転生して聖女になりましたが、前世の知識を活かして魔王様のサポートをすることになりました
昔、書いてたストックの一つです!
テンポ早めで設定がゆるふわです。
よろしくお願いします!
「……ここが、魔王城」
勇者であるアルフレッドさんが、ゴクリと喉を鳴らした。
目の前には、天を衝くほどの禍々しい漆黒の城。常に紫色の稲妻が走り、ヤバそうな魔力が渦を巻いているのが、遠目にもはっきり分かる。
世界を恐怖のどん底に突き落とした魔王ゼオンの居城。
長かった旅も、ようやくここで終わりだ。
「聖女様、ご準備はよろしいですか。ここからは何が起こるか分かりません。どうか我々の後ろに」
パーティーのリーダーであるアルフレッドさんが、私を気遣って声を掛けてくれる。
彼の言葉に頷きつつ、私の思考は全然別の方向を向いていた。
(うわぁ……。すごいわね。城越しに感じるこの負のオーラ、魔王はどんだけ精神的にきてるのよ。セルフネグレクトの可能性も視野に入れるべきかも)
そう、聖女と呼ばれた私、ローラは転生者だ。
前世じゃソーシャルワーカーとして、いわゆる「支援が必要な人」のために走り回る毎日だった。それが過労でポックリ死んだと思ったら、まさかの異世界転生。しかも公爵令嬢。
そこまでは良かったのに、なぜか「百年ぶりの聖女」とかいうレアキャラに認定されて、こうして魔王討伐の旅に引っ張り出されることになったのだ。
「ローラ、恐れることはない。君の聖なる光があれば、魔王の闇など敵ではない」
クールな魔法使いのレオンさんが言う。
「そうだぜ! 俺のこの斧で、魔王のどてっぱらに風穴開けてやんよ!」
相変わらず脳筋な戦士のガレスさんが吠える。
仲間たちは頼もしい。でも、私の役割はあくまで後方支援。みんなが怪我したら癒しの魔法をかける、ただそれだけ。
前世で身につけた傾聴、共感、問題分析……なんていう専門スキルが、この脳筋パーティーで役立つ場面は、残念ながらこれっぽっちもなかった。
重々しい城門を聖剣の力でこじ開け、私達はついに城内へと足を踏み入れた。
「な……誰もいないのか?」
城内は不気味なほど静かだった。あれだけの魔力を垂れ流しているのに、魔物一匹すらいない。
私達は最大限に警戒しながら、玉座の間に向かってだだっ広いホールを進んだ。
そして、巨大な扉を開け放った先で、私達はあまりにも予想外の光景を目にする。
がらんとした玉座の間。魔王がいるべき玉座は空っぽ。代わりに、その奥にあるガラス張りの庭園に、一人の青年がぽつんといた。
月明かりみたいな銀色の髪に、血のように赤い瞳。ビックリするほど綺麗な顔立ちの彼は、黒いシンプルな服を着て、黙々と小さな花に水をやっている。
どう見ても、世界征服を企むラスボスには見えない。
「な、何者だ貴様! 魔王ゼオンはどこにいる!」
アルフレッドさんが剣を抜き放ち、青年へと怒鳴りつけた。
その声に、青年はビクッと大げさに肩を震わせ、驚いた顔でこちらを振り向く。そして、私達の姿を認めると、パッと手に持っていたじょうろを背中に隠し、怯えるように後ずさった。
「……」
青年は何も答えない。ただ、その赤い瞳が不安そうに揺れている。
これから世界を賭けて戦います、みたいな雰囲気はゼロだった。
(……あれ? この感じ、知ってる)
その姿を見て、ふと前世の記憶がフラッシュバックする。何年も部屋に引きこもり、誰とも話せなくなってしまった青年。社会との繋がりを絶たれ、ただ怯えていた彼の姿が、目の前の彼に重なって見えた。
私は、仲間たちを手で止め、一歩前に出た。
「あの、こんにちは。私、ローラと申します。あなたのお名前、教えていただけますか?」
出来るだけ優しい声で、圧をかけないように。支援の第一歩は、信頼関係づくりからだ。
青年は私の問いかけに戸惑い、視線をあちこちに彷徨わせた後、ぼそりと呟いた。
「……ゼオン」
「ゼオンさん、ですね。お花、お好きなんですか? とても綺麗に咲いていますね」
私がそう言うと、ゼオン君は少しだけ目を見開いた。彼の庭には、見たこともないような美しい花々が咲き乱れている。
「……別に。勝手に咲くだけだ」
「ふふっ、それでも、毎日お世話しないとこんなに綺麗には咲きませんよ」
少しだけ、場の空気が和んだ。
……と思ったのに、そんな雰囲気をぶち壊したのは、やっぱり勇者様だった。
「何を呑気な話をしているんだ、聖女様! そいつが魔王ゼオンだ! 世界を混乱に陥れた張本人だぞ!」
アルフレッドさんの言葉に、ゼオン君の表情がまた強張る。
私は慌てて振り返った。
「アルフレッドさん、ちょっと黙っててください。今、インテーク面談中なんです」
「い、いんてーく……?」
「初回面談です! クライアントの情報を正確に把握しないと、適切な支援計画は立てられません!」
専門用語が通じるはずもなく、勇者一行は完全に思考停止している。
今のうちに、と私はゼオンへと向き直った。
「ゼオンさん。いくつか質問しても良いですか? みんな、あなたのせいで世界が大変なことになってるって言ってるんです。魔物を生み出したり、天変地異を起こしたり……何か、心当たりはありますか?」
私の問いに、ゼオンは気まずそうに顔を伏せた。
「……知らん。魔物は、俺が寂しいと思うと、勝手に生まれる」
「寂しいと……」
「天気も……気分が落ち込むと、荒れる気は、する」
「気分が落ち込むと」
「人間が、俺のせいで困ってるのは、知ってる……。でも、どうすればいいか、分からない……。外に出ると、みんな俺を見て叫ぶし、石を投げてくる……」
途切れ途切れの言葉。
