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復讐という名の教育~仇の息子が「師匠」と懐いてくるので、優しく絶望を教えてあげることにした

作者: 九条 綾乃

序章:断頭台の誓い


 首にはめられた『裁きの首輪』が、氷のように冷たく皮膚に食い込んでいた。王都の中央広場。冬の空は鉛色に淀み、広場を埋め尽くす民衆の熱狂が、騎士グレイの鼓膜を叩き続けていた。

 「反逆者」「売国奴」「恥知らずの暗殺未遂犯」――投げつけられる言葉のすべてが、権力者によって書き換えられた虚構だ。


 グレイは呼吸をしようとして、喉が痙攣するのを感じた。弁明はできない。この首輪は、装着された者の声帯を呪いで締め上げ、都合の悪い真実を封殺するための装置だ。処刑台を見下ろす貴賓席に、その男はいた。王国の英雄、ヴァルド公爵。グレイが長年、実の父のように慕った主君。その剣として汚れ仕事を一手に引き受けてきた。だが、忠誠は仇で返された。

 グレイは公爵家の「暗部」を知りすぎた。

 長年の裏工作、そして極めつけは過去の「灰の谷」の一件――。もはやグレイは、生かしておくには危険すぎる「懐刀」となっていた。ヴァルド公は悲痛な面持ちを装い、ハンカチで目元を拭う仕草を見せたが、グレイと視線が合った一瞬だけ、口角を微かに吊り上げた。


(……うぬぼれるなよ、ヴァルド)


 私を消せば、秘密は守られると思ったか。お前が守りたいのは、自身の名誉か、あるいは――。


 処刑人がレバーに手をかける。床が抜け、重力がグレイの首を引く。強烈な衝撃。頸椎が砕ける音と同時に、視界が赤く染まる。


 ――次こそは、必ず。お前が唯一愛し、隠し続けてきた“希望”を、俺が壊してやる。


 その妄執が時空のおりに触れ、因果が逆流した。



 第一章:無垢なる弟子


 肺いっぱいに空気を吸い込み、グレイは寝台から跳ね起きた。心臓が早鐘を打っている。首に手をやると、温かい皮膚の感触があった。窓の外から差し込む朝日は、処刑当日の淀んだ空とは違う。壁のカレンダーは、処刑の三日前を示していた。


 グレイは震える手で顔を覆った。戻ったのだ。部屋の扉がノックされ、部下の騎士が入ってくる。


「グレイ大隊長どの!ヴァルド公からの伝令です。『北の巡回ルートに不審な動きあり。至急、調査に向かわれたし』とのことです」


 ……来た。これが口封じの罠だ。この任務に向かえば、そこには偽造された「反逆の証拠」と、グレイを捕縛し、抹殺するための伏兵が待っている。


「分かった。準備してすぐに向かうと伝えてくれ」


 グレイは平静を装って答えた。もちろん、行く気などない。この三日間が、復讐のための限られた猶予なのだ。


 剣を取り、グレイは鏡の中の自分を睨みつけた。ヴァルド公を殺すだけでは飽き足りない。暗殺で済ませば、奴は「悲劇の英雄」として死に、真実は闇に葬られる。奴にとって最大の罰は、死ではない。あの冷酷な男が晩年になってようやく授かり、自身の汚れた手とは無縁の場所で育て上げた、たった一つの宝物。息子アステルを壊すことだ。


 その日の午後、グレイは下町の外れにある古びた孤児院の前に立っていた。ヴァルド公の息子アステルが、身分を隠して奉仕活動に通っていることは、側近だったグレイだからこそ知る情報だ。中庭を覗くと、色素の薄い金髪の美しい少年が、子供たちに囲まれて薪割りをしていた。


「えいっ!……あ、あれ?」


 斧は薪を逸れ、地面を叩く。子供たちがケラケラと笑う。少年は恥ずかしそうに頬を赤らめ、額の汗を拭った。隙だらけだ。あれがあの冷酷なヴァルドの息子だとは信じ難い。グレイは門を開け、大股で近づいた。


