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第6夜 秘密の友情

あくる日、朝の光が後宮の壁を淡く染める頃、ロザナがエステルの部屋を訪れた。手際よく衣裳を整え、髪を結い上げる彼女の動きには無駄がない。


エステルはただその手に身を委ねながら、鏡に映る自分が少しずつ変わっていくのを感じていた。その変化が未来を暗示しているようで、不安に駆られる。


その後、身支度を整えたエステルを待ち受けていたのは、レイラとシーリンによる口頭試問だった。ふたりの目は真剣で、投げかけられる問いのひとつひとつに隙がない。その試問を経て、エステルのための教養の課程が、後宮の厳格な規範に基づいて計画されたのだった。


昼餉では、食事の席での一挙手一投足が、ロザナによって後宮の規範に則った礼儀作法として丁寧に教え込まれた。

ロザナの目にやや緊張しつつも終えた食事は、昨晩とは異なり、味もよく思い出せない。


午後には、再びレイラとシーリンが部屋を訪れ、王家と王国の中枢をなす人々が信仰しているゾロアスター教についての学びが始まった。


ゾロアスター教には祝祭が多く、そのような酒宴の席には後宮の女性たちも参列するのが常であったため、食事の礼儀作法だけでなく、祝祭にも通じている必要があるのだ。


エステルの未来は、同時にレイラとシーリン自身の後宮での立場をも左右する――。その事実を裏付けるように、ふたりの眼差しは真剣だった。


エステルもその期待に応えるべく、身を乗り出して耳を傾けた。


大預言者モーセが書いた五つの書を隅々まで暗記させられてきたエステルにとって、ペルシアの宗教の細部を暗記することは大層なことではなかった。幼い頃に教典を叩き込まれてきた経験が、彼女の記憶力を鍛え上げていたのだ。

その能力に気づいたふたりは、わかりやすく驚きと安堵の表情を浮かべた。


彼女たちに解放され、窓を見ると、黄昏の光が柔らかく差し込み、遠くの空には淡い紫が滲み始めている。


扉が静かに開く音がした。エステルがそちらに目を向けると、ミナとタラが揃って一礼しながら部屋に入ってきた。


「エステル様、次は舞踊の学びでございます」


ミナが柔らかな笑みを浮かべながら告げる。その天真爛漫な表情は、緊張に満ちた部屋の空気をほのかにほぐしていく。一方で、タラは控えめで静かな雰囲気をまといながら、その後ろから様子を伺っていた。

休む間もなく次の学び――。息を吐く間もない。それでも、エステルは努めて口元を綻ばせた。その仕草に気づいたのか、ミナが声を潜める。


「少し休めたらいいのですが……」


そんなミナの様子にタラが小さく諌めるような視線を向けた。それでもミナは笑みを絶やさず、冗談めかした口調で続ける。


「エステル様も、きっとお疲れかと存じます。無理をなさらず、お気を楽にしてくださいませ。わたしなど、どれほど詰め込まれても翌日にはすっかり忘れてしまうことばかりですから」


ミナが柔らかく笑うと、エステルもつられるように微笑みを浮かべた。


稽古後、おしゃべりなミナのおかげで自然と会話が生まれ、弾んでいく――。後宮に来た当初、ミナも一通りの教養課程をこなしたが、特に宗教行事や慣習の細かい規則が苦手で、よく叱られていたのだという。


「それでも、ここにいるのは、舞踊だけは怒られないからです」


ミナは冗談めかしてそう言ったが、エステルの目には彼女の仕草の端々に宿る優雅さが映っていた。類い稀な舞踊の才が、彼女をここに立たせている理由だというのも納得だった。