それは、あまりにも切実な心の叫びだった。
強大すぎる魔力。本人に悪気はないのに、感情のアップダウンに連動して、周りにめちゃくちゃな被害を出してしまう。
人々は彼を怖がって避け、彼はそれに傷ついて心を閉ざし、一人でこの城に引きこもるしかなくなった。
その孤独が、さらに魔物を生み出すという最悪の悪循環。
……うん、確定だ。
「この人、邪悪な魔王なんかじゃない……! コミュ障こじらせて、魔力コントロールに課題を抱えた、単なる社会的孤立状態にある青年だわ!」
……ダメだ。こういう人、放っておけない。
前世で燃え尽きたはずのソーシャルワーカー魂に、ボッと火がついてしまった。
「聖女様!? 急にどうしたんですか!」
「決まりました。皆さん、魔王討伐は今日限りで解散です!」
「「「はぁぁぁ!?」」」
仲間たちの驚きの声をBGMに、私はゼオンへと向き直り、最高の笑顔で宣言した。
「ゼオンさん! 私が、あなたの社会復帰を、全面的にバックアップします!」
「……しゃかい、ふっき」
「はい! まずは基本的なコミュ力アップ訓練と、魔力のアンガーマネジメントから! 目標は、人間社会で普通に暮らせるようになることです!」
私は懐から、魔王討伐の旅程表だった羊皮紙を取り出し、その裏にサラサラとペンを走らせる。
【魔王ゼオン様 社会復帰支援プラン(案)】
第一段階:信頼関係の構築と基本的生活習慣の確立
・挨拶の練習(おはよう、ありがとう、ごめんなさいは基本!)
・昼夜逆転生活の改善(朝はちゃんと起きる!)
第二段階:魔力コントロール訓練
・自分の感情と魔力暴発のパターンを知る
・魔力を安定させるリラックス法を見つける(趣味のガーデニングを応用)
第三段階:対人コミュニケーション能力の向上
・ロールプレイングで会話練習
・人間諸国への謝罪ツアー(これは要相談)
「聖女様、何を書いているんですか!?」
「プランですよ、プラン! 支援は計画的に、根拠を持って進めないと!」
「だから、なんで魔王を支援する話になってるんですか!」
「うるさいですね! 支援対象の前で騒がないでください! プライバシーへの配慮が欠けてますよ!」
私がビシッと言い放つと、アルフレッドさんは「ぷらいばしー……」と怯んだ。
「というわけで、あなた達は今日からお役御免です。支援の邪魔なので、一旦お城から出ていってください」
「ええっ!?」
私は両手に聖なる力を集め、困惑している勇者一行に、高らかに詠唱した。
「聖なる光よ! 彼らを町の宿屋まで強制送還しなさーい!」
「うわあああああ!? 何をするんですか聖女様ーーーっ!」
眩い光が仲間たちを包み込み、次の瞬間、彼らの姿は城から綺麗さっぱり消えていた。
ふぅ、と一息。これで支援に集中できる環境が整った。
がらんとした玉座の間に残されたのは、私と、目の前の急展開についていけず、呆然と立ち尽くす魔王様だけ。
私は彼に向かって、にっこりと微笑んだ。
「さて、ゼオンさん。これからよろしくお願いしますね。まずは、自己紹介の練習から始めましょうか」
こうして、聖女による魔王様の社会復帰支援プロジェクトが、静かに幕を開けたのだった。
―・―・―
勇者一行を強制送還し、がらんとした玉座の間に残されたのは、私と魔王様ことゼオンさん、二人だけ。
彼はまだ状況が飲み込めていないのか、綺麗な顔を困惑に染めて、ただ立ち尽くしている。
(うん、まずは安心できる環境づくりからね)
いきなり「社会復帰するぞ!」なんて意気込んでも、相手が心を開いてくれなきゃ始まらない。支援の基本は、あくまで本人の意思を尊重することだ。……まあ、今回は本人の意思を確認する前に勇者たちを追い出しちゃったけど、これは緊急避難ということで。
「さて、ゼオンさん。これからよろしくお願いしますね。まずは、自己紹介の練習から始めましょうか」
私がにっこり笑いかけると、ゼオンさんはビクッと肩を揺らし、警戒心を隠そうともしない。赤い瞳が私をじっと見つめている。
「……お前は、何なんだ」
「私はローラ。ご覧の通り、聖女です。そして今日から、あなたの担当ソーシャルワーカーになりました」
「そーしゃる……わーかー……?」
「はい。あなたの自立した生活をサポートするのがお仕事です。もちろん、費用は請求しませんのでご安心を」
前世の癖でついスラスラと説明してしまったけど、案の定、ゼオンさんは全くピンと来ていない顔をしている。まあ、そうよね。
「ええと、つまり……私はあなたの敵じゃないってことです。あなたに、もっと楽しく生きてほしいなって思ってる、ただの人間です」
少し言葉を噛み砕いて伝えると、ゼオンさんの表情がわずかに揺れた。
警戒心はまだ解けていないけど、少なくとも敵意がないことは伝わったみたい。よしよし、いい感じだ。
「では、早速ですがプランの第一段階、始めますよ! まずは基本の挨拶からです! はい、私の後に続いて言ってみてください。『こんにちは』」
「……」
「ゼオンさん?」
「……ことわる」
「えっ」
まさかの開始三分での支援拒否。
ソーシャルワーカー人生(前世含む)でぶち当たった、最速の壁だった。
「な、なんでですか? 挨拶はコミュニケーションの第一歩ですよ?」
「……お前とは、こみゅにけーしょん、したくない」
「ぐっ……!」
正論。あまりにも正論で心が痛い。
確かに私は、彼の家に土足で踏み込んできた侵入者だ。いきなり「支援します!」とか言われても、普通に考えて怪しさしかない。
(焦っちゃダメだ、ローラ! クライアントの拒否的な態度は、不安の裏返し! ここはじっくり関係を築かないと……!)