「腰が入っていない。そんな持ち方では、いつか自分の足を切るぞ」


 グレイは少年の背後から手を伸ばし、斧を取り上げた。


「見ていろ」


 一閃。乾いた音と共に、薪が真っ二つに割れて弾け飛ぶ。


「す、すごい……!」


 少年、アステルは目を輝かせてグレイを見上げた。その瞳には、一点の曇りも、貴族特有の傲慢さもなかった。


「あなたは?騎士様ですか?」


「まぁ......通りすがりの暇人だ。……少しの間、手伝ってやる」


 その日、グレイは非番を装ってアステルのもとで過ごした。彼の信頼を得て、最も残酷なタイミングで突き落とすため、復讐のために。だが、アステルという少年は、グレイの予想を遥かに超えて「無垢」で、「善」だった。


 二日目の夕暮れ。井戸端で休憩している時、アステルが照れ臭そうに自分の掌を見せてきた。


「見てください、師匠。マメが潰れて、皮が厚くなりました」


 貴族にあるまじき、荒れた手。


「なぜそこまでする?君の家柄なら、こんな鍛錬は必要ないだろう」


 グレイが意地悪く尋ねると、アステルは真剣な顔で首を横に振った。


「父上のような手になりたいんです。父上の手は、大きくて、ゴツゴツしていて、でもとても温かい。あの手で、この国と多くの民を守ってきたんです」


 アステルは遠くの王城を見つめた。


「父上は僕の誇りです。どんなに忙しくても、僕の話を聞いてくれる。母上が亡くなってから、父上は僕の父であり、母であり、そして最高の英雄でした。……僕もいつか、父上の隣に胸を張って立てるようになりたい」


 その言葉は、あまりに純粋で、眩しかった。グレイは胸の奥が締め付けられるのを感じた。かつて自分も、ヴァルド公の背中に憧れ、そう誓って騎士になったのだ。だが、その背中の裏側には、夥しい死体の山があった。


 (……ああ、本当にいい子だ)


 グレイの中に、奇妙な情が芽生えていた。この少年を「師匠」と呼ばせ、剣の握り方を教える時間が、心地よく感じられてしまう。だが、だからこそ教えてやらなければならない。君が愛するその温かい手が、どれだけの血で濡れているのかを。


「……アステル。君は、お父上の全てを知っているつもりか?」


 グレイの声が、意図せず低くなる。


「え?」


「街の噂だ。君が尊敬するヴァルド公が、かつて『灰の谷』という村で何をしたか。……調べてみるといい」



第二章:信じるがゆえの追跡


 グレイの撒いた毒は、すぐに回った。翌日、アステルは孤児院には来なかった。グレイが影から尾行すると、彼は王立図書館の閉架書庫に向かった。アステルは必死だった。父を疑うためではない。「父を侮辱する悪質なデマ」の発生源を突き止め、父の名誉を守るためだ。


「……おかしい」

 

 書庫の隅で、アステルが古地図を広げながら独り言ちる。


「『灰の谷』の記録だけ、父上が遠征した年と合わせて完全に抹消されている。疫病による隔離だとしたら、なぜ公式な記録や、慰霊碑がないんだ?」


 だが、アステルは諦めなかった。彼は図書館を飛び出し、貴族が決して足を踏み入れないスラム街へも足を踏み入れた。その行動力は、皮肉にもグレイが教えた「騎士としての在り方」そのものだった。


 スラムの酒場。昼間から酒の腐った臭いが漂う場所で、アステルはついに、かつて辺境から流れてきた男を見つけ出した。


「灰の谷?ああ、知ってるさ。地獄だったよ、あそこは......」


 片足を失った男は、金貨を受け取るとようやく語り始めた。


「病気なんかじゃねぇ。騎士団が村を囲んで、火を放ったんだ。俺は死体の下に隠れて助かったが、妹は……。逃げようとした子供たちを、騎士たちが笑いながら刺し殺していったんだ......」


