凛子の霊異記【黄泉比良坂奇譚】
湖国の振袖で書きました「凛子の霊異記」の、シリーズとしてその2作目となります。
舗装こそされているが、車がすれ違えるかどうか怪しいほどの細い曲がりくねった山道、しかも深夜の雨中というシチュエーションで三橋達也は焦りを必死で抑えながら車を走らせている。真っ暗な世界がヘッドライトに照らされて、しかし激しく動くワイパーも追いつかない雨足が車の速度を遅くさせてしまう。
どこをどう走っているのか、ナビは道のない山の中に矢印を表示しており、故障なのかそれとも別の要因なのか、達也には判断できなかった。ただ助手席に座る、恋人の結城凛子がずっと押し黙ったままであり、神経を尖らせていることは見なくても感じられる。そしてそれが決して自分に向けられた怒りでないことも感じ取れるところから、今、何らかの「異変」に巻き込まれているのだろうと推測できている。ならば自分のやることは、この危険な道中でできるだけ安全に車を走らせることである。
神隠しが頻回に起こっているという都市伝説を聞き、関わらないようにしようと思っていたのだけれど、職場の同僚の結婚式に出席した帰りに凛子と合流し、小旅行としゃれこんだつもりが、いつの間にか件の神隠し頻発地域に紛れ込んでしまったのは、ナビに頼り切っていた弊害だったのかもしれない。思えば引きづり込まれたのだろう。
車の背後からは、先ほどから見え隠れするように一台の車が追いかけてきている。もうかれこれ1時間にはなるだろうか、一度、引き返してみようと思い車を転回させることができる場所を見つけた時に、後続の「それ」に気が付いたのだ。後続車があるということは道なりに走ればどこかへ出られるのだろう、そう思って前進を始めたのだが、それ以来、その車はずっと同じ距離を保ちつつ付いてきている。向こうもこの雨の中、必死にこの車についてきているのだと、最初はそう思った。しかしどうやらそうでもなさそうなことに気づいたのは、その車をやり過ごそうとわずかに見つけることのできた退避スペースに車を停めてしばらく待ってみた時だ。後続の車の明かりもまたぴたりと停まった。たまたま直線コースであったため、後続車の存在は良く見えたが、たしかにヘッドライトは近づいてくる気配がない。
運転に自信がなく、どうしても前車に付いて走りたいという運転手の心理なのかもしれない。また、必死に運転している車を悪意を持ってからかうように追いかける心理なのかもしれない。しかし、助手席の凛子がポツリと「出して」と言った瞬間、後ろの車のライトが近づき始めたことに達也は気が付く。それも結構なスピードを出しているようだ。
「気を付けて。今度停まったら完全に追いつかれる」凛子の言葉に緊張が含まれていることに気が付く。前方を走る車の様子から道には慣れていないのだろうと、性質の悪い輩であれば、からかったりあるいは暴力的な行為に及ぶつもりかもしれない。達也としては、多少は武道の心得もあるので、凛子を逃がすことくらいはできるかもしれない。しかしそれも相手が少人数だった時のことだ。大人数であればどこまで庇えるだろうか。
ただ凛子の纏う緊張感は、そのような人の悪意といった類のモノとは異質なものであることを示唆している。
ナビの示す通り、道のない山の中の「道」を走っている。ならば後ろの車は、本当に「車」なのか。
車の燃料はまだ余裕がある。イレギュラーがない限り朝まで走り続けることは可能だろう。後ろの「車」はまた少しスピードを緩めたようだ。それでも先ほどよりは確実に距離が縮まっている。しかし夜が明ければ状況に変化が訪れる、根拠はないが達也はそう信じた。
「現時点でなにか心当たりはある?」
達也は凛子に尋ねるが凛子は首を振る。「気が付いたらおかしな気配に纏わりつかれていて、戻ろうと言いかけた時に、達也がUターンしかけたからほっとしたの。そうしたら後ろからアイツか来たのよ」
「ごめん、あの時点で無理にでもUターンしておけば良かった」
「たぶん同じことだったわ。アイツは通せんぼして戻らせてはくれなかったでしょう」
「そうか... アイツって何だろう?」
「わかんない。近づけばなにかわかるかもしれないけれど、ここからじゃね、それも鏡越しだからいまひとつわかんないわ」凛子はバイザーに着いた鏡で後ろを見ながらそう言う。