「分かりました。挨拶の練習は、もう少し私達が仲良くなってからにしましょう。……ところで、ゼオンさん、お腹空きませんか? もうお昼の時間ですけど」
私は作戦を変更し、彼の生活面にアプローチすることにした。
生理的欲求は、人間の基本中の基本。まずは生活リズムを整えるところからだ。
私の問いに、ゼオンさんは少し考え込むような素振りを見せた後、こくりと小さく頷いた。
「……キッチンは、こっちだ」
そう言って、彼は静かに歩き出す。
魔王城にキッチンあるんだ!?というツッコミは決してしない。私は「よし!」と心の中でガッツポーズをして、彼の後をついていった。
案内されたキッチンは、広くて立派な設備が整っているのに、驚くほど閑散としていた。
調理器具にはうっすらと埃が積もり、食材も見当たらない。ここで何年も料理がされていないことが一目で分かった。
「いつも食事はどうしてるんですか?」
「……腹は、減らない」
「えっ、でもさっき頷きませんでした?」
「……お前が、腹が減ってるんじゃないのか、と」
ああ、なるほど。私のことを気遣ってくれたのか。
引きこもりでコミュ障だけど、根は優しいのかもしれない。
「ありがとうございます。でも、食事はちゃんと摂らないとダメですよ。身体だけじゃなく、心の栄養にもなるんですから。……よし!」
私は腕まくりをすると、聖女の務めも忘れてキッチンの掃除を始めた。
まずは環境整備からだ。幸い、水だけは魔力でいくらでも出せるらしい。
「何か食べたいものとかありますか?」
「……」
「好き嫌いは?」
「……」
私の問いに、ゼオンさんはふるふると首を横に振るだけ。
どうやら「食」というものに、ほとんど興味がないらしい。これも長年の社会的孤立が影響しているんだろう。
(となれば、まずは食べやすいものから……)
幸い、私の聖女としての荷物の中には、旅の非常食がたくさん入っている。
その中からスープの素と干し野菜、パンを取り出した。
掃除を終えたキッチンで、手際よくお湯を沸かし、野菜スープを作る。
前世では料理をする時間なんてほとんどなかったけど、今世の冒険の中で嫌というほど作ってきたからこれくらいはできる。
やがて、キッチンにコトコトと温かい音が響き、優しいコンソメの香りが立ち込めた。その匂いに、ゼオンさんがくん、と鼻を動かす。
「はい、できましたよ。熱いので気をつけてくださいね」
テーブルにスープとパンを並べると、ゼオンさんは戸惑ったように、それと私を交互に見た。
「……毒は?」
「入ってません」
「……食べたら、腹が痛くならないか」
「なりません。むしろ元気になります」
彼はまだ疑っているようだったけど、やがておずおずとスプーンを手に取った。
そして、ほんの少しだけスープをすくい、恐る恐る口に運ぶ。
その瞬間、ゼオンさんの赤い瞳が、まん丸に見開かれた。
「……」
彼は何も言わない。言わないけど、その表情が全てを物語っていた。
よほど美味しかったのか、それとも温かいものを口にしたのが久しぶりだったのか、ゼオンさんはそこから無言で、夢中になってスープを飲み干し、パンを平らげた。
空になったお皿を前に、彼はぽつりと呟く。
「……うまい」
「ふふっ、お粗末様です」
「……おかわりは」
「もちろん、ありますよ!」
結局、ゼオンさんはスープを三杯もおかわりした。
「お腹は減らない」なんて言っていたのは、ただ単に「空腹」という感覚を忘れてしまっていただけなのかもしれない。
食事が終わると、ゼオンさんの表情は、城に来た時よりもずっと穏やかになっていた。
やっぱり、温かい食事は偉大だ。
「ごちそうさまでした、はちゃんと言えましたね」
「……?」
「いえ、なんでもないです。さて、それじゃあ次は、あなたのお部屋を見せてもらってもいいですか? 生活環境のアセスメントも重要なので」
私がそう言うと、ゼオンさんは今度は拒否することなく、素直に頷いてくれた。
少しだけ、彼との距離が縮まった気がした。
案内された彼の寝室は、これまた衝撃的な場所だった。天蓋付きの豪華なベッドがあるのに、彼はそこで寝ていない。部屋の隅で、マントにくるまって眠っているらしい。床には、読みかけの本が何冊も散らばっていた。
「どうしてベッドで寝ないんですか?」
「……落ち着かない」
「そうですか……。あと、このお部屋、少し空気が悪いですね。窓を開けて換気しましょう」