「嘘だ……ッ!」


 刹那、アステルが叫ぶ。


「父上の騎士団が、そんなことをするはずがない!父上は『慈愛の公爵』と呼ばれているんだぞ!」


「慈愛?ケッ、笑わせるな。指揮官の男は、燃える村を見ながらワインを飲んでたぜ」


 アステルは顔面蒼白で酒場を飛び出した。路地裏で嘔吐し、膝をつく。そこに、グレイが音もなく現れた。


「師匠……」


 アステルは涙目でグレイを見上げた。(すが)るような、迷子の子供の目だった。


「聞きましたか?あんなの、でたらめですよね?父上は嵌められようとしているんだ。誰かが父上を失脚させるために、あんな酷い嘘を……!」


 グレイは冷徹に告げた。


「火のないところに煙は立たない。だが、君が言うように陰謀の可能性もある」


「そうです!証拠が……証拠が必要です!」


 アステルは立ち上がり、汚れた服を払った。その目には、狂気にも似た執念が宿っていた。


「父上の書斎に『血盟記録晶』があるんです。父上は『身の潔白と忠誠の証』として、すべての任務を記録し、保存していると言っていました。それを見れば、父上の正義が証明されるはずです!」


 彼は最後まで、父を信じていた。あの水晶に記録されていることこそが、父の無実の証明だと信じて疑わなかった。


「今夜、父上は王城の夜会に出ます。その間に僕、確認してきます。そして、あの噂の誤解を解いてみせます」


 アステルは拳を握りしめ、グレイに深く頭を下げた。


「師匠、きっかけをくれてありがとうございます。僕、戦います。父上の名誉のために」


 グレイは、死地へ向かう兵士のような少年の背中を見送った。アステルのその純粋な信頼こそが、彼自身を壊す凶器になるかも知れないのに。


(……すまない、アステル)


 心の中で謝罪し、グレイは剣の柄を握りしめた。もう後戻りはできない。



第三章:楽園の検索、地獄の発見


 深夜、月明かりだけが照らすヴァルド公爵邸。グレイは警備の手薄なバルコニーから書斎に侵入していた。本来なら、北の国境で「罠」にかかっているはずの時間だ。ここにいること自体が、ヴァルドへの叛逆(はんぎゃく)を意味する。少し遅れて、廊下から慎重な足音がした。アステルだ。震える手で扉を開けた彼は、グレイの姿を認めると、安堵と決意が混ざった表情で駆け寄ってきた。


「師匠……来てくれたんですね」


「ああ」


 グレイは短く応じ、アステルを見つめた。これが最後だ。この無垢な魂が光輝くのは。アステルは迷わず隠し棚へ向かい、仕掛けを解いた。そこには、禍々しいほどに澄んだ青色の水晶――『血盟記録晶』が鎮座していた。


「見ていてください。これが、父上の正義の証です」


 アステルの指先が、水晶の認証面に触れる。血統認証。直系の血を感知し、水晶が淡い青色の光を放った。書斎の空中に、無数の光のウィンドウが展開される。そこには、日付ごとに分類された膨大な記録が並んでいた。


