なつやすみにっき
旅館の窓を開けると、牧歌的なざわめきが侵入してきた。遠山伸也は身を乗り出し、声の主を探した。
二百メートルくらい離れた空き地で、伸也と同じ、小学校高学年ぐらいの子供たちが集まっているのが見える。
「すげえ、ドラえもんみてえ」
ぽろり、と言葉が漏れた。公園ではなくただの空き地での草野球。そこに広がっているのは異国の光景だった。
「どうした?」
父が上着をハンガーに掛けながら、伸也の方を向いた。
「そこで、草野球してる!」
「あ、ほんとだ。懐かしいな、田舎じゃ俺もよくやってた」
「……行ってきていい?」
疑問形で言ってはいるが、もうすでに靴を履き、行く体勢を整えた。
父は肩を軽くトントンと叩いた。伸也が一人で出かける前に必ずする癖だ。
「道に迷うなよ。あと、夕飯6時に食べるから、それまでには帰って来い」
「いってっきまーす!」
旅館の廊下をスキップして、伸也は空き地に向かっていった。上から見たときに大方の位置関係は把握していたので、さほど迷わず空き地に辿り着いた。
ブロック塀を飛び越えたその時。気持ちいいくらい酷いファールで、ボールが向かってきた。咄嗟にかわした。向かいの家の植え込みにボールが埋まった。
「今のはファールじゃねえの?」
伸也は、そのボールを拾い、ピッチャーに投げた。
「あんな振り方しちゃあまっすぐ行かねえよ。もっと真ん中に当てねえと!」
悠々と、広場の真ん中に向かっていった。
「じゃあ、お前はホームラン打てんのかよ!」
小さくユウイチと書かれたバットを突きながら、ファールを打った主と思しき小柄な男子が、むっとして伸也の方にやってきた。
新参者が、えっらそうに。
顔にはそう書いてあった。
「そりゃあ、打ったことあるぜ」
胸を張った。
実際は、スポーツクラブの友達がホームラン打ったのを見たことがあるだけで、伸也自身はヒットが関の山だった。
しかし、伸也は友達のホームランを自分のホームランと間違って覚えている。もしくは、ただのよく飛んだヒットをホームランだと勘違いして覚えている。
「そんなに言うならやってみろよ!」
「いいんだ!ありがと!」
渡されたバットを構えた。野球の試合なら、何度も見ている。
僕は今、ホームラン王だ!
ピッチャーが球を投げた。
伸也の持ったバットは鮮やかに空を切った。
耳の後ろで、パシッと勢いが止まる音がした。
「やーい空振り三振!」
一番年少の子が囃し立てた。鼻の下に鼻水の跡をつけっぱなしの顔でぴょんぴょん飛び跳ねる。 鼻垂れ小僧だが愛嬌はある。
「ほーらできねえじゃねえか」
ユウイチも笑う。
「今、たまたまホームランにならなかっただけじゃん。プロの野球選手だって、いつもホームラン出してるわけじゃないだろ? ほら、もう一本! よろしくピッチャー!」
かりあげ頭に、泥がこびりついたスニーカー、くたくたのTシャツを着ているピッチャー少年は、戸惑いつつも球を投げた。
カキーン。
完璧なフライだった。放物線を描き、ライトのミットにおさまった。
「惜しい、ストライク!」
ピッチャー少年が笑った。
「ファールはまだしてねえからな!次!」
伸也はすっかり楽しくなった。
「おう!」
ピッチャー少年も、状況に慣れてきたらしい。
対照的に、ユウイチたちのチームは、どうしたものかとまどっている。
ピッチャー少年は投げた。きれいな直球だった。伸也は前の反省を活かして、あまりバットを振るいあげないようにする。
地味な音がして、ボールが三塁に飛んで行った。ぎりぎりファールにはなっていない。
走って二塁まで出た。
「ほら、打てただろー!」
「ギリじゃねえか! ただのヒットで何自慢してる!」
「わかってるって」
またバッターボックスへと戻る。構えると、今度はユウイチが叫んだ。
「お前、いい加減にしろよ。人のファールバカにして、お前だって似たようなもんじゃねえか。もう変われよ」
伸也はきょとんとした。
「お前、僕にホームラン打ってほしいって言ってたじゃん。というわけで、ピッチャー、お願いしますよっ!」
「誰が、そんなこと言ったー!?」
残念ながら、ユウイチ自身である。ピッチャー少年が投げた。コースが左にずれすぎて、伸也はよけた。
「ボール!」
誰も言わないので、伸也自ら宣言した。
ピッチャー少年は照れ臭そうに頭をかいた。
六球目。
伸也は狙いを定めた。
ーー僕は、今ホームラン王だ!
