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第28夜 命を賭ける瞬間

皇帝とハマンは、二日目の王妃エステルの酒宴に臨んでいた。


磨かれた石床には薄絹の敷物が重ねられ、中央には黄金の燭台が並び、炎がゆらめきながら部屋全体を温かな金色に染め上げている。


瑠璃色の器に満たされた葡萄酒は、灯火の光を受けて深紅に輝き、表面で小さな波がきらめいた。


天井近くを漂う香は甘く濃く、花々と没薬の香気が重なり、息を吸うたびに胸の奥まで満ちてくる。


壁際の柱には銀糸の飾り紐が垂れ、外の陽光が透ける薄布越しに柔らかな光が差し込み、室内の影と光を縫い合わせていた。


皇帝クセルクセスは椅子の肘掛けに手を置き、穏やかに杯を傾けながら、エステルを真っすぐに見つめた。


「王妃エステルよ――求めるものは何か。必ず叶えよう。願いは何か。たとえ国の半ばでも与えようぞ」


その声は柔らかくも、空気を支配する力を帯びていた。


エステルは膝の上で指を組み、爪が白くなるほど力を込めた。


鼓動は耳元で鳴り、吐息は熱く、わずかに喉が乾く。


視線を落とせば、その重圧から逃れられるかもしれない――。


だが、それはこの場に立つ意味を手放すことになる。エステルは小さく息を吸い込み、皇帝の視線を真正面から受け止めた。


「もし、わたしが皇帝の御前に恵みを得ており、皇帝が良しとされるなら――」


声はかすかに震え、しかし言葉を重ねるごとに、奥底の決意が輪郭を強めていく。


「どうか、わたしの命を、わたしの求めに従ってお救いください。そして、わたしの民を、わたしの願いに従ってお救いください」


その言葉の一つ一つが、酒宴の甘い空気を切り裂くようだった。蝋燭の炎が細く揺れ、ハマンの手にあった杯の中の酒が波紋を描く。


エステルの声はさらに静かに、しかし鋭く続く。


「わたしとわたしの民は、滅ぼされ、殺され、絶やされようとしています。もし奴隷として売られるだけなら、わたしは黙っていたでしょう。その苦難は陛下の御心を煩わすほどのことではないからです」


最後の言葉を吐き出した瞬間、宴席の温度が目に見えぬほど急激に下がった。杯を持つハマンの手が止まり、蝋燭の炎が細く揺れる。


エステルの耳には、自分の呼吸と心臓の鼓動しか届かない。皇帝の目が細まり、低い声が刃のように鋭く、部屋の隅々まで響き渡った。


「そんなことを企む者は誰だ。どこにいる」


昨夜、望まぬまま差し出した払うべき代価の重さを噛みしめながらも、彼女はそれを今、この一瞬のための必要として受け入れた。


その苦みが喉を灼くが、それは皇帝の寵愛をまだ受けている証でもあった。


エステルは一瞬だけ瞼を閉じ、静かに息を整えた。その沈黙の間に、彼女の中で迷いの最後の欠片が音もなく崩れ落ちた。ゆっくりと目を開け、凍てつくほどの冷静さを宿した視線を皇帝に向ける。


「その仇、その敵は――この悪しきハマンです」


その名が放たれた瞬間、室内の空気は裂け、見えぬ刃が走ったかのように全員の表情が緊張で引き締まった。


_________________________


その頃、後宮の奥深く――。


白磁の肌をした女帝アメストリスが玉座のような椅子に身を預け、冷たい光を宿した瞳でこちらを見据えていた。


「その顔――久々に妾の前へ現れたと思えば、願い事を抱えて来おったか。まったく、図々しさもここまで来れば見上げたものよのう」


フェリザ女官長は、胸の奥で心臓が速く脈打つのを感じながら、最敬礼の姿勢で静かに跪いた。床に触れる手のひらに、冷えた石の感触が伝わる。


緊張を、微笑に似せた口元の硬さで覆い隠しながら、慎重に口を開く。


「恐れ多くも、陛下――。何卒、聞き届けくださいませ」


アメストリスは、長く息を吐き、緩慢に脚を組み替えながら横柄に姿勢を崩した。その動きにすら、獲物を弄ぶ猛獣のように余裕を滲ませている。


「まあ良い。そなたの報せがあったおかげで、忌々しい女狐どもを狩ることができたからのう」


フェリザはその言葉に氷のような石床に額が触れんばかりに深く頭を垂れて応えた。


「ありがたき幸せにございます。恐れながら――もしエステル様が、分不相応とも見えるほどの高みに据えられる折には、陛下の英断とお力添えを賜れれば、これ以上の栄誉はございません」


その瞬間、まだ形を成さぬ怒気が女帝の周囲に満ち、空気そのものが震える。見えぬ重圧が肩にのしかかり、呼吸の間隔までも支配されていくようだった。


「あの小娘、近頃は陛下にも飽きられておるのではないかのう。それに、ユダの民とやらでもあると聞く。――そのような望み、まさしく分不相応にも程があろう」


反論する言葉を何一つ持っていなかった。もしかしたら、エステルが命をかけているときに安全地帯で待つのが嫌なだけだったのかもしれない。しかし――。


それだけではないと、フェリザは薄々悟っていた。


エステルを信じている――。そして、彼女が命を懸けて信じているものを、自分もまた信じ始めているのだと。


だからこそ、女帝の目と耳として培った立場を、エステルに賭けると決めたのだ。


「その折にで、かまいません。もし、苦い杯を飲ませられるのであれば、それまでの娘であったということです」


アメストリスの唇から怒りが引き、代わりに獲物を見定めるような微笑が浮かんだ。


「知らぬはずはなかろう。お主はあの小娘と一心同体。その時には、妾は何もせぬぞ。それでもなお、賭けるほどの価値があるのか」


フェリザは迷いを残さぬ眼差しで、女帝を正面から見据え、静かに頷いた。


「アメストリス様の道を阻むことは致しません。あなた様の“時”がきましたら、あの娘は後宮では用済みでございますゆえ」


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