2
庭掃除を終えて部屋に戻り、部屋の掃除を始める。
────
その成分が敷地の境界線を越え、私の家の外壁に到達したのは四日前のことだった。
この家は、外気との接触を最小限に抑えている。だが、換気システムが外部の空気を取り込む給気口だけは、わずかな隙間として外界に繋がっている。
しかし最新の高性能フィルターを透過しているおかげで室内の空気は綺麗に保たれている。
だが数日前から外は腐敗臭の温厚だった。
そのことに気づいたのは、夜遅く帰宅してきた時のことだ。通常ではあり得ない粘り気が混じっていた。
それは古い納屋に放置された野菜が溶け出したような、あるいは湿った土の底で何かがゆっくりと分解されているような、重苦しい甘みを帯びた匂いだった。
隣の家の庭に面した壁際を通るたびに、その粒子は私の鼻腔の奥に確実に蓄積されていった。
最初は庭に放置された生ゴミが発酵しているのか、あるいは浄化槽のどこかで堆積物が腐っているのか。その原因を突き止める業者を呼んだが、幸い自宅の浄化槽も換気システムも正常だった。
私の生活圏は、この三重の防音窓の内側で完結しているという安心感を再認識させてくれた出来事だった。
近所の人達の中には、嫌そうな顔をしながら、私の家を時より睨んだりして、洗濯物を取り込んだりしていた。
私は家を立てた時から、一室を乾燥部屋にしており、外に干すという概念がない。
砂ホコリや虫の卵、よく平気でオアシスの中に入れられるものだと、いつも宇宙人を見るように思っていた。私に害が及ばない限り、勘違いで恨まれようが、どうでも良かった。無知な人間に構うほど、無駄な事はない。
────
家の外。
塀の向こう側を、時折通行人が通り過ぎていく。
防犯カメラの映像の中で、彼らは隣家の生垣の前を通りかかる際、一様に顔をしかめ、歩調を速めていた。中には立ち止まり、不審げに隣家の窓を見上げる者もいたが、それだけだった。
誰も私の家のインターホンを鳴らすことはないし、隣の家の呼び鈴を鳴らす者もいない。そんなものだろう。
通報という行為には、多大なエネルギーが必要とされる。
他者のプライバシーを侵食し、行政の介入を招き、やがてはこの静かな住宅街に「事件」という激しい振動を撒き散らすことになる。その無駄な労力を負担するよりは、ただ鼻を塞ぎ、足を速めることの方が、この街の住民たちにとっては容易で、賢明な選択だった。
私はモニターのスイッチを切る。
隣から漂い続ける匂いは、すでにこの一帯の一部となっていた。
腐敗。分解。平衡。
窓の向こうで起きている物理的な変化は、私を驚かせることも、私の安眠を妨げることも、この家のおかげでない。そのうち臭いは消えるだろう。いつか終わりがあるのなら、それでいい。十分だ。
私は厚いシャッターに守られた安全な暗闇の中で、猫たちを抱きしめて、今日もぐっすりと眠りに落ちる。
だがその夜はいつもの平穏とは程遠かった。最初に私の領域を侵食したのは、鼓膜ではなく、床から這い上がってきた微弱な震動だった。
通常、この寝室に届く音は、私自身の心拍音と、換気システムが吐き出す一定の風切り音、そして愛しい猫たちの吐息だけである。しかし、午前二時十四分。遮光カーテンによって完璧な暗黒を保たれた室内で、私の背中に触れるシーツの裏側から、これまで一度も検知したことのない不規則な波形が伝わってきた。
私は意識を覚醒の階層へと引き上げた。
まぶたの裏側には、まだ深い眠りの残像があったが、私は上半身を起こす。
既に猫たちが目をまんまるとさせて耳を激しく動かし、外の音の原因を確かめるかのように、観察していた。
私は枕元のコントロールパネルに指を滑らせた。ナイトモードの低照度設定で、壁面の大型モニターが青白く発光する。
映し出されたのは、赤外線モードに切り替わった四方向の監視カメラ映像だった。
画面の端で色が踊っている。