ダルビッシュか、ゴジラか、はたまた誰かプロの選手が乗り移ったかのようだった。
バットが的確にボールを飛ばし、ホームランと言って良い飛距離を出した。
全力疾走した。一塁、二塁、三塁、そして。
「遠山伸也、ホームラン!無事生還でありまーす!」
敬礼で決めた。
されたユウイチは、決まり悪そうに視線を逸らした。
「なんだよー折角できたのに」
「俺らだって、何回も挑戦すれば、できらい!」
「おーやってみろやってみろ!」
無責任に煽ると、鼻をぬぐって鼻垂れ小僧はバッターボックスに立った。
「お前、そんな重いバット持って大丈夫か?」
ユウイチがかがんで、鼻垂れ小僧を覗き込んだ。
「大丈夫」
こっくりと頷き、細い腕で鼻垂れ小僧はバッターボックスに立った。
「軽いの、持ってこようか」
小さくユウイチはつぶやいた。伸也には聞こえなかった。ただホームランを期待して、バッターを見つめる。拭っても、なお鼻水の跡がある、鼻垂れ小僧を。
ピッチャーが構えた。
「おーい」
空気を全く読まずに気の抜けた声が空き地を通り抜けた。全員、一様に声のした方向に振り向いた。
「こら六時までに帰って来いって言ったろ!」
父は呆れた顔をした。
「ごめん!楽しかったから……」
時計がないから時間も分からなかった、と言いたいが、父はきっと腹時計を鍛えろ、と言うだけだろう。
「そうか、楽しかったか」
父は笑った。責められてないことに伸也は安心した。
「ホームラン打ったんだ!すげえだろ!」
「そりゃすごいな」
そこで父はいったん切って、野球をしていた子供達に向き合った。
「こいつに中断させられてたんだろ?一緒に遊んでくれてありがとうなー」
「違う!」
伸也は弁明しようとしたが、父は聞く耳を持たず、鼻垂れ小僧の頭を優しく撫で、続けた。
「君、あんまり重いバッドを使うと手首を壊すぞ。壊したら痛いぞ?軽いのを借りなさい」
「う、うん」
「あ、すみません。俺持ってるから、次から持ってきます」
ユウイチが焦って口を開いた。
「それなら、オーケー」
父は満足して、小さい子供にするように伸也の手を引いた。
「何す」
「俺たち、旅行者なんだけど、こいつ入れてくれてありがとうな。じゃあ」
「じゃあじゃない!僕まだ遊びたーい!」
「母さん待ってるぞ」
ジロ、と父に睨まれて、伸也は諦めた。
「また野球しようぜ!またな!」
また、を繰り返し使った。旅先だから、実現する確率は限りなく低いのだが。
***
「伸也!遅かったわよ」
旅館の一階ロビーで母は待ち兼ねていた。
「ごめん。あんまり楽しかったから!ホームラン打ったんだ」
「えっ、すごいじゃない!」
「僕、プロ野球の選手目指そっかなー」
鼻をこすりながら伸也は笑った。
「その前に、旅館の豪華な夕飯を目指しましょう」
母がすっくと立ち上がった。
「うん、この旅館のご飯はうまいので有名なんだ。伸也、いい運動したからお腹すいただろ」
父も歩き出す。伸也も、空腹をいきなり思い出して、お腹がグウと鳴った。
ぷっと三人して吹き出した。