「ダメだ」
私が窓に近づこうとすると、ゼオンさんが強い口調で制止した。
「……窓を、開けるな。光が、入る」
「お日様の光を浴びないと、不健康になりますよ?」
「……光は、嫌いだ。俺みたいな、闇の生き物には……」
彼は自嘲するように、そう呟いた。
魔王だから、闇の存在だから、光を浴びる資格なんてない。そう思い込んでいるんだ。
これもまた、彼が長年一人で抱え込んできた、歪んだ自己認識の一つだった。
「そんなことありません」
私はきっぱりと首を横に振った。
「ゼオンさん、あなたの庭の花、どうしてあんなに綺麗に咲くか知ってますか? あなたが毎日お水をあげてるから? それも大事ですけど、一番大事なのは、お日様の光ですよ」
「……!」
「あなたが大切に育てているあの子達は、みんな光が大好きなんです。あなただって、本当は光が好きなはずです。だって、あんなに優しいお花を育てられるんですから」
私の言葉に、ゼオンさんはハッとしたように目を見開いた。
彼は何も言えずに、ただ俯いてしまう。
(よし、もう少しだわ)
私は彼の前にしゃがみこみ、その赤い瞳をまっすぐに見つめた。
「大丈夫。あなたは闇の生き物なんかじゃありません。少しだけ、人付き合いが苦手なだけ。これから一緒に、ゆっくり練習していきましょう?」
「……」
「ね?」
長い、長い沈黙。
やがて、ゼオンさんは顔を上げると、消え入りそうな声で、こう言った。
「……ありがとう」
それは、想像してなかった言葉。
でも、私が一番聞きたかった言葉だった。
「どういたしまして」
私は満面の笑みでそう答えた。
聖女と魔王の、ちぐはぐな共同生活。
その一日目は、温かいスープの香りと、小さな感謝の言葉と共に、静かに幕を閉じたのだった。
―・―・―
温かいスープと小さな「ありがとう」で、私とゼオンさんの奇妙な共同生活一日目は幕を閉じた。
そして二日目の朝。私はソーシャルワーカーとして(今は聖女だけど)、新たな課題に直面していた。
「ゼオンさーん、朝ですよー! 起きてくださーい!」
寝室の扉をノックするも、中からの返事はない。
まあ、想定内だ。長年の引きこもり生活で、昼夜逆転している可能性は非常に高い。
「失礼しますねー」
そっと扉を開けると、部屋の主は昨日と同じように、部屋の隅でマントにくるまって丸くなっていた。豪華な天蓋付きベッドが泣いている。
「ゼオンさん、朝です。まずはカーテンを開けて、朝日を浴びましょう」
「……むり」
「無理じゃないです。昨日のお約束、覚えてますか? 少しずつ、練習するんです」
「……光は、まだ……」
もぞもぞとマントの中からくぐもった声が聞こえる。
彼の「光が嫌い」という思い込みは、かなり根深い。これを解決するには、成功体験を積み重ねてもらうのが一番だ。
「分かりました。じゃあ、いきなり全部開けるのはやめましょう。ほんの少し、指一本分だけ。それならできそうじゃないですか?」
「……ゆび、いっぽん」
「はい。それだけで、お部屋の空気もずっと良くなりますよ」
私は彼のそばにしゃがみこみ、できるだけ優しく語りかけた。
こういう時、無理強いは絶対ダメ。「あなたならできる」と信じて、本人が一歩踏み出すのを待つのが大事なのだ。
しばらくマントの中で葛藤していたゼオンさんだったけど、やがておずおずと起き上がり、重い足取りで窓へと向かった。そして、分厚いカーテンの端を、本当に指一本分だけ、そっと開ける。
チリチリと、細い一本の光が床に差し込んだ。
その光の中でキラキラと舞う埃を見て、ゼオンさんの赤い瞳が少しだけ見開かれる。
「……できた」
「はい、できましたね! すごいじゃないですか、ゼオンさん! 大きな一歩ですよ!」
私が手放しで褒めると、彼はなんだか気恥ずかしいのか、ぷいっと顔をそむけてしまった。でも、その耳がほんのり赤い。
可愛いところあるじゃないの。
朝食の席で、私はすかさず次の課題を出した。
「さて、ゼオンさん。ご飯を食べる前に、大切なことがあります。朝の挨拶、ですよ! はい、『おはようございます』」
「……」
「昨日よりは、少しだけ私に慣れてくれましたよね?」
「……ぅ」
ゼオンさんは、パンを睨みつけたまま、小さな、本当に蚊の鳴くような声で呟いた。
「……ぉ、はよう」
「はい、よくできました! おはようございます、ゼオンさん!」
やった! プラン第一段階「挨拶」達成だ!
