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第7夜 揺れる運命の天秤

「今までお仕えしたどの方とも違いますね。エステル様は本当に特別です」


レイラがシーリンに語りかけてきた。声には隠しきれない興奮が混じっている。シーリンも黙ってそれに同意する。

数日が経ち、豪華な衣裳を纏い、女官たちに囲まれる中でも、エステルは尊大な振る舞いを見せなかった。それどころか、丁寧に頭を下げ、礼を述べる姿が印象的である。


今朝も、エステルが「ロザナ様」と呼びかけ、ロザナが思わず眉を下げ、困ったような微笑みを浮かべながら、敬称をつけないでほしいと、懇願に近い口調で頼んでいたのを思い出す。


後宮に入った者の多くは、その贅沢さに目を輝かせるものだ。


仮に後宮に残れなかったとしても、エステルは数多くの贈り物を携えて帰ることになる。それがこの後宮の習わしだった。宝飾品や高価な香料――。


そのひとつでも売れば大金となり、普通の家であれば数年間は何不自由なく遊んで暮らせるだろう。それでも、エステルからはそうした欲望が感じられなかった。


「ただ宗教学についての知識は、期待していたよりも欠けているように感じましたね。あの記憶力ならば問題ないと思いますが……」


エステルの出自について詳しくは知らないが、中級役人の家柄だと聞いている。それならば、基礎的な宗教理解くらいは備えているはずだ。しかし、口頭試問で宗教学に関する質問にほとんど答えられなかったのは意外だった。


しかし、その後の講義でその不安は払拭される。シーリンが口頭で説明を加えるたびに、エステルは短時間で驚くほどの速度で内容を吸収していったのだ。まるで乾いた大地が雨を飲み込むように――。


その報告を受けた次席女官長のロザナも目を見張りながら感嘆の声を漏らした。


「それは素晴らしいですね。教養課程も少し見直したほうが良さそうです。また……」


そこで彼女は一瞬言葉を詰まらせた。少し考えをまとめる時間が必要だったのだろう。


「<ミルラの期間>が終わる前ではありますが、予防措置として毒味役を用意するべきと考えます――。この役目は、わたしが引き受けます」


その言葉には、責任を一身に引き受けるという覚悟が滲んでいた。毒味役は信頼と忠誠心が求められる役職であった。


「食事の席での作法については、わたしに代わり、レイラが教えなさい」


ロザナの指示は的確で無駄がなく、その声には揺らぎがない。


「<ミルラの期間>が終わる前にですか?」


シーリンは意図を確認するように尋ねる。


「そうです」とロザナは頷き、彼女たちに穏やかに説明する。


「ヘガイ様の興味がエステル様に向いている以上、こちら側でも予防策を講じておいた方が良いという話に女官長との間でなりました」


調理場から運ばれる際に一度毒味は行われるが、自室に運ばれた後、信頼のおける女官が毒味を行うのが後宮での常だった。


ただし、そのような厳重な対応が施されるのは通常、「皇帝の所有物」とみなされてから、すなわち、<ミルラの清め>が終わった後のことである。


とはいえ、例外が全くなかったわけではない。高貴な家柄の出身者であれば、後宮入りした当初から毒味役がつけられることもあった。


皇妃候補者たちは、王宮に集められた後、選抜を経て後宮へと移り、最初の6か月間は教養課程と並行して、ミルラの香油で身体を清める期間である<ミルラの清め>を過ごす。


この期間は、彼女たちを「穢れなき皇帝に相応しい者」として整える重要な準備期間であり、同時に肌の状態を改善し、次の6か月での手入れをより効果的にするという実用的な意味もあった。


加えて、<ミルラの清め>は、彼女たちが皇妃として相応しいかを見定めるさらなる選抜の場でもあった。適格でない者は追放され、逆に期間を終えた者は清められた「皇帝の所有物」とみなされ、皇帝の御前に出る義務を負う。


一度、皇帝の御前に出た者は、御目にかなわなくても、彼女たちが後宮を出ることは許されず、第二の後宮でその生涯を閉じなければならないのである。


後宮を司るヘガイがエステルに興味を示していることは、すでに後宮の密かな噂となっていた。ワシュティが廃妃となって生まれた権力の空白部に手を伸ばそうとする勢力は多い。<ミルラの清め>が終わる前に、対抗勢力の力を削ごうと考える者がいたとしてもおかしくなかった。


エステルの今後は、彼女たちの今後にも直結する問題である。特に、前皇妃ワシュティの勢力下にあった妃に仕えていたロザナやシーリンにとっては、ここが正念場とも言えた。


ナヴァズなどはワシュティの直属の女官であったにも関わらず、類まれな才能からヘガイに重宝されているが、他の者たちと同様に連座して罰せられたり、運命を共にしたりする可能性もあったのだ。


出世を願うわけではない。ただ、宮中からの追放や処罰の波に飲み込まれることだけは、何としても避けたい――。それがシーリンの胸中に渦巻く切実な思いだった。


さまざまな思惑が交錯しながらも、今やエステルを支えることが、女官たちの間で揺るぎない共通意識となりつつあった。


_________________________


あくる夜、エステルは意を決し、フェリザ女官長の部屋を訪れた。扉の前で一度深呼吸をし、気持ちを落ち着けると、震える手で扉を押し開ける。


「お入りください」


落ち着いた声が響く部屋には、余計な装飾のない整然とした空間が広がっていた。机の向こうからこちらに向かって来るフェリザの姿が目に入る。


「フェリザ女官長、ロザナ様が毒味役を引き受けられる件についてお話をさせてください」


エステルの声がかすかに緊張で震える。


「わたしたちがこうして毒味をするのは、エステル様が安心して召し上がれるようにするためです」とロザナは毒味について説明をしていたが、その言葉は自分の現実をエステルに否応なしに自覚させ、重くのしかかった。


「エステル様、それぞれの役割には意味があります。ロザナがその役目を担うことで、あなたの身が守られるのです。それがこの後宮の規範です」


「それでも……。わたしは望んでいないのです……」


エステルは声を詰まらせながらも懸命に続けた。その言葉に、フェリザはわずかに驚いた表情を浮かべ、少し間を置いてから静かに言葉を継ぐ。


「エステル様、守られる者にもそれ相応の覚悟が必要です」


その声には厳しさと共に、どこか深い共感が込められていた。


「命を懸ける者たちに背を向けず、その支えを受け止める覚悟――。その重みを知ること。それが、あなたに課せられた責務です。そして、いつの日か、あなた自身が命を懸ける役目を迎える時が来るでしょう。その日まで、どうかわたしたちに、あなたを守る務めを果たさせてください」


支えを受け止める覚悟――。その言葉は、エステルの脳内で何度も反芻された。


それは、今までの自分には無縁のものだった。


いつも、ただ流れに身を任せていた。後宮に連れ去られた時も、王妃に選ばれた時も――。


フェリザの言葉が静かに部屋の空気を震わせた瞬間、エステルの胸に何かが触れる感覚があった。それは力の濁流に飲まれ、溺れかけていた彼女にとって、足が急に川底に触れたようなものだった。


だが、言葉の意味が、まだうまく飲み込めなかった。それを受け入れたとき、わたしは何者になるのだろう――。


その数日後、七貴族のひとりであるメムカンが失脚した知らせが後宮に届くと、フェリザとロザナの懸念は現実のものとなった。後宮の空気はさらに張り詰め、静かに潜んでいた各派閥の不穏な動きが表面化し始める。微かな火花が静寂を焦がし、混迷の色が広がりを見せていった。


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