第十七話「書斎にて⑥」
「な、なにしてんだぁぁぁ!」
アンディが叫んだ。
窓ガラスがカタカタと揺れている。怒号と呼んで差し支えない声だったが、しかし、その表情は今にも泣きだしそうなものだった。
「お、おまえ、な、なん、で、そんな、や、やっちまうんだ……」
赤く汚れた床の上、アンディはがくんと膝から崩れ落ちた。
「だって、お前、そいつ、謝ってたじゃねえか! ちゃんと謝ってたじゃねえか! 約束も守るっつってたじゃねえか! ちゃんと言ってたじゃねえか! リンクも離せって言ってたじゃねえか! なのに、なんで! なんでだ!」
アンディはガシガシと髪を掻きむしる。
「それでこっちが約束を反故してたら、何にもならねえじゃねえか! こっちが悪いだけじゃねえか! な、なん、なんでだ! なんでだ! おい!」
「……そちらこそ、正気ですか?」
私はアンディに問い返しながら、ズボンからハンカチを取り出した。そして、顔にかかった飛沫を拭う――水色の布地は、一瞬で赤黒く染まった。
「本気で今の口約束を信じられると思っているのですか? 仮にも相手は、自分の部下に平気で罪をなすり付ける悪人ですよ? 市民には安全だ平和だとうそぶきつつ、裏で武器の密売をするような極悪人ですよ? 最初は約束を守る『フリ』をしたところで、後々はわからない。いつ寝首を掻かれるかわかったものじゃないでしょう。こいつを生かしておいたまま、いざ帰ったら、リンクの家族が危害を加えられた後だった――なんてオチになったら目も当てられないでしょう? 我々と我々の家族を守るため、『これ』が最善の手段だったと思いますが」
「け、けどよ……」
怒りなのか驚きなのか、アンディはぶるぶると体を震わせている。
「あんな風に泣いてるやつをのこと、顔色一つ変えずに殺しちまうなんて、正気の沙汰じゃねえ……。とてもじゃねえが、信じらんねえ、信じられねえよ……」
そう言いながら、アンディはふらふらと立ち上がった。そして一歩二歩と私に近づいてくる。
いつかリンクにそうしたように、私のことを殴るつもりかと身構えたが、アンディが私の眼前にたどり着く前に、
「……アンディ、ごめん」
顔を青白くしながら呆然とヴァルナークの動かぬ四肢を眺めていたリンクが、呟くように言った。
アンディは振り返り、
「……何でお前が謝るんだ?」
「……多分、全部私のせいだからよ」
顔を上げることなく、アンディと目を合わせることもなく、俯いたままリンクは答えた。
「……多分、きっと、『これ』が私にとって一番望ましい終わり方だったんだと思う。……ヴァルナークが私に対して許しを請い、泣きじゃくり、無様に命乞いをして、私の目の前で殺される。私以外の誰かの手によって……。こいつからすべてを奪い、私の手を汚さず、私の家族も守れる。……色々言ったけれど、本当は、『これ』こそが私にとって一番望ましい結果だったんだと思う。……結果、憎む相手がいなくなって、『弟が死んだ』という事実だけが、ぽっかり取り残されたような感覚だけれど」
リンクはこくりと一つ息をのんだ。
「……それに、ラキがこいつを刺したタイミングもそうだわ。……きっと、あれも私のためだったんでしょう? いくら私たちの知らないバックボーンがあったとしても、あんたがここまで向こう見ずな行動を起こすとは、とてもじゃないけど思えないわ。……きっと、あの瞬間、中途半端な覚悟で無理やり頭を下げようとした私を止めてくれた、そういうことなんでしょう?」
床に視線を落としたまま、リンクは私に言葉を投げかけてくる。まるで、そうであってほしいと願うような問いかけだった。
私は、「……まあ、人それぞれ考え方は違いますからね」と前置きをしつつ、
「しかし、何というか、随分私に対して好意的な解釈をしていただいていることは伝わりました。そう受け取っていただいて、私は何ら構いませんよ」
「……濁しやがるな」
「ふふ。まあ、正直なところ、私にとってこれは『仕事』だった――というのが第一に来る理由ですからね」
睨んでくるアンディに、私はできるだけ明朗に答える。
「さっきも言った通り、これは客商売です。信用が第一の仕事です。彼を生きたまま逃がすなんていうのは、契約不履行でしかありません。職務放棄です。そんな選択肢は、ハナからなかったのですよ」
「……どこまでだ」
アンディがかすれた声で聞いてくる。しかしその質問の意図がわからず、私は
「何がです?」
と聞き返した。