「確かに、ミナの動きには惹きつけられるものがあるね」


エステルの言葉に、ミナは少し照れたように微笑む。その仕草が微笑ましくて、エステルもつい笑みをこぼした。ふと視線を横に向けると、タラも小さく口元を緩めている。


ミナが照れ隠しのように声を弾ませて、話題を変えた。


「タラが奏でるリュートは本当に優しくて、柔らかい音色なんです。ぜひ聴いてみてほしいです!」


自分が褒められたとき以上に嬉しそうな表情を浮かべ、どこか自慢げにエステルにそう語りかける。


「そうなの。聴いてみたいな――」


エステルがそういうとタラが少し縮こまりながら答える。


「そんな……皆さんが褒めてくださるのは優しさですよ」


ミナは勢いよく首を振り、「いやいやいや」と否定しながらさらに自信満々な表情を見せた。


「あの音色は本当に心を癒してくれます。夜に聞くと、不思議と心が穏やかになって、ぐっすり眠れるんです」


それは褒めているのだろうが、なんとも的外れな褒め言葉でエステルは苦笑する。それでも、その音色は今の自分の心を落ち着けてくれそうな気がした。


エステルも少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべて、ミナの言葉に相乗りする。


「せっかくだから、聞かせよ」


「お願い」とエステルが言わなくても、タラはやや緊張しつつもうなずき、リュートを手に取ってくれた。少し立場を利用してしまった気もしてエステルは申し訳なく思ったが、奏でられる音色にそんな気持ちもたちまち解きほぐされた。


それは、柔らかく、やさしく、それでいてどこか懐かしさを感じる音色だった――。ゆったりと耳に流れ込む旋律は、エステルの心に満ちていく。


たまには、夜弾きに来てもらおうかなとエステルは思う。王妃候補としての権威を振るうことは、やや抵抗があるが、これくらいの特権は許されてもいいのではとも思った。


演奏が終わると、笑顔になっているエステルの顔を見て、緊張の糸が切れたのか、タラが口を開いてくれた。


「家では、父が夜になるとよくリュートを弾いていました。その音を聞きながら眠るのが習慣だったんです。だから、弾けるようになりたくて……気づいたら、いつも父のそばにいました」


その話にエステルは思った。なるほど、だから、タラの音色には懐かしさが漂っているのかもしれない、と。


「でも、うちは貴族ですが、今では力を失いつつあって、兄弟も多かったので、わたしはとりあえず後宮に送られたんです」


苦笑いしながら、タラは言い、ミナもそれに同意する。ミナも家は商家であったが、末っ子でそそっかしくて商才があるとも思われなかったらしく、ここに送られたのだと言う。


奇しくも同じような境遇のふたりは、今まで支え合いながら、どうにかこの後宮をやり抜いてきたのだという。


「最初は、絶対に親しくならないと思っていたんですよ」

「わたしもよ」

ミナとタラが同時に言い、顔を見合わせて吹き出す。

「貴族ですし」「商家の娘だし」


まるで鏡合わせのように言い合うふたりを見て、エステルもつい笑ってしまった。ミナが相手だと、タラも大人しいばかりではないらしい。ミナは笑いながら言葉を続けた。


「貴族のお嬢様とは、帝都に大店を構えているとはいえ、商家の町娘と釣り合わないだろうと思っていたんですよ」


ミナとタラは、後宮に来たばかりのことを話してクツクツと笑っていく。その光景は、後宮の厳しい空気の中に漂う、小さな温もりのようだった。気づけば、三人の間に笑い声がふわりと広がり、互いの子どもの頃や家庭の話になっていった。


「そういえば、エステルはどのあたりに住んでいたの?」


ミナが何気なく口にしたその一言が、場の空気を一変させた。タラの顔が瞬時に硬直し、続いてミナも自分の失言に気づいて顔を強張らせる。


何が起こったのか、思考がついていかないエステルも動揺を隠せなかった。刃物で切り裂かれたように部屋の音が途絶え、冷たい静寂が満ちる――。


「申し訳ございません……!」


ミナが慌てて深々と頭を下げる。その震える声に、ようやくエステルの思考が追いついた。


「大丈夫。気にしないで」


こういうところだろうな、とエステルは心の中で苦笑する。上下関係が厳しく、階級が厳格に決まっている後宮において、下級女官のミナの失言は文字通り命取りだった。


上級女官としてのフェリザ、同じく上級女官であり、長であるフェリザを補佐するロザナ、中級女官のナヴァズ、レイラ、シーリンといった上官たちが仕えているのが、次期皇妃候補たるエステルだった。

そのエステルに下級女官のミナが親しげに話しかけることは、断じてあってはならないことである。


「三人でいる時くらい、そんなに堅苦しくしなくてもいいんじゃない?」


エステルは努めて明るい声を出した。


むしろ教えられる側なのだから、あなたを先生と呼んだほうがいいかな、とエステルがおどけたところで、やっと場の空気が再び弛緩する。


こうして、庶民の出のミナ、タラ、エステルの間で、秘密の友情関係が生まれ、後宮という厳しい世界の中で、それは三人を繋ぐささやかな支えとなっていくのだった。


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