取っておきなさい。何でもかんでも簡単に捨ててしまえばいいってものじゃないんだぞ」
「あたし、本気で好きよ? お父さんのこと。それに、別に捨てたって構いはしないわ。世の中の男の人にとってはどうか知らないけど、あたしには全然価値を感じないことだから」
娘は聞く耳持たずだ。そう言われることを事前に予測していたかのようで、まるで台本を読むように滑らかな口調であった。
「とにかく、手伝うことはできない」
父親は娘から顔を背け、これ以上話すことはないという姿勢を取る。
それを見た娘の顔に、小悪魔が憑依した。
「そう、それなら……手伝ってくれないと、お母さんにバラしちゃうよ。お父さんが実は――」
その後娘が口にした言葉を聞いて、父親の顔はみるみる青ざめていく。妻も娘も決して知りえないであろう、彼の心の中にのみ秘めていたことを、娘は何故か克明に把握していた。
「大丈夫、手伝ってくれればお母さんには言わないから。だから、ね? お願い」
娘の、熱を帯びた小さな手が、父親の冷たくなった首筋にそっと触れた。
「ありがとう、お父さん」
娘は無邪気に礼を述べ、母親が出ていった直後にいた位置へと戻った。
父親が、できるはずもない、感情と思考の整理整頓をしようとする前に、折よくドアが開く音がして、母親が戻ってきた。
「おかえりー」
娘は父親に目配せをしてから、立ち上がって母親を出迎えに向かう。娘が出したサインの意味を、父親はかなり正確に読み取っていた。しかしそれでも、複雑な心境は変わらなかった。救われたのか、それとも混乱を増すだけなのか。
母親を父親に会わせまいとする人為的な力を伴い、娘は母親を自室へと引っ張っていく。部屋の中央で、早速袋から新しい服を次々取り出して、
「あ、これかわいいね」
「お母さんはやっぱりセンスいいよね」
と、しきりに衣服と母親を褒めちぎった。
だが、父親がそうだったように、母親もやはり今の娘の様子を不気味に思ったので、素直に賞賛を受け取ることができなかった。買ってきた服はファストファッションなのに、という理由では決してない。
「ねえ、もしかして、お母さんとお父さん、あなたのことを追い詰めてたのかな? 捨てろ捨てろって言われ続けてたことが、そんなにイヤだったの?」
母親は目に涙を浮かべ、娘の肩を掴んで、自身の動揺を隠そうともせずに訴える。
娘はきょとんとして、そんな母親の姿を見ていた。見ていたというよりも、眺めていた。母親の心情を心底理解できなかったのである。
「大丈夫よお母さん。あたしはあたしだから」
だから、娘にはこう答えるしかなかった。
「分からない! 私、あなたのことが分からない! たった一晩で、どうしてこんな……」
娘の肩から、母親の手が外れた。そしてそれは、ワッという声とほぼ同時に目を覆う蓋となった。
娘は何も言わず、その場に立ったまま、眼前に発生したにわか雨を観察する。罪悪感はなく、早く止んで欲しいという願いだけがあった。
数分後、ひとまず目に溜まった水分を出し切った母親が顔を上げた。娘は真っ赤になった両目を優しく見つめる。一般的には母娘の間で涙を伴った場合、立場が逆であるべきなのだろうが、この時の二人はどちらも自分が演じている役について違和感を感じてはいなかった。
娘は、"おねだり"をした。
「ねえお母さん、お願いがあるんだけど。あたし、捨てたいものがあるの。手伝って」
答えを聞くよりも早く、娘は出入口のすぐ左側にある押入の襖を横へ滑らせる。押入の中にはトンネルのように薄暗い虚無が広がっており、母親の目には最初、何が入っているのかを認識することができなかった。
――が、さほどの時間をおかずして、母親は理解する。
下部には何も入っていない。部屋の中と同じく、空っぽである。娘の捨てたがっているモノが並べられていたのは、中板の上にあった。
ひっ、と、空気の漏れるような短い悲鳴が、母親の喉から漏れる。それらは死骸であった。ゴキブリ、紙魚、蠅、蜘蛛、蛾、蟻、ヒメカツオブシムシ――更に、何かの小動物と思われる白骨を大小二匹分発見したところで、母親は腰を抜かして、全身の力を恐怖という概念に簒奪されてしまった。
そこから再び母親の気力が回復するまで、泣き止む以上の時間を要したのだが、娘は淡々と待っていた。とはいえずっと立ち尽くしていたのでもなく、
「女同士の大切な話をしてるから、何があっても絶対に部屋に入らないでね」
と父親に念押しをするため、一度部屋を出たぐらいである。その間母親の意識はずっと"在るだけ"の状態だったようで、娘が部屋を出た時も、戻った時も、一センチも動いた様子がなかった。
