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第22夜 月影に咲く微笑

「申し訳ございません……」


震える声が浴場に響き渡っていく――。呆然とするタラの目の前には、怯えながらひれ伏すラジーラがいた。


「わたしは……モルデカイ様のお取り計らいによって、この衣裳を身に纏っていただけで……本来の身分は、奴隷にございます……」


ラジーラは目に涙を溜めながら、慈悲を乞うようにタラを見つめてくる――。


彼女が何度か何かを言いかけ、口をぱくぱくとさせていたことには気づいていた。そして今、その理由をようやく理解した。


怯えるラジーラの手をとり、タラは半ば無理やり立ち上がらせる。


「では、今日だけは中級女官になりましょう」


思わず、自分でもおかしくなる。


ミナやエステルの影響を受け始めているのかもしれない――。そう思いながら、タラは少し悪戯っぽい微笑みをラジーラに向けた。


ラジーラはその笑顔に押されながらも、必死に抵抗を試みる。


「で……でも、女官様の浴場に――」


言いかけた彼女を、タラの一言がさらなる混乱の渦へと引き込む。


「大丈夫ですよ!ここはわたしたちではなく、エステルの浴場なんですから――」


思わずタラはそう言って、ラジーラの手を取った。その言葉が後宮規範の外へとよく飛び出すエステルの自由奔放な振る舞いに影響されたものであることをすっかり忘れて。


「何が大丈夫なのか、全くわかりません」とでも言いたげな顔をしたラジーラ。しかし、タラは構わず彼女の手を引き、そのまま浴場へと連れていった。


浴場に入ると、白い湯気にしっとりと身をまとわりつく――。


まだ冷たさが残る春先の夜風に当たったからなのか、ラジーラの手足は冷え切っていった。


タラがラジーラの衣に手をかけると、ラジーラは身を震わせたが、抗うことなく、タラに身を委ねていった。


はらり――。


ラジーラの衣を取り、湯を手桶で汲んだタラはそこで戸惑う。彼女の背中には、無数の傷跡が刻まれていたのである。


タラは動揺を悟られないように、湯をゆっくりとかけ、ラジーラを気遣う。


「どうですか? 熱すぎたり、どこか痛んだりしていませんか?」


ラジーラは首を横に振り、小さく絞り出すように答えた。


「……大丈夫です。慣れていますから」


その言葉に思わず、タラは手を止めてしまう。彼女は何に慣れているというのだろうか。何にしても、それは慣れてはいけないように思えた。どんな過去を持てば、こんなことに「慣れる」ことができるのだろう。


そっと自分の肩を抱くラジーラを見て、冷えないようにと、また手桶で湯をかけてあげる。


こんな時、エステルなら、なんと声をかけるのだろうか。真面目で、思慮深くて、それでいてたまにお茶目な自分の主なら――。


そんなことを思いながら、肩のあたりで大雑把に切られたラジーラの髪を、タラは丁寧に洗い始めた。


湯浴みや洗髪は、妃付きの女官であるタラでさえ、週に一度程度。それを思えば、ラジーラに対する扱いは破格といえた。 


油分で重くなっていた髪を丹念に洗い、水気を拭き取ると、鋏を手に取り、綺麗に髪をうなじが見えるくらいに切り揃えていく。綺麗に、真っ直ぐに――。


いつも髪を肩より少し上で綺麗に切り揃えるのがエステルも好きで、何度もタラが同じように浴場で整えていた。


エステルの髪はうねりがあって、少し難しいが、ラジーラは変な癖もなく、素直で、鋏の通りも滑らかだった。タラが手際良く、ラジーラの髪を整えると、エステルが持っている香油をふんだんにもらって、髪や身体にゆっくりと馴染ませていく。


ほのかに甘く、どこか落ち着く香りが湯気に混じり、ふんわりと漂った。タラはその香りを感じながら、ふとエステルの顔を思い浮かべた。


エステルなら、きっと自分の香油が使われたことを怒るどころか、むしろ嬉しがるだろう。


「わたしの好きな香りをまとってくれるなんて、素敵じゃない?」


そんな軽やかな声が、どこからか聞こえてきそうだった。 


最後にタラは、上気したラジーラの肌に薄絹の衣を着させると、そっと手を引いて言った。


「ほら、これでバッチリ。可愛いですよ」


ラジーラは少し戸惑いながらも、照れくさそうに俯いた。その手を引き、浴場を出ると、衣裳を手にしたミナが待っていた。


「ミナ、ありがとう――」


そう言いかけたタラの言葉は、ミナが持ってきた衣裳を見た瞬間に喉の奥で止まった。


ミナの腕に抱えられていたのは、簡素な実務用の衣裳ではなく、思いがけず豪華な衣だった。


儀礼用ではないのが幸いとはいえ、それでも華美な装飾が施され、一目で上級階級の者の衣裳だとわかる。


おそらく、エステルが自室を出る際に随伴するためのものだろう。


妃としての威厳を示すため、他の妃や女官たちと並んだときに見劣りしないよう、エステルでさえも着飾ることを求められる。ロザナもまた、それに倣って、それなりに絢爛な衣裳を持っているのだ。 