「こんなに……父上は、本当に全てを記録していたんですね」


 アステルは安堵したように息を吐き、手近な古い記録を指先で弾いた。空中にホログラム映像が浮かび上がる。


 映し出されたのは、十数年前の屋敷の庭園だった。木漏れ日の中、若き日のヴァルド公が、赤ん坊を抱いた美しい女性と微笑み合っている。


『あなた、見て。この子の手、あなたの指を握って離さないわ』


『ああ……なんて力強いんだ。アステル、私の愛しい息子よ』


 ヴァルドの声は、蜂蜜のように甘く、慈愛に満ちていた。


『約束しよう。この国にあるすべての苦しみから、パパがお前を守ってみせる』


「母上……」


 アステルの瞳が潤んだ。


「僕が生まれた頃の映像だ……。やっぱり、父上は僕が知っている通りの優しい人だ」


 アステルは嬉しそうにグレイを振り返った。


「師匠、見てください。父上の目は、いつだって家族に向けられていたんです」


 グレイは何も言えず、ただ喉の奥で苦い唾を飲み込んだ。その「守る」という誓いが、どれほどの犠牲を生んだかを知っているからだ。


 アステルは次々と記録を開いていった。ある映像では、ヴァルド公が騎士団を率いて盗賊団を討伐し、囚われていた村人たちを解放していた。


『ありがとう、公爵様!』


『礼には及ばん。民の安寧を守るのが、貴族の務めだ』


 毅然とした態度で正義を語る父の姿。またある映像では、深夜の執務室で、領地の飢饉対策に頭を悩ませ、私財を投じて食料を手配する姿があった。


「ほら、やっぱり!」


 アステルの顔に、晴れやかな笑みが戻った。


「父上は清廉潔白な英雄です。あのスラムで聞いた話は、やっぱり何かの間違いだったんだ!」


 少年は勝ち誇ったように、そして心底安心したように胸を撫で下ろした。


「さて、最後に『灰の谷』の日付の記録を確認して、終わりにしましょう。きっと、父上が疫病に苦しむ人々へ薬を運んだ記録が出てくるはずです」


 アステルは疑うことをやめ、確信を持って指を滑らせた。記録リストの中に、該当する日付のファイルがあった。タイトルは『国境警備および防疫任務』。


「ありました。……これで、師匠の疑いも晴れますね」


 アステルは微笑みながら、そのファイルをタップした。父の無実を信じて。美しい父の姿を、もう一度見ることができると信じて。


 映像が切り替わる。最初に映し出されたのは、豪奢な王城の密室だった。玉座に座る国王と、その前に跪くヴァルド公の姿。


「え……陛下?薬の配給じゃないの……?」


 アステルの笑顔が、凍りついた。


『ヴァルドよ。灰の谷の件、頼めるか』


 国王の低い声が響く。


『承知いたしました。あの谷の民は、王家の"秘密"を知りすぎました。……疫病の名目で封鎖し、一匹残らず”浄化”いたします』


『うむ。ただし、王家の名は出すな。すべて貴公の判断で行うのだ』


『御意』


 アステルは目を見開いた。「”浄化”……?父上は、王命で……?」


 だが、映像はそこで終わらなかった。ヴァルドが部屋を出た直後、彼は隠し持っていた記録用魔道具に向かって、冷酷な笑みを浮かべたのだ。


『……という、言質を取ったぞ』


 映像の中の若き日のヴァルドは、懐から「浄化命令書」を取り出し、カメラに見せつけた。


『王とて信用はできん。いずれこの汚れ仕事を私の独断とし、私を切り捨てる日が来るだろう。その保険として、この"王命の証拠"と、これからの"虐殺の記録"を残す』アステルは息を呑んだ。


「……ほ、けん?...ぎゃく、さつ?」


 父がこの映像を持っていたのは、正義のためでも、「身の潔白と忠誠の証」のためでもない。王家を脅し、自身の権力を盤石にするための「政治的な凶器」として保存していたのだ。


 そして、映像は地獄へと切り替わる。


『逃がすな!一人たりとも生かしてここから出すな』


 燃え盛る灰の谷。逃げ惑う人々を、ヴァルドは無表情に指揮し、虐殺していく。だが、単なる指揮官ではなかった。映像の中、赤ん坊を抱いた母親が、ヴァルドの足元に縋り付いた。


『お慈悲を!どうか、どうか!この子だけでも!』


 その必死の嘆願に対し、ヴァルドは表情一つ変えなかった。彼は腰の剣を抜き放ち、流れるような動作で母親の心臓を貫いた。さらに、泣き叫ぶ赤ん坊の首を、まるで雑草でも刈り取るかのように冷淡に斬り捨てた。


 アステルの喉から、声にならない悲鳴が漏れた。


「い、や……父、上……?」


 さっきまで見ていた、あの温かい手が。頭を撫でてくれた優しい手が、躊躇(ためら)いもなく弱者を屠っている。


 虐殺が終わった後、燃える村を背に、ヴァルドは血濡れの剣を拭いながら独り言のように呟いた。


『これで私の地位は安泰だ。王家は私に手出しできない』


 彼は懐から、幼いアステルが描いた拙い似顔絵を取り出し、愛おしそうに撫でた。


『アステル……私のかわいい息子よ。お前には、こんな汚い世界は見せはしない。血と灰の臭いは、すべてこのパパが引き受ける。お前はただ、きれいな場所で、きれいなものだけを見て育て』