支援計画は順調に進んでいる。
この調子なら、彼の社会復帰(本当は心優しいことを世界に知ってもらう)も夢じゃない。
朝食後、私達はゼオンさんお気に入りの庭園に来ていた。
プラン第二段階、「魔力コントロール訓練」を開始するためだ。
「あなたの魔力は、あなたの感情と繋がってるんですよね?」
「……たぶん」
「だったら、自分の感情をコントロールできれば、魔力もコントロールできるはずです。その練習にこのお庭はピッタリなんですよ」
私は一輪の青い花を指さした。
「例えば、このお花。ゼオンさんが嬉しいとか、楽しいとか、穏やかな気持ちでいると、いつもより綺麗に咲いたりしませんか?」
「……言われてみれば、そう、かも」
「逆に、悲しいとか、寂しい気持ちになると、元気がなくなったり?」
「……ああ」
やっぱり。彼の魔力は、彼の優しい心と直結しているんだ。
だったら、やるべきことは一つ。
「これからは、意識してみましょう。自分が今、どんな気持ちなのか。そして、その気持ちがお花や周りにどんな影響を与えているのか。それを知ることが、コントロールの第一歩です」
私は彼の隣に座り、庭の花々を眺めた。
「まずは、楽しい気持ちになる練習です。何か、考えていてワクワクすることとかありますか?」
「……わくわく」
「はい。例えば、今日のスープは何かな、とか」
「……今日のスープ」
ゼオンさんがぽつりと呟いた瞬間、足元の名もなき草花が、ふわりと淡い光を放って一斉に花を咲かせた。
「わっ! すごい!」
「……!」
ゼオンさん自身が一番驚いている。
彼は自分の両手と、咲き誇る花々を交互に見つめて、目をぱちくりさせていた。
「すごいじゃないですか、ゼオンさん! 今、楽しいって思いましたね?」
「……スープのこと、考えただけだ」
「それが大事なんです! ほら、やればできるじゃないですか!」
私が彼の背中をバンと叩くと、ゼオンさんは「ひゃっ」と小さな悲鳴を上げた。
と、その瞬間。
ドドドドォォォン!!!
背後で、城の壁が爆発四散する轟音が響き渡った。
「な、何事!?」
振り返ると、派手にぶち抜かれた壁の穴から、見慣れた顔ぶれがなだれ込んでくるところだった。
「聖女様、ご無事ですか! 魔王の姦計に堕ちたものと、心配しておりましたぞ!」
息巻いているのは、勇者であるアルフレッドさん。その後ろには、レオンさんとガレスさんもいる。
どうやら、私の強制送還魔法が解けて、慌てて戻ってきたらしい。……壁、壊さなくても良くない?
彼らは、庭園でお茶を片手に和んでいる私と、その隣で怯えきって固まっているゼオンさんの姿を見て、目を点にした。
「な……何を、しているんだ……? 聖女様と魔王が、お茶会……?」
「そうだ! きっと魔王の使う幻術だ! 目を覚ませ聖女様、今すぐお助けします!」
アルフレッドさんが聖剣を抜き放ち、こちらに突進してくる。
それを見たゼオンさんの身体から、ぶわりと紫色の魔力が溢れ出し、庭の植物たちがみるみるうちに枯れていく。
(まずい! 恐怖で魔力が暴走しかけてる!)
私は立ち上がると、ゼオンさんの前に立ちふさがり、勇者に向かって叫んだ。
「ストォォォップ!! 静かにしてください!!」
「し、しかし聖女様!」
「今、ゼオンさんはアンガーマネジメントの訓練中なんです! あなた達みたいな外的要因による強いストレスを与えると、これまでのセラピーが全部台無しになるでしょう!?」
「あんがー……? せらぴー……?」
またしても、私の専門用語が彼らの思考をフリーズさせる。
「いいですか、今のゼオンさんは非常にデリケートな状態なんです。大きな声を出したり、武器を向けたりするのは厳禁! アポイントメントなしで乗り込んでくるなんて、プライバシーの侵害ですよ!」
「ぷ、ぷらいばしー……」
「とにかく、お話ならあちらで伺いますから! ゼオンさん、あなたは大丈夫。深呼吸して、さっきのお花の綺麗な色を思い出して……」
私はゼオンさんを落ち着かせつつ、アルフレッドさんたちを庭園の隅へと誘導する。
「それで、一体どういうことなんです、聖女様! なぜ魔王を庇うような真似を……」
「庇ってるんじゃありません、支援してるんです。彼は魔王である前に、一人の悩める青年なんです。私達がすべきは討伐(排除)じゃなくて、更生なんですよ」
私の熱弁に、勇者一行はただただ困惑するばかり。
まあ、無理もない。彼らにとっては、世界の平和を賭けた最終決戦のつもりだったんだから。
「もう! 今日はせっかくプランが順調に進んでたのに! あなた達のせいで台無しです! お帰りください!」
「そ、そんなこと言われましても……」
「聖なる光よ! 再び彼らを町の宿屋のベッドの上まで強制送還しなさーい!」
「うわあああああ!? しかも今度はベッドの上指定ーーーっ!」
再び、けたたましい悲鳴を残し勇者一行は光の彼方へと消えていった。
まったく、騒がしい人たちだ。今度来たら、きっちり相談料を請求してやろう。
ふぅ、と息を吐いて振り返ると、ゼオンさんが呆然とした顔で、こちらを見ていた。
さっきまで溢れていた禍々しい魔力は、すっかり消えている。
「大丈夫でしたか、ゼオンさん? 怖かったですよね」
「……お前」
「はい?」
「……なんで、俺を」
彼の赤い瞳が、不思議そうに私を映している。
なんで、俺を助けるんだ? 守るんだ? と、そう言いたいのだろう。
私は彼に向かって、にっこりと微笑んだ。
「言ったでしょう? 私は、あなたの担当ソーシャルワーカーですから。クライアントを守るのは、当然の仕事ですよ」