「どこまでが『嘘』なんだ?」
「ああ、さっきの私の発言ですか」
私はぽんと顎を指で弾く。ようやく意味が飲み込めた。
「変に混乱させてしまったのなら、申し訳なかったですね。簡単に言えば、『私にも思うところはあります』と言った部分ですよ。思うところなど、最初からなかったということです。それ以外はすべて本当のことです。我が家の家業然り、依頼然り」
「……つまり今までずっと、俺たちに隠れてコソコソとこんな仕事もしてたってことか?」
「いえいえ。ギルドで働きつつ、家事をして、ダルクの面倒も見てと、こう見えてだいぶ忙しかったですからね。さすがにそんな暇はありませんでしたよ。あなた方と組む前――ギルドで仕事を始める前に何度か、程度です」
ここで、私はふっと息を吐き、
「……しかし今回の件は、私も悪かったと言えば悪かったですね。『こんな形』であなた方にウチの家業について話すことになるとは。不躾過ぎました。その点は謝ります」
赤く染まった刀をハンカチで拭いながら、私は二人に軽く頭を下げる。
「どのタイミング打ち明けるか、私も迷ってはいたのです。しかし機会を失してしまっていたというか、二の足を踏んでいたというか……。正直、私も不安だったのです。このことを話して、あなた方はちゃんとわかってくれるか? 受け入れてくれるか? 理解を示してくれるか? ずっと不安でした。しかし――」
私はかちりと、刀を鞘に戻す。
「――しかし、今回のこれでようやくわかりましたね。どうやら私たちは、これ以上『わかり合えない』」
私の言葉に、呆けた顔をしていた二人は、ぴくりと肩を震わせた。
「こんな形になったことは誠に不本意ですが、しかし今更巻き戻せることでもないでしょう。申し訳ありませんが――
――この場をもって、私はこのチームを抜けさせてもらいます」
がばりと顔を上げたアンディが、何か言葉を発しようと顎を動かした――しかし、言葉が見つからなかったのだろう、その口は、何も声を発しなかった。
「これ以上あなた方といがみ合うくらいなら、ここで道を違えるのがお互いにベストでしょう。私もこれ以上あなた方と関係を悪くしたくありませんし、思い出は美しいままにしておきたい。今までの二年間、長かったようなあっという間だったようなですが、本当にお世話になりました――本音を言えば、私の方が七割くらいお世話していたような気がしてるのですが」
私はできるだけ柔和に笑った。しかしアンディもリンクも、ぎゅっと唇を結んだままだった。
「――さて、さあ、早くここを離れましょう。思いのほか長居してしまいましたし、いい加減誰かが来てもおかしくありません。いくら根回ししていても、限度はありますからね」
言いながら、私はとことこと窓に近づいた。そしてかちりと開く――夜風は少し肌寒かった。
「一応、ギルドを辞めても、私はあの家で暮らしますからね。街ですれ違った時なんかは、どうぞよしなにしてください――あ、そうそう。そのうちダルクもギルドに登録させようと思ってるんですよ。なのでね、その時はぜひ、目をかけてやってもらえると嬉しいです」
ここまで言って、私は、二人に伝えるべきことはすべて伝え終わった気がした。
私は窓枠に足をかけた。この悪人の根城からの脱出――そして、私がこのチームから去ることを意味する跳躍だ。
戸惑いのような憂いのような、そんな後ろ髪をひかれるような感覚が胸に去来する。しかし私は、ため息と共にそれを振り払う。
いつかこうなることは、少なからず覚悟していたのだ。
全部が全部円満にいかないこともあるとは思っていたのだ。
笑顔で終われないこともあるとわかっていたのだ。
二年間を共にしたチームメイトの何かを守れたのなら、私にはそれ以上望むものはないのだ。いくらか私情は挟んだとはいえ、仕事のために自らの能力を奮った。その結果なのだから、これ以上のことは何もないのだ。
私たち三人の仲についていえば、恐らく、怒りと涙と混乱が渦巻く最悪の終わり方だったのだろう。怒鳴られ、泣かれ、騙し、騙され、そして目の前で人を殺し――客観的に見れば、私は最後の最後でだいぶ非道い仕打ちをしたということになるだろう。
罵声を浴びせられるか。
完全な拒絶を食らうか。
この上ない恨みを込められるか。
私はすべてを覚悟していた。すべてを覚悟し、窓枠を蹴り、飛び降りた。
しかし、その刹那、私の背中にかけられた言葉は、
「……ありがとう」
という、リンクの小さな小さな声だった。