「近づいてみる?」アクセルを緩めながら達也は聞く。
「やめておいた方が良いわ。今は不用意に近づかない方が... 待って、また近づいてきている!」
達也がルームミラーで確認すると、確かに後続の光がさらに大きくなっているような気がする。思わずアクセルを踏む足に力が入る。「いや...」しかし達也は思い直してアクセルを戻す。この天候と道で制御できる速度を維持することが最優先だ、そう言い聞かせて。
その思いは凛子にも伝わったのだろう。徐々に近づく後続車を鏡越しに凝視しながら、息を整え始めた。「それ」が必要な事態なのか、と達也が考えた時、凛子が右手を出してきた。達也はその手を左手でそっと握る。
突然世界が暗転した。達也にとっては何度経験しても慣れない感覚だが、凛子の手を握っている限り安心であることを経験で知っている。ただ車を運転中であることが気がかりで、戻った時に崖の下というのは勘弁してほしい。「その時はその時よ」凛子の声が聞こえる。視界が開けていく。
逃げる男を追いかけている。
「これは!」凛子が息を飲むのがわかる。これほどの驚愕を凛子が見せるのは初めてだ。しかし前を走る男が何かを投げた時、それが蔓のように伸びたちまち実がなるのを見た時、達也にもある物語がひらめく。「まさか!」
「黄泉比良坂!? そんな!」達也が絞り出すような悲鳴を上げる。凛子が肯定する。「信じられない! この体は「ヨモツシコメ」よ!」
老女のような、しかしそれほど性別などははっきりとはわからない、髪を振り乱したような、あるいはたてがみを持つ怪物なのか、当事者として同化している二人にもその姿は捉えどころがない。しかし、なぜか直観として自分たちが同化しているのが「ヨモツシコメ」であるということは確信が持てる。
「じゃ、あれは伊弉諾?」はるか前方を駆けていく男の後ろ姿を達也は指さす。「神話だろ!?」
しかし、一瞬の間をおいて凛子が叫ぶ「追いかけるのよ! 食べてる場合じゃないでしょっ!」
達也は慌ててヨモツシコメの体から支配権を奪い、駆けだす。神話で語られる通り、山ぶどうを貪り食って追跡の時間をロスしていたヨモツシコメが再び伊弉諾を追いかけ始める。
元々は幽霊などの霊体と視線を合わせることで、相手の過去の意識に同調し、霊の求めていることを把握することで様々な問題の解決を図ってきた凛子だが、ある時を境に、達也に触れたまま、相手の霊体に同調したならば達也もろとも相手の世界へ同調していき、さらに凛子自身驚いたことに、これまではできなかった霊体の過去の行動への干渉が可能になったのだ。これまではただその無念を甘受するしかなかった凛子だが、それは同時に恐ろしい暴力や屈辱をもわが身に降りかかるものとして受け入れざるを得なかった、精神を擦り減らすこの「特技」への「抗う」術として彼女を救うものとなったのである。と同時に、霊体に対してはそれは過去の現実ではなく錯覚であるにしろ、無念を根本から晴らすきっかけとなり、結果的に除霊となることも幾度かあったのだ。そして行動として干渉するときは、運動神経の良い達也に一切を任せ、自分は意思を司るように役割分担を行っている。達也はこれを「どこかの超人ヒーロー」と同じだと喜んでおり、必ず恥ずかしいポーズを取ってから動き出すのが常なのだが、流石に今回はそれどころではないらしく、気が回らないようだ。
「でも追いついて良いのか?」達也は尋ねる。「状況的に追いかけているこっちは、さっきまでの後ろの車で、伊弉諾は俺たちの車だろ? 追いついちゃまずくないか?」
「ここは現実の過去ではないの。ヨモツシコメの思い残した世界なの。満足させることが優先よ」
「そっか、伊弉諾を取り逃がしたヨモツシコメのその後はわからないけれど、無念を引きずったということか。だから現代にいたるまで追いかけていると」
「まあ、はっきりとはわからないけれど、そんなところかもね。古事記や日本書紀の時代なら6世紀から8世紀といったところだけれど、このエピソードは神話の時代だから、現代まで何千年経過した無念なのか、想像したくもないわ」
「そんな桁違いの無念、晴らしても良いのか? 神様相手に干渉するなんて許されるのか?」たとえ無事に現代に戻ってもバチが当たらないのか。達也は心配になった。