 狂気的なまでの父性愛。ヴァルドは血のついた唇で、似顔絵にキスをした。


『お前を誰よりも高貴な場所へ押し上げるためなら、パパは喜んで悪魔になろう。汚れ仕事は私の代で終わりだ。お前は、穢れなき英雄の息子として輝け』


 プツリ、と映像が途切れた。


 書斎には、重苦しい沈黙だけが残された。


「……僕の、ため?」


 アステルの声は、枯れ木のようだった。自分が着ていた服、食べていた食事、父から受けた教育、そして今の幸福な生活。そのすべてが、王家への脅迫と、罪なき人々の骨の上に築かれたものだった。自分が生きて笑うことそのものが、誰かの死を肯定することになる。自分の存在そのものが、虐殺の理由だったのだ。


「う、ああ……あああぁぁッ!」


 アステルは水晶を取り落とし、自身の喉を掻きむしった。


「僕が、殺させたんだ。僕の未来のために、父上は……あんな……!」



第四章:断絶の対話


 その時だった。バンッ!と書斎の扉が乱暴に開かれた。


「誰だ!書斎にいるのは!」


 ヴァルド公爵だ。予定より早く夜会から戻ったのか、あるいは水晶の起動を感知したのか。部屋に入ったヴァルドは、グレイの姿に眉をひそめ、次にうずくまるアステルを見て硬直した。そして、床に転がる『血盟記録晶』を見て、全てを悟った。


「アステル……!それを見たのか!?」


 ヴァルドが駆け寄ろうとする。


「来るなッ!!」


 アステルが絶叫した。その拒絶の声に、ヴァルドは足を止めた。アステルはふらりと立ち上がり、涙で濡れた顔で父を睨みつけた。


「父上……あれが、あなたの正義なのですか。罪のない人々を焼き殺し、王家を脅して得た地位が、僕への愛なのですか!」


 ヴァルドは狼狽し、両手を広げた。


「......そうだッ!すべてお前のためだ!世界は綺麗事では回らん。誰かが泥を被らねば、お前のような優しい子が安心して暮らせる場所は作れないのだ!」


 英雄の仮面が剥がれ、一人の必死な父親の顔がそこにあった。


「私は悪魔になった。だからお前は天使のままでいられたんだ。あの記録は王への保険だ、お前が見る必要などなかった!」


「必要なかった?僕が何も知らずに、その血塗られた玉座に座って笑っていれば、それで父上は満足だったのですか!」


 アステルは一歩、後ずさる。背後は、開け放たれたバルコニーだ。


「僕は……あなたのような騎士になりたかった。弱きを守り、正しきを行う、誇り高い騎士に。でも、僕が目指していたのは、幻だった」


「幻でいい!現実など見るな!」


 ヴァルドが叫ぶ。


「お前は穢れるな。私が作った美しい庭で、ただ幸せであればいいんだ!」


「その庭の土が、人々の血にまみれていると知ってもですか!」


 アステルは首を振った。その顔に浮かんだのは、怒りを超えた、深い悲しみと絶望だった。


「父上......。僕は、あなたの共犯者には、なれません。でも、あなたを裁くこともできない。……だって、僕はあなたに愛されてしまったから」


 アステルはバルコニーの手すりに足をかけた。グレイの身体が、反射で一歩踏み出した。だが伸ばしかけた手は、復讐の誓いに絡め取られたように、宙で止まる。


「やめろ、アステル!やめてくれっ!何をする気だ!」


 ヴァルドが青ざめて歩み寄る。グレイもまた、息を呑んでアステルを見つめた。アステルは最期に、グレイの方を見た。


「師匠……ありがとうございました。真実を教えてくれて」


 そして、父に向かって、今日一番の――幼い頃に向けたような無垢な微笑みを向けた。


「父上。汚れ仕事はあなたの代で終わりなら……僕の命で、本当の終わりにしましょう」


「アステルゥゥッ!!」


 ヴァルドの手が伸びる。だが、少年は躊躇(ためら)いなく、夜の闇へと身を投げた。時間がとまったかのように、白い鳥のように、ふわりと落ちていく。穢れなき希望が、墜ちていく。


 ドサッ、という鈍い音が、中庭から響いた。



終章:灰の味


「あ……あ、あ……」

 