その答えが正解だったのかは分からない。
でも、ゼオンさんはそれ以上何も言わず、ただ静かに、枯れてしまった花へと視線を落とした。
その横顔が、ほんの少しだけ、寂しそうに見えたのは、きっと気のせいではないだろう。
―・―・―
勇者一行の乱入というハプニングはあったものの、ゼオンさんの魔力コントロール訓練は、確かな一歩を踏み出した。
あれ以来、彼は庭の花を眺めながら、自分の気持ちと向き合う練習を続けている。嬉しい時は花が咲き、少し悲しい時は葉がしょんぼりする。その変化を客観的に見ることで、彼は自分の感情を少しずつ理解し始めているようだった。
「うんうん、いい感じですね。プラン第二段階は順調です」
私は支援計画書に花丸をつけながら、満足げに頷いた。
そして、いよいよ次のステップに進む時が来た。
「ゼオンさん。次はプラン第三段階、『対人コミュニケーション能力の向上』に移りたいと思います!」
「……たいじん」
「はい。つまり、私以外の人と、ちゃんとお話できるようになるための練習です」
私の宣言に、ゼオンさんの顔がサッと曇った。
まあ、無理もない。彼にとって「他人」とは、自分を化け物扱いし、勝手に魔王と名付けて殺しに来るような恐怖の対象でしかないのだから。
「大丈夫です。いきなり外に出たりはしません。まずはこのお城の中で、練習をしてみましょう。ロールプレイング、というものです」
「……ろーるぷれいんぐ」
「はい。私がお店の人とか、村の人になって、ゼオンさんはお客さんになって話しかける練習をするんです。失敗しても大丈夫ですからね」
私は玉座の間を「練習場所」に設定し、さっそく準備を始めた。おっと、その前にこの世界の買い物の仕組みを教えないと。
私は、ゼオンさんに一通りこの世界のことを話した後、さっそく行動に移した。玉座をカウンターに見立てて、私はエプロン代わりにハンカチを腰に巻く。
「へい、いらっしゃい! 威勢のいい八百屋のローラだよ! 新鮮な野菜、見てってよ!」
「……」
ノリノリで店主役を演じる私を、ゼオンさんはめちゃくちゃ引いた目で見ている。心が折れそうだ。
「い、いいから、ほら、こっちに来て! 例えば、リンゴが一個欲しい時は、なんて言えばいいでしょう?」
「……」
「『すみません、このリンゴを一つください』ですよ! はい、言ってみましょう!」
私はそこらへんにあった装飾用の水晶玉をリンゴに見立てて、彼に促した。
ゼオンさんはしばらくモジモジしていたが、やがて意を決したように、カウンター(玉座)に近づいてきた。
「……あの」
「はい、いらっしゃい!」
「……り、りんご……」
「声が小さいなぁ! お客さん、もっとお腹から声出さないと聞こえないよ!」
「……っ!」
私がわざと威勢よく返すと、ゼオンさんはビクッとして、また黙り込んでしまった。
しまった、ちょっとプレッシャーをかけすぎた。
「ご、ごめんなさい。今の意地悪でしたね。大丈夫、あなたのペースでいいんですよ。もう一回、ゆっくりやってみましょう」
私は反省し、今度は優しいパン屋のお姉さん役に切り替えた。
「こんにちは、お客様。何かお探しですか?」
「……」
「ふふ、緊張しなくて大丈夫ですよ。まずは、欲しいものを指差すところから始めてみましょうか」
私が優しく微笑みかけると、ゼオンさんは少しだけ安心したのか、おずおずと水晶玉を指差した。
「……これ」
「はい、リンゴ(仮)ですね。お一つでよろしいですか?」
「……うん」
「ありがとうございます。じゃあ、お金をくださいな」
ゼオンさんはキョトンとした顔で私を見る。
そっか、彼はお金なんて使ったことがないんだ。お金の存在までは伝えてなかった。
「……お金がないなら、何か素敵な言葉をくれたらサービスしちゃいます」
「……すてきな、ことば」
私の無茶振りに、ゼオンさんは真剣に悩み始めた。
そして、長い長い沈黙の後、彼は私の目をまっすぐに見て、こう言った。
「……いつも、ありがとう。ローラ」
その言葉は、練習なんかじゃなかった。
彼の心からの言葉のように聞こえた。
「……っ!」
不意打ちだった。
まさかここで、素直な感謝の言葉が返ってくるとは思わなくて。私の心臓が、ドキッと大きく跳ねた。
「ど、どういたしまして……! はい、リンゴ、サービスです!」
私が慌てて水晶玉を手渡した、その瞬間だった。
ゼオンさんの手が触れた水晶玉が、ふわりと柔らかな光を放つ。
光が収まった時、私の手にあったのは、冷たい水晶玉ではなかった。
「……え?」
それは、磨き上げられたルビーのように艶やかで、甘い香りを放つ、本物のリンゴだった。
ゼオンさんの魔力が、彼の純粋な感謝の気持ちに応えて、無機質な水晶を、生命力に満ちた果実へと変えてしまったのだ。
「すごい……」
私は思わず、そのリンゴに見入ってしまった。
彼の魔力は、何かを壊したり、枯らしたりするだけじゃない。こんなにも温かくて、優しい奇跡を起こせるんだ。
「……すまん。また、勝手に……」
ゼオンさんは、自分が何か失敗をしでかしたと思い、しょんぼりと俯いてしまう。
そんな彼を見て、私はたまらなくなった。
私は彼の手をぎゅっと握ると、満面の笑みで言った。
「ううん、違う! 全然違うよ、ゼオンさん! これは失敗なんかじゃない、大成功だよ! あなたの魔力は、あなたの心と同じで、とっても優しいんだって、証明されたじゃない!」
「……おれの、魔力が」
「そうだよ! すごいよ、ゼオンさん! 私、あなたのこと、ちょっと尊敬しちゃったかも!」
