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第3夜 後宮の光と影

後宮の空気はどこか澱んでいた。煌びやかな装飾や金銀の輝きがその本質を覆い隠しているものの、その背後には怨嗟や欲望が渦巻いていた。だが、その中でひときわ異質な存在があった。


彼女の姿は後宮の騒がしい空気の中で不思議な静けさを持っていた。控えめに座る彼女の瞳は澄み切っており、その中に映る光は、まるで外の世界の自由な空気を忘れさせないとでも言うかのようだった。


第一後宮の監督責任者であるヘガイの目は自然とその少女に向けられていた。他の女性たちはそれぞれの思惑を胸に秘めながら、少しでも目立とうと声高に笑い、動き、または怯えたように身を震わせている。その中で、彼女だけはまるで別世界にいるかのようだった。


やや丸みを帯びた温和さが感じられる顔立ち、それでいて青い瞳の奥には静かな芯の強さが宿っているようにも見える。短く波打つ黒髪は柔らかな光を受けて艶やかに輝き、無造作な動きの中にも上品な気配を纏っているのが目についた。


「君の名前は?」


彼が声をかけると、エステルは小さく肩を揺らし、驚いたように彼を見つめた。その表情には、なぜ自分に声をかけるのかという戸惑いがありありと浮かんでいる。その無防備さと正直さが、ヘガイには新鮮だった。


「エステル……と申します」


名前を聞くと、一瞬思案したようにも見えた。聞けば、文官のモルデカイが育ての親らしい。ヘガイも何度か顔を合わせたことがある。実直そうな男だった。


モルデカイは後宮調統補佐官を任されている王宮行政の中級役人で、第二後宮の監督者シャシガスの部下だった。


第二後宮――それは、かつて皇帝に愛されたものの、今や名も呼ばれることのない女性たちの墓場だった。皇帝が気まぐれに名を呼ばない限り、そこにいる者たちが再び皇帝の前に姿を現すことはない。


一方、第一後宮はまさに権力の交差点だった。監督責任者であるヘガイがその中心に立っていたが、その仕事の注目度と重圧は桁違いだった。名目上の華やかさに隠されながらも、第一後宮は常に陰謀が渦巻き、権力を巡る策謀の温床と化していた。


魑魅魍魎が跋扈している――。ヘガイがその場をそう表現したとしても過言ではないだろう。皇妃たちは自らの子を権力の座に押し上げようと画策し、外部の勢力はそれを利用して権力闘争を繰り広げる。燻る火種は常に存在し、油が注がれれば、反逆の狼煙が上がる危険も孕んでいた。


その中でワシュティの廃妃は大きな変化をもたらした。旗頭を失った後宮は不安定さを増し、さらにサラミスでの大敗によって帝国全体の基盤が揺らぐ中、後宮の緊張も頂点に達しつつあった。


かつて200万の兵を率いたペルシア軍は、ギリシアとの戦いでわずか5000人となって戻ってきた。その中には、わずか300人のスパルタ兵に足止めを食らった屈辱も含まれる。サラミスでの無惨な敗北は、皇帝クセルクセスに対する反感を生んだ。表向きにはまだ抑え込まれているものの、その堰はいつ崩れるかわからない。


そんな不安定な均衡の中に立つヘガイにとって、目の前のエステルは一筋の光のようでもあった。彼女を無下には扱えない――。その直感が心を支配した。


第二後宮の監督者であるシャシガスとは、名目上は協力関係にあったが、その実、冷ややかな間柄だった。彼との関係に期待するよりも、モルデカイという部下を懐柔しておくほうが、はるかに利口な選択だろう。いずれにせよ、後宮という場所では、あらゆる方向に恩を売っておくことが保身の基本だった。


だが、それだけではない。エステルの素朴で純粋なその瞳に、ヘガイは心を引き寄せられていた。他の女性たちのギラついた欲望や怯えた表情とは異なり、彼女の静かな存在感は、後宮の喧騒に埋もれることなく、自然と彼の目を引いていた。


その後、いくつか言葉を交わしただけで、その直感は揺るぎない実感へと変わっていった。ヘガイ自身、なぜエステルを気に入ったのかはわからなかった。美人ではあるが、傾国の美女というほどではない。ただ、惹きつけられる愛らしさと、言葉の端々に出てくる大切にしたくなる稀有な品格の香りは、ヘガイの目に留まるのに十分だったのである。


彼はすぐに決断し、信頼のおける女官を7人、彼女の世話役に任命する。これらの女官は、口が固く、出自も確かで、他の後宮の者たちと一線を画している者たちだった。


そして、第一後宮の中でも最も良い部屋を彼女に割り当て、警備を厳重にするよう手配した。


もし皇帝が彼女を寵愛しないならば、第二後宮へ送られることになるだろう。それもまた、陰謀の巣から遠ざかるという意味では悪くない――。


だが、もし寵愛を受けた場合はどうか。彼女を安全に保つためには、今の段階で自分の目が届きやすい場所に置いておくほうが良い。


彼女の未来がどのように転ぶにせよ、ヘガイは目の前のこの少女に可能性を見出していた。後宮という不安定な舞台の中で、彼女がどのような役割を果たすことになるのか――。それを見届ける決意を密かに抱きながら。


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