 ヴァルドはバルコニーの手すりにしがみつき、下を覗き込んだまま動かなくなった。中庭の石畳の上。白い花が散ったような、小さな影。赤い染みが広がっていく。

階下では使用人たちの悲鳴があがる。


「嘘だ……アステル……お前のためだぞ……すべて、お前のためだったんだぞ……」


 壊れたレコードのように、同じ言葉を繰り返す。王家を脅せる最強の保険も、盤石な地位も、すべてが意味を失った。彼が守りたかった「きれいな世界」の住人は、もうどこにもいない。

 グレイは、魂の抜けた老人を背後から見下ろしていた。


 復讐は成った。

 ヴァルド公は、自らの愛と罪が招いた結果によって、最も残酷な形で希望を失った。

 

 ヴァルドがゆっくりと振り返った。焦点の合わない目で、グレイを見る。


「……グレイ。お前か」


 怒りすらない。ただの虚無だ。


「お前が。お前が、連れてきたのか。……そうか。私の負けだ」


 ヴァルドは察したような表情で、ふらふらと、自身の剣を引き抜いた。グレイに斬りかかるためではない。切っ先を自分の喉元へ向ける。


「待て」


 グレイは冷たく言い放った。


「死んで逃げる気か?それは許さん」


 グレイはヴァルドの手を蹴り上げ、剣を弾き飛ばした。


「生きて味わえ。お前が焼いた灰の味と、お前が殺した息子のいない世界を」


 グレイは音もなく書斎を後にした。背後で、老人の獣のような慟哭が上がり続けていた。


 三ヶ月後。王国のとある国境の町に、流れ着いた元騎士の姿があった。酒場の喧騒の中、旅の商人が王都の噂話をしているのが耳に入る。


「聞いたか?あの英雄ヴァルド公の最期」

「ああ、哀れなもんだよな。屋敷に火をつけて、息子の名前を叫びながら狂い死にしたって話だろ?」

「なんでも、焼けた跡から大量の不正の証拠が見つかったらしいぜ。王家も絡んでるとかいないとか……ま、死人に口なしだがな」


 グレイは酒を煽った。安い酒だ。喉が焼けるように熱い。ヴァルドは狂死した。王家の秘密も暴かれたかもしれない。復讐は完璧に完遂された。だというのに。


 グレイは自分の掌を見つめた。そこには、剣ダコとは違う、温かい感触がこびりついている気がした。


『師匠、見てください。マメができました』

『あなたのような騎士になりたいんです』


 不器用な少年の笑顔。マメだらけの手。それらが胸の内で鋭い棘となり、心臓が動くたびに突き刺さる。


 勝者などいない。グレイの手には、温かさも、達成感も残らなかった。残るのは、口の中に広がる、いつまでも消えない苦い灰の味だけ。


 グレイは一人、あてもない旅路へと静かに歩き出した。


(了)


(後書き)

 数ある作品の中から、決して「なろうらしい」とは言えない、この救いのない物語を選んでくださったこと、心より感謝申し上げます。 このタイトルとあらすじですから、爽快な逆転劇を期待された方もいらっしゃるかと思います。そんな数少ない読者様に対し、このような重苦しい「鬱展開」をお届けしてしまったこと、まずは深くお詫びいたします。


 ただ、私はどうしても、この物語が書きたかったのです。流行りのスカッとする復讐劇も好きですが、私が描きたかったのは「本来の復讐」が持つ虚しさと、冷たさでした。父の歪んだ愛と、息子の穢れなき愛。互いに想い合っていたはずなのに、決定的にすれ違い、破滅へと転がり落ちていく――そんな親子の悲劇と、勝者なき結末を形にしたかったのです。


 もしよろしければ、一言でも感想をいただけると嬉しいです。決して万人受けする内容ではありませんので、ここまで読んでくださった皆様のお声は、私にとって何よりの支えになります。ご批判も含め、どんな言葉でも構いません。


 グレイの手のひらに残った微かな温かさが、皆様の心にも少しでも残れば幸いです。

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― 新着の感想 ―
純粋無垢な存在には綺麗な世界で生きて欲しいってのは、親家族含めた周囲の切実な願いであり、どうしょうもなく勝手な優しい虐待の様なものだと感じました 庇護者が存命な内は、その綺麗な世界は守られるかもしれな…
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