私の言葉に、ゼオンさんは驚いたように顔を上げた。
彼の赤い瞳が、目の前の私を、ただじっと見つめている。
その真剣な眼差しに、今度は私の顔がカッと熱くなった。
(……あれ? なんだろ、今の)
今まで彼のこと、ずっと「支援対象」として見てきたはずなのに。
今、この瞬間、ただの「ゼオンさん」という一人の男性として意識してしまっている自分がいた。
「……ローラ」
「は、はい!」
「……そのリンゴ、お前が食べろ」
「えっ、いいの?」
「……俺からの、感謝の気持ちだ」
そう言って、彼は少しだけ、本当に少しだけ、はにかむように笑った。
その笑顔を見た瞬間、私の心臓がいつもより跳ねた気がした。
(え、なんで私こんなにドキドキしてるんだろう…。もしかして……)
聖女として、ソーシャルワーカーとして、あるまじき感情。
でも、一度芽生えてしまったこの気持ちは、もう簡単には消せそうになかった。
リンゴを一口かじると、今まで食べたどんな果物よりも甘くて、優しい味がした。
それはきっと、この不器用な魔王様の、初めての「ありがとう」の味だった。
「……ゼオンさん」
「……なんだ」
「次のステップに、進んでみませんか?」
「……次の、すてっぷ」
私は、彼の瞳をまっすぐに見つめ返して、宣言した。
「次は、実践です。人間の村に、二人で行ってみませんか?」
私の提案に、ゼオンさんは息を呑んだ。
彼の社会復帰計画は、今、大きな岐路に立たされている。
そして、私の気持ちも。
これはもう、ただの支援計画なんかじゃ、なくなっていた。
私の爆弾発言に、ゼオンさんは案の定、石のように固まった。
彼の赤い瞳が、恐怖と戸惑いで大きく揺れている。
「……むりだ」
「どうしてです? あれだけ練習したじゃないですか」
「……俺は、魔王なんて呼ばれてるやつだぞ。人間は、俺を怖がる。殺そうとする」
ぽつり、ぽつりと呟かれる言葉は、彼がこれまで受けてきた仕打ちそのものだった。
彼の心に深く刻まれたトラウマは、そう簡単には消えない。
「大丈夫です」
私は彼の手を、今度はもっと強く、両手で包み込んだ。
「私がついてます。もし攻撃されたら、私の聖魔法で全部弾き返します。もし酷いことを言われたら、私が代わりに言い返します。だから、信じてみませんか? ……私と、あなた自身を」
私の言葉に、ゼオンさんは唇をきつく結んだまま、俯いてしまう。
長い、長い沈黙が流れた。
私は、彼の答えをただ静かに待った。
やがて、彼は顔を上げ、震える声で、こう言った。
「……信じる」
その一言を聞いて、私は心の底から「よし!」とガッツポーズをした。
決行は翌日。
私達は念入りに準備をした。
といっても、やったことは一つだけ。
ゼオンさんに、顔がすっぽり隠れるくらい深いフードのついた、地味な色のマントを着てもらうこと。変装というより、彼の不安を少しでも和らげるための「お守り」だ。
「いいですか、ゼオンさん。困ったことがあったら、すぐに私の服の袖を掴んでください。それが合図です。すぐに帰りましょう」
「……ああ」
「まずは、村の入り口にある市場を少しだけ見て、すぐに帰ってくる。それだけで、今日の目標は達成です」
「……分かった」
頷きながらも、マントの袖を握りしめる彼の指先は、小刻みに震えていた。
その手を、私がそっと握る。
「行きましょう」
私の転移魔法で、私達は一瞬にして魔王城から村の入り口近くの森へと移動した。
村の喧騒が、ここまで聞こえてくる。
「……すごい、音だ」
「ふふ、賑やかでしょう? さあ、もう少しですよ」
手を繋いだまま、私達は森を抜け、村の市場へと足を踏み入れた。
そこは、活気に満ち溢れていた。
パンの焼ける香ばしい匂い。野菜を売る威勢のいい声。走り回る子供達の笑い声。
ゼオンさんは、生まれて初めて触れる人間の世界の熱量に、完全に気圧されている。フードの下で、息を呑んでいるのが分かった。
「だ、大丈夫ですか?」
「……頭が、くらくらする」
「ですよね……。じゃあ、あそこのお花屋さんで、何か一つだけ買ったら、すぐに帰りましょう」
私は一番静かそうな店を指差した。
花屋の店先には、色とりどりの花が並んでいる。ゼオンさんが好きそうだと思ったからだ。
私達が店に近づくと、人の良さそうなおばあさんが「あら、いらっしゃい」と微笑みかけてきた。
ゼオンさんの身体が、ビクッと強張る。
「こんにちは。綺麗な花ですね」
「ありがとうねぇ。若いのに花が好きなのかい?」
「はい。……ね、ゼオンさん。あなたの庭に合いそうな花、ありますか?」
私が話を振ると、ゼオンさんは俯いたまま、店の隅に置かれていた小さな鉢植えを、おずおずと指差した。それは、太陽の光を浴びてキラキラと輝く、小さな白い花だった。
「あら、目が高いね。それは、昨日入荷したばかりの『陽だまりのしずく』っていうんだよ」
「素敵な名前ですね。……ゼオンさん、自分で言ってみませんか? 『これをください』って」
私の言葉に、ゼオンさんはフルフルと首を横に振る。
その時だった。
「きゃああああ!」
市場に、甲高い悲鳴が響き渡った。
見ると、荷馬車から崩れ落ちた大量の木箱が、坂道をものすごい勢いで転がり落ちてくる。その先には――尻餅をついて動けなくなっている、小さな女の子がいた。
「危ない!」
誰もがそう思った瞬間。
私の隣にいたゼオンさんが、動いた。
彼が、女の子の方へスッと手をかざす。
次の瞬間、彼の足元から優しい緑色の光を放つ蔦が、生き物のように伸びていき、女の子の周りを包み込むように、柔らかな壁を作った。
ガッシャァァン!!
