第4夜 秘された名、秘された運命
南西に位置する小さな門を通らなければ入ることができない後宮は、外界から完全に隔絶された空間だった。高い壁が周囲を取り囲み、内部を守ると同時に、まるで誰かの手で完璧に設計された箱庭のようでもある。
壁や柱には精緻な彫刻が施され、鮮やかな彩色が目を引く。足元には高価な絨毯が敷かれ、その柔らかさがかすかにエステルの歩調を乱す。空気には複雑な香料と花々の香りが漂い、鼻腔を掴んで離さない。
案内された部屋は、かつて前皇妃が暮らしていた居室のすぐ近くにあるという。それを聞いた瞬間、エステルは心の奥底にざわめくものを感じた。後宮の政治に詳しくない彼女でさえ、この配置が単なる偶然ではないことを理解せざるを得なかった。
この先に待つ不確かな未来に思いを馳せれば、不安という波が押し寄せ、飲み込まれてしまいそうになる。エステルは、そばに仕えることになった女官たちの長であるフェリザの案内に意識を集中させた。気を逸らさなければ、この場で足がすくんでしまいそうだった。
ヘガイがつけてくれた7名の女官たち――フェリザ、ナヴァズ、ミナ、タラ、レイラ、シーリン、ロザナ。
どの顔も後宮での経験の重みが刻まれており、後宮に集められた女性たちほどではないかもしれないが、街に出れば、美しいと称される顔立ちをしており、知的な雰囲気を感じた。
それぞれ、商家や中級役人の家柄で、最年長のフェリザが50代程度、他は30代から20代と幅広く、タラとミナはエステルと同じ17歳であった。
少し前までただの町娘であったエステルにも、敬称をつけ、恭しく接してくれる。それはエステルの現実が急転したことを否応なしに告げていた。
最後に、とフェリザがエステルを見つめて言う。
「エステル様、後宮の規定に従い、これから12か月間はお身体の手入れと教養の学びに専念していただきます。その期間が終わり、もし陛下の御目に叶いましたなら、わたしどもは引き続きエステル様をお支えすることになります。ですが、そうでない場合、陛下の御前に出る夜が、最後の時となることをご承知ください」
女官長フェリザの静かな声が、空間に響く。その言葉のひとつひとつが、これからの自分の役割を突きつけてくるようだった。
エステルが小さくうなずくと、今日はゆっくりおやすみくださいとフェリザは言い、他の女官たちもエステルに頭を下げた。
誰もいなくなった部屋にひとり取り残され、エステルはようやく張り詰めた緊張の糸が切れるのを感じた。
今まで溜め込んでいた感情と共に、息を吐き出すと、目尻から涙が伝い落ちる。緊張の糸が切れ、感情が流れ出した。
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夕餉の時間、ナヴァズが食事を運んできた。豪華な金銀で彩られた盆に整然と並べられた料理は、いつも義父と食べていた質素な夕餉とは比べ物にならなかった。
新鮮な果物が彩りよく盛られ、スパイスで香り高く味付けされた羊肉の焼き物、そしてサフランの香りが立ち上る米――。その中にはナッツとドライフルーツがふんだんに混ぜ込まれている。どれもが目を引き、香りだけで満腹感を感じさせるほどだった。
さらに、見慣れているはずのレンズ豆とひよこ豆のスープでさえ、豊かなハーブの香りが漂い、家庭で慣れ親しんだものとはまるで別物に感じられた。
エステルが見たことのないナッツの焼き菓子に目をやると、ナヴァズが穏やかな声で説明を加えた。
「エステル様、そちらは蜂蜜とナッツを使った焼き菓子でございます」
蜂蜜――その響きに、エステルの意識が引き寄せられる。
デーツを煮詰めた汁であれば、エステルも口にしたことがあったが、蜂蜜はなかった。存在自体は、義父から聞いたことがあったが、とても庶民には手が出せる代物ではなく、市場でも見かけたことがなかった。
「甘さが優しく心を癒してくれるかと存じます。どうぞ、お召し上がりくださいませ」
ナヴァズは柔らかな微笑みを浮かべ、そう言葉を添えると、静かに一礼して退室しようとした。その所作にはどこか丁寧さと親しみが混ざり、エステルをほっとさせる空気があった。
ふと、彼女が机の上にそっと置いていった紙――パピルスが目に留まった。退室の際に何気なく置いたものだが、その気配にどこか特別な意図を感じる。
エステルは慎重に紙を開いた。そこに書かれていたのは日頃は見慣れない文字――。しかし、エステルにとっては大切な文字だった。
失われた故国の文字――ヘブル文字だった。
その瞬間、エステルの胸に静かな震えが走った。
紙には、簡潔なメッセージが走り書きされていた。
(モルデカイ殿から聞いております。願わくは主があなたを祝福し、あなたを守られるように)
ナヴァズがモルデカイと繋がっていた事実よりも、その後の詩の一節と文字に衝撃をエステルは受ける。
その詩は大預言者モーセが書いた祭司の祈りの一節だった。
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