この数ヶ月間、一度も変わることのなかったモノクロームの夜の風景を、暴力的な色彩が塗り替えていた。赤。そして青。その二色の光が、私の家の鋼鉄製シャッターの隙間をなめるように走り、庭の生垣の葉一枚一枚に不自然なエッジを与えている。
うるさいい。
音が遮断されているからこそ、その視覚的な律動は私の脳を直接殴りつけるような不快感をもたらした。
モニターのズーム機能を操作する。
隣家の門扉の前に、複数の車両が停まっていた。ルーフの上で回転する赤色灯が、深夜の住宅街の空気を切り裂いている。制服を着た男たちが、車から降り立ち、隣家の玄関へと向かっていく。
防音窓を透過してくるのは音そのものではなく、大気が激しく攪拌されることによる物理的な圧力だった。
消防士姿の一人が、重そうな赤いバール? を手に取り、隣家のドアノブ付近に固定していた。4kカメラの防犯カメラなんて意味あるのかと思っていたが、少しは意味があったようだ。お金が少し無駄にならなくて良かった。
一拍の静止。
次の瞬間、画面の中の風景が爆発したように揺れた。ドアが内側に蹴り倒され、隣家の内部に溜まっていた「すべて」が、外の世界へと噴出したようだった。臭そうだな。そう思って、相変わらずサイレンでドキマギしている猫を抱き寄せた。猫が私の手をペロペロと舐めてくる。相変わらず、猫の舌はザラザラしていて、くすぐったい。
画面越しの赤色灯の光が、噴出したガスや微細な埃と混じり合い、モニター越しでも判別できるほどの濁った大気となって、私の家の外壁に激突すしていた。
数日前から、ゴミ出しの数秒間だけ私を苛ませていた、あの重粘な成分。
今、隣家の中では、それが一気に開放されていた。
警察官たちが一斉に顔を背け、防護マスクを装着する。彼らは、これまで誰も触れることのなかった隣人の「成れの果て」――分解され、液体となり、気体へと昇華した有機物の成層圏へと土足で踏み込んでいく。
私はその光景を無感情に見つめ続けた。段々眠くなってきた。慣れた猫たちも、うとうとと丸まり始めた。
彼らが家の中へ消えていき、懐中電灯の光が窓の内側で不規則に踊る。
その光の動きが止まるたび、何らかの「発見」がなされているのだろうか。睡魔が私を襲ってくる。片目を枕に沈めて、片目だけでモニターをじっと眺める。
重要なのは、この騒乱によって、私の家の周囲が綺麗になるかだった。
10分ぐらいが経過した頃、隣家の玄関から、白い布に覆われた担架が運び出されていくのが見えた。やっぱり腐っていた臭いだったのね。
消防? 救急? 男たちがそれを車両の後部へと押し込み、ドアを閉めた。
続いて、警察車両が順にライトを点灯させ、ゆっくりと私のアングルから消えていく。
赤色灯の残像が網膜から消えるまで、さらに数分を要した。
モニターに映る風景は、再び元の静止画へと戻った。
隣家の玄関のドアは、壊されたまま不自然な角度で開いている。その暗い入り口の奥からは、もう何の気配も、何の匂いも、何の音も発せられていない。
そこにあるのは完璧な空虚だった。
────
数日後、郵便ポストには自治体からの形式的な、実にくだらない通知書が届いていた。
「孤独死」と断定された、という一文。
死因、時刻、発見の経緯。それらはもはや何の感情も伴わない、無機質な文字の記号へと置き換えられている。
私はそれを読み終えるのと同時にシュレッダーの投入口へと差し込んだ。
翌朝、私は数日ぶりに勝手口のスライドドアを開けた。
長い間、私を苛ませていたあの腐敗臭は、驚くほど綺麗に消え去っていた。相変わらず地球の凄さに驚かされる。
猫たちが久しぶりに、禁止していた庭遊びに、かり出ていった。テンションマックスで、私まで嬉しくなった。
縁側に腰を下ろし、まだ少し湿り気を含んだ風を頬に受けながら、私は庭を眺めている。視線の先には、我が家の小さき支配者たちが二匹。