蔦の壁に、木箱が激突し、派手な音を立てて砕け散る。
けれど、壁の内側にいた女の子は、怪我一つしていなかった。
市場は、一瞬で静まり返った。
誰もが、何が起きたか分からずに、呆然と立ち尽くしている。
やがて、誰かが呟いた。
「……今の、魔法?」
「……あのマントの男が?」
人々の視線が、一斉にゼオンさんへと突き刺さる。
その中に含まれた恐怖の色に、彼はハッとして、自分の手を見つめた。
「あ……おれは、また……」
――これが魔王の力だ。化け物め。
過去に投げつけられた言葉が、彼の頭をよぎったのだろう。
ゼオンさんの身体から、紫色の禍々しい魔力が溢れ出しそうになる。
(まずい!)
私が彼を連れて逃げようとした、その時だった。
「……お兄ちゃん、ありがとう!」
助けられた女の子が、母親の手を振りほどき、ゼオンさんの元へと駆け寄ってきたのだ。
そして、彼のマントの裾を、小さな手でぎゅっと握った。
「……え?」
ゼオンさんは、信じられないものを見るような目で、その女の子を見下ろした。
女の子は、恐怖など微塵も感じさせない、満開の笑顔を彼に向けている。
「すごい魔法だね! かっこよかった!」
「あ……あ……」
ゼオンさんは、何も言えない。
母親が慌てて駆け寄り、深々と頭を下げた。
「す、すみません! うちの子が……! そして、本当にありがとうございました! あなたがいなければ、この子はどうなっていたか……!」
感謝の言葉。
剣や魔法の攻撃や罵声でもなく、ただ純粋な感謝の言葉が、彼に降り注ぐ。
市場の人々も、目の前で起きた出来事をようやく理解したようだった。
恐怖の色は消え、代わりに驚きと称賛の眼差しが向けられている。
ゼオンさんは、フードの下で、ただ呆然と立ち尽くしていた。
きっと、生まれて初めての経験だったのだろう。
人間に感謝される、なんて。
「……帰りましょうか」
私は彼の袖をそっと引き、その場を離れた。
花屋のおばあさんが、さっき彼が欲しがっていた『陽だまりのしずく』を、「お代はいいから」と持たせてくれた。
帰り道、森の中を二人で黙って歩く。
沈黙を破ったのは、ゼオンさんだった。
「……怖く、なかったのだろうか」
「最初は、みんな驚いていました。でも、ちゃんと見ていたんですよ。あなたが、女の子を助けたのを」
「……」
「かっこよかった、って。私もそう思います」
私の言葉に、彼は足を止めた。
そして、ゆっくりとこちらに振り向くと、自らの手で、深く被っていたフードを外した。
夕日に照らされた彼の顔は、今まで見たどんな表情よりも、穏やかでそして綺麗だった。
「ローラ」
「はい」
「……お前がいたからだ。お前が、俺を信じてくれたから……俺は、あの時、手を伸ばせた」
彼の赤い瞳が、まっすぐに私を射抜く。
「俺は、もう一人じゃない。お前が、俺の世界を変えてくれたんだ」
それは、まるで愛の告白のようだった。
私の心臓が、幸せな音を立てて高鳴る。
「……支援計画、完了ですね」
私がそう言うと、彼はふるふると首を横に振った。
「違う。まだだ」
「え?」
「……最後のプランが、残っている」
そう言うと、彼は私の手を取り、その甲に、そっと口づけを落とした。
「……ローラ。これからも、俺の隣にいてくれないか。そーしゃるわーかー、としてじゃなく……ただの、ローラとして」
不器用だけど、精一杯の彼の言葉。
その言葉を、私がどれだけ待っていたことか。
涙が溢れて、視界が滲む。
でも、目の前の彼の顔だけは、ちゃんとはっきりと見えた。
「はい……喜んで」
私は、最高の笑顔で頷いた。
もう、聖女でも、ソーシャルワーカーでもない。
ただのローラとして、彼の隣で笑っていた。
世界を救うための旅は、こうして終わった。
討伐対象だったはずの魔王様は、私の最高のパートナーになった。
彼の社会復帰計画はまだ始まったばかり。
きっと、これからも色々なことがあるだろう。
でも、大丈夫。
二人一緒なら、きっと乗り越えていける。
だって、私の居場所は、もう彼の隣にあるのだから。
ここまでお読みいただきありがとうございました!
コメディー要素や恋愛要素も少し入れつつ書いてみました!
ちなみにゼオンは元々心優しき魔族でしたが、幼い頃から強大な魔力を持っていたことから同じ魔族に妬まれ嫌われて幼い頃に追放されました。そのあとに物語中に説明もある通り、魔物を勝手に生み出してしまう能力から人間たちにも魔王と恐れられ殺されそうになってしまいました。
そうしたことがあって、心に闇を抱えてしまったという背景があります。
本当にローラに会えて良かったなぁと書いてて思いました…!
よろしければ評価してくださると励みになります!
よろしくお願いします!