母親に再び電源が入り、バネで弾かれたように突然立ち上がったところで、娘はにこやかに声をかけた。
「今度は大丈夫だよね? じゃあ、お願い」
一度の虚脱を経て、母親は精神的な耐性を獲得したのか。父親のようにすんなりと承諾はしなかった。やや強気な口調で食ってかかる。
「そういえばあなた、どうやって部屋のものを全部捨て……」
「今はそんなのどうだっていいから!」
娘から放たれた、母親を上回る声量と怒気が、空虚の部屋を震わせた。焚火の中に安価な花火を撃ち込んだように、母親の声はあっさりと飲み込まれてしまい、心身を娘の威圧感に同調支配されてしまう。
主が召使いにそうするように、娘は冷えた目と声で告げた。
「まずは手伝ってよ。手伝ってくれないと、お父さんにバラしちゃうよ。お母さんが――」
娘がその後口にした言葉を聞いて、母親は頬をさっと紅潮させた。反射的に娘の頬へ平手を放つが、娘は身を屈めてそれを回避する。
「叩いてもあたしは黙らないよ。黙らせるには、手伝ってくれるだけでいいんだよ。ね、お願い」
寸刻前の宣告に比べれば温かく、棘や刃もなかったが、娘の言葉の裏に潜む力を母親は感じていた。拒めば、娘は本当に夫へ話すだろう。そうなれば――
「……ど、どうすれば、いいのかしら」
戸惑い混じり。完全に母娘の力関係が逆転したことを決定付ける声色であった。だがそのようなものは娘の望むところではない。命令のようになったのも、単なる気まぐれみたいなものである。あくまでも母に協力を請う娘からの視点で、
「やり方はお母さんに任せるよ。ただ、お父さんを絶対に呼ばないでね」
とだけ言った。
母親は娘の承諾を受けてから、玄関から箒と塵取りを用意し、押入の前に立った。
――息を止め、視認は最小限にしなければ。
ちらと見ただけであったが、中板の上に陳列されたモノの異常な正確性に、母親は背中を寒くした。まるで掃除の最中、一匹一匹を漏れなく拾い上げたかのように、各種の分布が信憑性の高い数であったからだ。おまけに、種類ごとに一定のスペースを空けて几帳面に分けられており、五匹ごとに改行してある。
標本のような配列の中に、ダニはいないようだった。いや、もしかしたら見えないだけで、実際は――
全身が悪寒に巻かれる。母親はそれ以上考えることをやめ、薄目で顔をやや横にずらした姿勢で、黙って機械的に手を動かし、押入の中を掃き出すことに専念した。
「ありがとう、お母さん。あたし、他の生き物を捨てるのはどうも……」
掃除を終えた母親は、娘の言葉を最後まで聞く猶予もなく洗面所へと疾駆し、手を、口内を、目を、鼻を念入りに洗浄する。皮膚も粘膜も擦り切れんばかりに。そしてトイレで嘔吐した。
「吐いてから洗えばいいのに」
その音を聞いて小さくひとりごち、娘は居間へ戻った。父親は相変わらず座りっぱなしだ。テレビをつけず、どこか怯えたような目で娘のことを見ている。娘は特に気にも留めず、いつもの位置に座り、母親が戻って来るのを待った。
虚ろな目の母親が戻り、家族が揃ってから、娘は二人に向かって宣言した。
「お母さん、お父さん、最後にもう一つだけ、お願いがあるんだけど」
至近距離へ落雷した時のように、二人は体を大きくびくつかせる。もう、娘は恐怖の対象でしかない。娘の形をした何かだと二人は認識を決定していた。
「あたし、二人を捨てたいの。いいでしょ? あたし、二人の本当の子どもじゃないんだから」
こうして両親(仮)を捨てた少女は、何も荷物を持たず、軽やかな足取りで、通り慣れた道を闊歩していく。裸足でも良かったのだが、母親(仮)は靴も買ってきてくれたらしく、今はそれを履いている。
だが残念なことに、この靴も、身に着けている衣服も、近い内に全て捨てなければならない。
(ごめんなさい)
と、心の中で思う。しかしそれは、無駄にお金を使わせたことに対してである。
外は気持ちのいい青空がどこまでも広がっていて、空気も暖かであった。これなら服を全て捨ててしまっても寒くはないだろう。
少女が最後に行き着いたのは、近所の林。新品の服や靴がどれだけ汚れても気にせず突き進んでいく。
汗が浮かび、息が切れ始めてきた時、大きな池が見えてきた。娘は立ち止まった。
池の周りに人の気配はなく、やや濁った水上には無数の羽虫が行き交って一つの塊を成している。ほとりには電化製品や車の部品などが無造作に捨てられていた。
そこで彼女は全ての衣服を脱ぎ捨て、
「不法投棄になってごめんなさい」
と、誰ともなしに呟いてから、目の前の池に飛び込んだ。