隣にいるラジーラの手が冷たくなっていくのを感じて、タラが視線を向けると、湯から上がったばかりとは思えないほど、血の気が引いていた。


そんな戸惑うふたりに気づかないのか、ミナは輝くような笑顔で、ラジーラにその衣裳を着させていく。あまつさえ、なぜ手伝わないのかと目で訴えてくる始末である。


タラは心の中で静かに嘆息した。確かに、ちゃんと指示をしなかった自分の不始末だ。


しかし、それにしても、どうしてミナはこうも……。


ほんの少し苛立ちを覚えながら、注意すべきところはしっかりと注意すべきと思って言葉を出す。


「もう少し実務のための衣裳のほうにしようよ。あとミナ……それ、ロザナ様の化粧道具じゃない? さすがにそれを借りるのはまずいと思うけど……。気に入ってらっしゃったから。ほら、エステルのを使ったほうがいいんじゃない……。ね?」


ミナは素直である。タラの意見に対して、「そうだね」とすぐに理解を示してくれたミナにタラは安堵する。だが、なぜか握っているラジーナの手はますます冷たくなっていた。


_________________________


「即時、後宮近衛をここへ」


低く鋭い声が、寝所の前室に突き刺さるように響いた。ハマンの命令は、わずかな逡巡すら許さぬ緊迫感に満ちていた。


エステルが皇帝クセルクセスに暗殺計画を告げたのは、つい先ほどのこと。皇帝はすぐさま前室に控えていたハマンを呼び寄せ、すべてを伝えた。


「陛下、テレシュの指示により、親衛隊の配置が変更されておりました。そのため、警備に重大な空隙が生じております」


王宮近衛――かつては王宮の防衛を一手に担い、忠義と誇りの象徴とされた存在。


だが今や、その名は虚飾に過ぎなかった。テレシュの影が、静かに、しかし確実にその中枢にまで染み込んでいたのだ。


さらに、皇帝直属の親衛隊までもが、今夕、テレシュの指示によって意図的に寝所から遠ざけられていた。


すでに計画が実行段階に移されている――それが、ハマンの判断だった。即時統制は不可能。だからこそ、彼は一手先を読んで動いた。


後宮近衛の一部を抜擢し、皇帝の警備要員として前線に転用し、即応させたのである。


「……王宮の中に、敵がいるというのか」


低く呟いたクセルクセスの顔に、一筋の汗が伝う。豪奢な顎鬚をかすめながら、まるで見えない刃のように頬を切って落ちた。


対照的に、目をすり抜けて手駒を減らされたというのに、ハマンは微笑みすら浮かべながら、わずかに首を傾けて皇帝の顔を見つめる。


「すでに後宮近衛は即応体制にあります。陛下の御身は、わたしが必ずお守りいたします」


声は穏やかだったが、その響きには、すべてを掌握している者の確信が滲んでいた。


しばらくすると、アメストリス直属の親衛隊が反乱分子と思われる王宮近衛を一掃したという報せが、応援に駆けつけた後宮近衛を率いるヘガイと共に届く。


鋭い視線を周囲に走らせながら、ヘガイの手勢と共に警護の布陣をハマンは再構築していく――。事態は沈静化へと向かっていた。


この一連の騒動、その黒幕は、バクトリア地方知事、マスティスであった。


事の次第は、こうである。


かつて、皇帝クセルクセスはマスティスの妻に目をつけ、その身を奪おうとした。


怒れる地方長官への宥和策として、今度はその娘を自身の子に嫁がせた。だが、やがて皇帝はその娘までも自らの側に召し抱えてしまう。


この事態に激昂した皇后アメストリスは、怒りを逸らすかのようにマスティスの妻を見せしめとして処刑する。


理由もなく、慈悲もなく。まるで、玩具を壊すかのように。


――誇りも、家族も、根こそぎ奪われ、すべてを失ったマスティスは、復讐を誓った。


妻をさらわれたマスティスは、復讐のために寝所の警備責任者ビクタンとテレシュと共謀して暗殺計画を立案。


かつて皇帝に信頼された者たちが、彼の怒りに共鳴し、反旗を翻す。三人は密かに皇帝暗殺を計画し、決行の時を探っていた。


しかし、妻を取り戻そうと焦ったのか、怒気を含んで暗殺計画を話しているところをマスティスの奴隷ラジーラが通りがかり事態は発覚する。


計画は露見し、暗殺は未遂に終わる。


さらに、マスティスは妻の無惨な死の報せを耳にし、絶望の果てにさらに激昂。バクトリアへと逃れ、反乱の旗を掲げようとした。


ところが、ハマンによってすでに一手先を打たれていたのである。


即座に派遣された軍により、反乱の芽は未然に摘まれ、マスティスと三人の息子は反抗の言葉も、剣を抜く間も与えられぬまま、鎖に繋がれ、地に膝をつかされた。そして、彼らの命運はラジーラの証言により、完全に潰えたのである。


翌朝――。


処刑場には静かな風が吹き抜けていた。その風が、折れた誇りの残骸を巻き上げるように、四つの骸が無情に架けられていた。


こうして、皇帝クセルクセスの暗殺未遂は幕を閉じたのである。


だが、その余韻は、後宮の奥深く、誰も踏み入れぬ闇の底に、なお燻り続けていた。


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