きなこは、植え込みの陰から鋭い視線を送っている。獲物は、風に揺れる名もなき雑草の穂か、あるいはもう一匹の背中か。尻尾の先だけをピコピコと規則正しく動かし、じりじりと間合いを詰める様は、さながら密林のハンターだ。しかし、いざ跳びかかろうとした瞬間に小さな虫が鼻先を横切ったらしく、「へぷしっ」と間の抜けたくしゃみをして、せっかくの緊張感を台無しにしていた。
おはぎは、そんなことなどお構いなしに、日当たりの良い芝生の上でゴロゴロと喉を鳴らしている。お腹を天に向け、前足を幽霊のように丸めて「無防備」を絵に描いたようなポーズだ。と思えば、急に何かのスイッチが入ったのか、虚空に向かって激しい猫キックを繰り出し始めた。一体、彼女の目にはどんな強敵が映っているのだろう。
やがて、ハンター役のきなこが我慢できなくなったのか、芝生の上で転がるおはぎの首元へ音もなく飛びかかった。そこからは、庭のあちこちで「追いかけっこ」の開幕だ。
ドタドタという、およそ猫らしからぬ足音を立てて二匹が走り抜ける。途中で急にきなこが立ち止まり、何事もなかったかのように毛繕いを始めるのも、猫界の不思議なルールなのだろう。追っていた方も、釣られて隣で耳の裏を掻き始める。さっきまでの熱狂は何だったのかと、見ているこちらが拍子抜けしてしまうほどの切り替えの早さだ。
再び追いかけっこが始まると、今度は庭の隅にある大きな木を舞台にした立体交差が展開される。幹を駆け上がり、枝をしならせ、どちらがより高い場所へ行けるかを競っているようだ。
「ンフフ、あんまり無茶しないでよ」
思わず声が漏れたが、猫たちは耳だけをこちらへ向けて、返事の代わりに鮮やかな着地を決めて見せた。
一しきり遊び疲れたのか、最後には二匹揃って日だまりへと戻ってくる。互いの頭を丁寧に舐め合い、大きなあくびを一つ。重なり合うようにして丸くなるそのシルエットを見ていると、私の心まで日向の匂いに包まれていくようだった。
この穏やかな時間が、猫たちにとっての全てであり、私にとっての救いでもある。そんなことを思いながら、私は冷めかけたお茶を啜り、再び静かな庭に目を向けた。
あの隣家。警察官たちが踏み込み、風が吹き込み、遺体が運び出されたことによって、滞留していた粒子はすべて大気の中へと薄められ、拡散していったようだ。
外気に触れても、鼻腔を突く甘ったるい重みはない。
私は立ち上がり、ゴミ袋をコンテナの中に置き、そのまま数秒間だけ隣家の方を再度眺めた。
黄色い規制線が張られ、窓は閉ざされ、溢れていた郵便受けの中身は、誰かの手によって空にされている。
あそこにはもう、何もない。
腐っていく肉体も、深夜にテレビをつける指先も、壁越しに響く咳払いも、すべてが消滅した。
猫たちと家に戻りドアを施錠する。
三重の窓が、外の風の音を遮断する。
鋼鉄のシャッターが、世界を再び完璧な闇へと閉じ込める。
私は換気システムのフィルターを、新品のHEPAフィルターへと交換した。
インジケーターの数値は「0.00」。
不純物なし。振動なし。
室温は二十四点五度。湿度は四十五パーセント。
この家も、周囲も、再び完璧な定常状態へと回帰したのだ。
私はリビングのソファに横たわる。
もうゴミ出しの数秒間に、隣からの「気配」に意識を割く必要はない。
壁の向こう側にあるのは、私の家と同じ、変化することのない絶対的な地球という空白だ。
ようやく。
ようやく、臭いも、音も、光の乱反射も、他者の存在という不確実な律動も、何一つ気にすることなく。
ただの一つの石のように、静かに眠ることができそうだ。
私は目を閉じる。
意識が、音のない海の底へとゆっくりと沈んでいく。
呼吸は、機械のように正確で、浅い。
吸って、吐く。
その周期だけが、この世界の唯一の認識。
完成した。
ここには、私と、猫たちの呼吸以外、何も存在しない。
(完)