「わかんないわよ、ただこの状況から解放されるにはそれしかないじゃない」
「他に手はないか。なら全力で追いかけるぞ」力を入れると驚くほどにヨモツシコメの体は速度を上げて追いかけ始める。「流石は神様 ...だよな、このヨモツシコメさんは」
「そうね、神または怪物のような存在として記録されているわね」
「じゃあ、神様だな」前方を走る伊弉諾の姿が大きくなる。
「次、またなんか投げるんだっけ、確か」「そう、櫛よ。筍になるけど無視してね。食べちゃダメよ」「火を通さない筍は食べない」
案の定、伊弉諾は何かを投げ、それがたちまちに筍になる。しかし、ヨモツシコメはそれを無視して走り続ける。伊弉諾が慌てているのがわかる。
「神話ではヨモツシコメはここの筍で脱落するわ」凛子が指摘する。「だからこの後の桃の実の試練はヨモツシコメにとっては未体験、桃は破邪の実だから当てられたらこの体でもどうなるかはわからないわ。それまでに捕まえるわよ」
なぜか凛子がこの鬼ごっこにノリノリなのが気になった達也はその理由を尋ねようとしたが、とうとう桃の木が見えてきてしまう。「まずい、手を伸ばしてやがる」
伊弉諾が桃の実をもいで投げようとする。達也はとっさにヨモツシコメの体をスライディングさせて投げられた桃を避け、足で伊弉諾を掬い上げる。バランスを崩した伊弉諾はもんどりうって倒れ、それをヨモツシコメがしっかりと抑え込む。
その瞬間、とてつもない感情が押し寄せてきた。「これは... 喜び? 歓喜...」戸惑う凛子と達也だったがその達也の左手に凛子の右手の感触が蘇る。
車は停まっていた。
雨は止んでおり空が白んでいる。前方には乾いた道が続いている。
ミラーで後ろを見ると道はなく、崖があるだけだった。
二人は車を降りて、崖を見上げる。
「これは...?」
「千引の石... というところかしら」凛子はつぶやく。「伊弉諾が黄泉比良坂を塞いで伊邪那美を通せんぼした岩ね」
「終わったのかな」達也は呆けたように崖を見上げて呟く。
「わたしたちにとってはたぶんね」凛子がほほ笑む。「ヨモツシコメも少しはすっきりしたんじゃないかな、しばらくはおとなしくしていてくれればありがたいんだけれど」
「充分に満足したんじゃないのかな」
凛子が首を振りながら「何千年もの思いでしかも相手は神様よ。そう簡単に満足できないわ。ただあの歓喜の感情は...」
さらに首を振って続ける「まさかね。伊邪那美が出てくるわけない」
達也が車のエンジンをかける。「大丈夫だ。ナビは正常だから帰ることができるよ」
凛子は笑って「帰る? どこかへ連れて行ってくれるんじゃないの? 同僚の結婚式にあてられた達也さんは」
とりあえず海が見える場所で桃のケーキが食べたいという凛子に促されて、達也は車を走らせ始める。
「ところでさ... 凛子は伊弉諾尊って嫌いなの?」
「どうしてそう思うの?」
「いや、追いかけてる時のさ...」
にやっと笑って凛子は答える。「まあ、同化してれば感情はばれるよね」
「好きじゃないわ。だって元凶は伊弉諾よ。伊邪那美がお産で苦しんで死んでしまって、悲しいならすぐに迎えに行けばよいのに、ぐずぐずして間に合わなくなって... 挙句の果てに変わり果てた伊邪那美を見て逃げ出すのよ。最低じゃない」
「しかも最後のセリフは何よ。一日千人殺すと怒る伊邪那美に、なら一日千五百人産むって、どう思う。自分の奥さんに対してよ。これを最低といわず何を最低というのよ」
「いや、相手は神様だし。あまり過激な発言は... ヨモツシコメが居るってことは、その二人も居たかもしれないし...」
「ふん」凛子は鼻白んだ。「達也は伊弉諾の肩を持つの?」
「ちょっと待ってよ。よそんちの夫婦喧嘩で僕たちが喧嘩することはないじゃないか」
「喧嘩はしないわ、達也の意見を聞いているの。わたしの意見はそんなに間違ってる?」
はあ、達也はこっそりため息をついた。へそを曲げた凛子は手強い。これはなにがなんでも桃のケーキを見つけて、できれば三つ、伊弉諾が伊邪那美の陣営に投げたと同じように桃を与えて、満足するまで食べさせるしかないな、と思うのであった。彼女なら、とてつもなく幸せそうな顔で食べることだろう。それで機嫌を直すのは確実だ。
そう、少なくとも僕と凛子の間には千引の石という壁は作りたくないのだ。