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第5夜 ハダッサとエステル

しばらくすると、ナヴァズがミナとタラを連れて戻ってきた。食器の下膳をふたりに任せると、ナヴァズは中庭を案内したいと言い出した。


「もしよろしければ、中庭へご案内いたします。夜風が心を落ち着けてくれるかと思います。どうぞ、お付き合いくださいませ」


その言葉に促されるまま、エステルはナヴァズの後を追った。先ほどの手紙について尋ねるべきか迷いながらも、言葉にする機会を逃し、やがて中庭へとたどり着いた。


月光に照らされた中庭は、昼間とはまるで別の世界のようだった。彫刻のように整えられた樹々は、銀の光をまとい、噴水から流れる清流は宝石のように輝いている。その光景に一瞬足を止めたエステルの視線が、ふと人影を捉えた。


見慣れた背格好の男――。


「お父さん!」


思わず声が漏れた。エステルは破顔し、全身の緊張が解けたように義父へ駆け寄った。


「会えてよかった――」


エステルの言葉に応えるように、モルデカイが静かに微笑む。中年となった彼の顔には、これまでの苦労が深く刻まれていた。最近は緊迫した情勢のせいか、髪も白髪が増えてきている。それでも、その柔和な笑顔は変わらない。


「今日は夜も遅い。長くは話せないが、手短に――」


モルデカイは周囲を警戒するように視線を巡らせながら、声をひそめて続けた。


「エステル、自分の同族のことを誰にも話してはならない。ナヴァズは信頼できる。彼女を頼りにしていい」


そして、エステルの肩に手を置き、静かに言葉を添えた。


「君は賢い。必ずうまくやれるさ」


言葉をかける時間すら惜しむように、モルデカイはナヴァズに一礼すると、足早に去っていった。


短い間であったが、大切な家族に会えたことは心強かった。


見ると、ナヴァズが隣に立っていた。月明かりに照らされた彼女の表情は穏やかだが、その瞳には決意の光が宿っている。


「エステル様、恐れながらお伝えいたします。わたしの母は、ヘブルの民でございました」


静かな声でそう語るナヴァズに、エステルは驚きながら問い返した。


「あなたのお母様が……?」


はい、と優しく頷くナヴァズは頼もしく見える。


「わたしどもの長フェリザとは付き合いも長く、信頼できる方です。他の女官たちも口が固く、不穏な者はおりません。ただ……」


ナヴァズは静かに言葉を続けたが、ふとその口調にわずかな影が差した。


「ただ……」


言い淀んだ彼女は、エステルの耳元にそっと顔を寄せ、声を落とした。


「噂では、皇帝陛下のもとにユダとエルサレムの民を訴える告訴状が届いたとか。事態は緊迫しております。信頼できる方以外には、誰にもあなたの出自を知られてはなりません」


その言葉は月光のように冷たく、エステルの心に染み入った。少し前にモルデカイから聞いていた話が思い出される――。近年、ヘブルの民に対する反感が高まっているのだ。その言葉が脳裏をよぎり、状況の重さが彼女を押しつぶそうとする。


エステルは目を閉じ、深く息を吸い込んだ。


バビロン捕囚でこの地に連れて来られたヘブルの民は、長い年月を経て独自のコミュニティを形成し、今や帝国内の一部地域では人口の大半を占めるまでになった。特に中央そして南バビロニアの地域で、彼らは商業活動に深く関わり、大きな商家をいくつも構えるようになった。


57年前、エルサレム神殿の再建が帝国によって認められた時、祖国へ帰還する機会を得た数万人の人々が新しい希望を胸に去っていった。しかし、それは全体のごく一部に過ぎなかった。


多くのヘブル人たちは、モルデカイの両親やエステルの祖父母のように、既に築かれた生活基盤を捨てる決断ができなかったのだ。それでも彼らは、祖国に残る者たちへの資金提供という形で神殿の再建に協力していた。


ところが、エルサレム神殿の建設を妨害しようとする勢力が存在するという話を聞く。その首謀者は、驚くべきことに、かつては同じヘブルの民であった者たちだという。彼らは亡国の折に異教徒と婚姻を結び、信仰と出自の間で複雑な立場に立たされていた。


その意味では、ナヴァズもまた、そのような背景を持つひとりであるが、彼女の言葉や振る舞いには、それらの人々との明確な距離感が感じられた。エルサレム近郊で暮らすそのような人々と、帝都で育ち、帝国の文化に馴染んだ彼女――。その間には、もはや別の民族と言っても良いほどの隔たりがあるようにも思えた。


いずれにしても、血の混ざりなど、今のエステルの状況では些細なことのように思われたし、エステル自身、昔から出自の良し悪しで人付き合いを変えたことはなかった。


エステルは笑顔を彼女に向け、「ありがとうございます」と丁寧に礼を述べると、彼女の耳元で囁いた。


「わたしの本当の名は、ハダッサです」


ナヴァズの目が優しく輝き、柔らかな声で応える。


「素敵な名前ですね。そして、エステルもあなたによく似合う名前だと思いますよ」


こちらが心を許したので嬉しくなったのか、少し砕けた彼女を見て、こちらも嬉しくなる。


エステルがまだ幼かった時に、モルデカイは情勢の悪化を懸念して、ヘブル語名のハダッサではなく、ペルシア語名のエステルと呼ぶようになった。


星<エステル>は、明けの明星<イシュタル>とも語感が少し似ていて、バビロンの宗教や文化によく馴染むように考えられていた。


エステルは、肉親から授かった名前に加え、育ての親であるモルデカイが愛情を込めて与えた名を持つことを、心から誇らしく感じていた。


また救い主の来臨を思わせる意味が、明けの明星という響きには込められており、その名を持つことに特別な愛着を抱いていた。


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