第5話 美織の日常
この話では、視点を美織側に寄せています。
特別な出来事はなく、
いつも通りの学校生活、いつも通りの時間。
けれど、その「いつも通り」の中には、
確かに変わり始めた感情が存在しています。
誰かを意識してしまった日常が、
どのように見えているのか。
静かな一話として読んでいただければ嬉しいです。
朝、目覚ましが鳴った。
美織はすぐに起き上がり、音を止める。
キッチンに立ち、ご飯の準備をしながら妹を起こした。
「愛起きて。ご飯できてるよ」
自分の弁当を詰めていると、
眠そうな声が飛んでくる。
「お姉ちゃん、いつもお弁当でいいなー」
「愛は給食あるでしょ」
妹の愛は、小学六年生になったばかり。
高校二年生の美織とは、5つ違いだった。
「今日は朝練あるから、
食べたお皿、自分で洗ってくれる?」
愛は口いっぱいにご飯を頬張りながら、
大きくOKサインを作った。
「じゃあ、よろしくね」
美織はそう言って、慌ただしく家を出た。
〜 美織の学校 〜
「おはよう、美織ちゃん」
ギターケースを抱えて声をかけてきたのは、
生田由依だった。
「おはよー、由依ちゃん」
自然と笑顔になる。
「来週から部員勧誘だよね。
楽しみだなー。カッコいい後輩、入ってこないかな〜」
由依は本気とも冗談ともつかない声で言う。
美織は、思わず少し嫌そうな顔をした。
「なによ、その顔」
由依は笑いながら肩を叩いた。
「別に……」
美織は、それ以上何も言わなかった。
□ 谷本の学校 □
体育館には、バレーボールの弾む音が響いていた。
二年生になって初めての朝練。
少し肌寒い空気の中、身体を動かす。
「谷本くん!」
キャプテンの谷口に呼び止められた。
「デザイン科だよね?
来週までに、部員勧誘のポスター描いてくれないかな?」
「そんな時期なんですね。わかりました」
絵を描くことが好きな谷本にとって、
その頼みは素直に嬉しかった。
朝練が終わりスマホを見るが、
伊東美織のLINEは既読にならなかった。
昼休みも確認するが、
それでも既読にならなかった。
昨日の、あの嬉しかった感情が、
少しずつ曇っていく。
放課後。
部活が終わって帰宅しても
LINEが既読になる事は無かった。
「……電話、してみるか?」
一瞬、指が動きかける。
「いや……それは、さすがにヤバいだろ」
自分に言い聞かせ、
いつものランニングに出かけるが、
頭の中は、美織のLINEでいっぱいだった。
〜 美織の家 〜
「ただいまー」
帰宅すると、母が夕飯の支度をしていた。
「おかえり」
美織の家では、父が讃岐うどんの店を営んでいて、
母は毎朝、店を手伝いに出ていた。
午後には帰宅して家事をするのが日常だった。
「お姉ちゃん、おかえり!」
愛が駆け寄ってくる。
「愛ね、六年生になって通学班長になったんだよ」
「すごいね〜」
そう言いながら、
「洗濯物を畳むから、手伝ってくれる?」
洗濯物を畳みながら、
愛の話を聞くのが、美織の日課だった。
そのとき愛が、ふと思い出したように言った。
「そういえばお姉ちゃん
スマホ、充電器に刺さったままだったよ」
「あ……?」
美織は一瞬固まり、
慌てて充電器の方を見る。
「あ、本当だ……全然気づかなかった」
その瞬間、
「ご飯できたよー」と、
母の声に促され、ダイニングへ向かう。
母と愛と3人で食卓を囲む、
食事の途中、母が何気なく言った。
「今日は帰り、昨日より早かったね」
美織は箸を止め、
「昨日は帰りに…たに、、」
言いかけて、急に立ち上がった。
「あっ……!」
スマホを手に取り、画面を見る。
…やっぱり。
谷本くんからのLINE。
今朝、連絡くれたのか〜。
「……無視したみたいになってるじゃん」
どう返せばいいか分からず、
しばらく画面を見つめたあと、
スタンプを一つだけ送った。
それから、美織は
藤田鮎子のトーク画面を開き、
静かに、文字を打ち始める。
□ 谷本のランニング □
黙々と走る谷本は、
何度もスマホを確認していたが、
気づけば、画面は真っ暗だった。
…充電切れ。
それでも、走る足は止まらなかった。
お読みいただき、ありがとうございます。
「美織の日常」は、
谷本のいない場面でも物語が進んでいること、
そして美織自身にも確かな時間と感情があることを
描きたくて書いた話です。
何も起きていないようで、実は少しずつ変わっている。
そんな日常のズレが、
この先の物語につながっていきます。
次話からは、再び谷本の視点に戻ります。
引き続きお付き合いいただけたら嬉しいです。




