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第21夜 月影に震える名

外の喧騒が膨れ上がったかと思うと、荒々しく扉が開く。


隣からミナが押し殺した小さな悲鳴をあげたのが聞こえるが、ミナを思いやる余裕などタラにもなかった。


慌ただしく部屋に入ってきたのは、ハタクとナヴァズ、そして青ざめた顔の少女。少女はミナやタラと同じくらいの歳に見えたが、その身には中級女官の衣を纏っていた。おそらくは、今回の騒動を持ち込んだ人物だろう。


タラの好奇心は少女へと向かいたがっていたが、それ以上に視線を離せなかったのは──。


ハタクとナヴァズの姿だった。どちらの衣も血で染まっていたのだ。


怪我をしているのだろうか。それとも、他の誰かの血だろうか。混乱する頭をどうにか働かして、タラは動こうとする。しかし、それよりも早くハタクから焦る声が飛んできた。


「彼女を頼むぞ。わたしたちはエステル様のところへ行かねば」


そう言うが早いか、ふたりは踵を返し、扉を開け放って、外へ飛び出していった。空いた扉からは、険しい顔のヘガイの姿が見え、続いて帯剣した後宮近衛の一団が走っていくのが見える。


息を詰め、タラは慌てて扉に駆け寄る。だが、もうすでにその一団は廊下の突き当たりを曲がろうとしているところだった。


追いかけても仕方がない事態であることが、空気から嫌でも伝わってくる。嗅ぎ慣れてない暴力と血の匂いがその空気には混じっていた。


しかし、自分ではどうすることもできない状況だからこそ、余計に不安が襲ってくるというものでもある。

ささやかであったかもしれないけれど、大切な自分の幸せ。それが破壊されてしまうのではないかという、不安が心を侵していく――。


「エステル……」


心の思いが、タラの口から漏れ出ていった。


「きっと、大丈夫!」


突然の声にタラの肩は跳ねる。横を見ると、ぎこちない笑顔を浮かべているミナがいた。


「大丈夫、大丈夫」


自分に言い聞かせるように、繰り返すミナは、タラの背中を叩いてきた。ミナなりの気遣いなのだろう。いつもの天真爛漫な笑顔と比べると、どこか不安が見え隠れする。


タラは気持ちが落ち着いたとばかりに、少し無理して笑い、努めて明るい口調でミナに言葉を返した。


「さあ、わたしたちはわたしたちのすべきことをしましょ」


その声にミナは力強く頷いていく。息を合わせたようにタラとミナは、戸惑いと怯えを顔に浮かべている少女に向き直ると、笑顔で近づいた。


「わたしはタラ、こちらはミナにございます。失礼ですが、お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」


上位の女官に対する敬意を忘れずに、タラは少女に問いかける。なぜか、少女の顔はさらに困惑の色を深めていったが、どうにか絞り出すように声を出す。


「……ラジーラ」


まるで霧に溶けるような、小さな声。その消え入るような声をなんとか拾うと、タラはうやうやしく彼女の手を取る。


「ラジーラ中級女官様。まだ火はくべられておりますので、お身体も冷えていると思いますので、湯浴みはいかがでしょうか」


エステルに仕え始めてから、久しく使っていなかった格式張った言葉遣いに、どこか歯痒さを感じながら、タラは彼女に目で促していく。


「えっ……」


ますます戸惑いを浮かべて、ラジーラは後退りをしていく。しかし、その背には、いつの間にかミナが立っていた。ラジーラの肩がミナの身体に触れると、彼女の全身が硬直する。


慌てて、謝ろうとするラジーラだが、そんな彼女の様子に気づいているのかいないのか、明るい声でミナは背中を押していく。


「さあ、冷えたままではお身体に障りますよ」


ぐいぐいとラジーラを半ば強引に、ミナは浴場へと連れて行こうとする。こんな時に彼女がいると心強いなと改めて、タラは思う。


明るいミナがいると、わずかだが、ほんのりと空気が温まるような気がする。とはいえ、上下に厳格な女官との相性は悪いミナである。


現に今も、初対面の女官とは思えない馴れ馴れしさで、背中をぐいぐいと押し始めた。


自分がしっかりしなければと、タラは気合を入れ直す。


どこの中級女官かわからないが、エステルに所属する自分たちの質が悪いと噂が広がらないようにしなければならない。自分たちの評価はそのままエステルの評価にもつながるのだから。


そんな新たな悩みをタラが抱えているとは露知らず、ミナは変わらぬ明るさでラジーラに話しかけた。


「今夜は月が綺麗ですね……」


誰かを口説こうとしているのかと思うような、不器用な言葉がけ。なんとか会話を盛り上げようとミナは試みているが、一向に会話はちぐはぐで盛り上がる気配さえも感じない。


そもそも、状況が状況だ。盛り上がらない方が自然だし、そうする必要もないのではないだろうか。そう思ったタラは、横からさりげなく口を挟む。


「ミナ、ラジーラ様に合う衣裳を取ってきてくれないかしら。そうね――」


少し思案しながら、ラジーラの身体に上から下まで何度か目をやって、タラは目測する。


「ロザナ様のものが合うのではないかしら。お願いします」


そう言って、ミナを送り出すと、ラジーラにも丁重に言葉をかけた。


「ラジーラ様、ただいまご用意できますのは上級女官の衣裳のみとなってしまいます。ですが、次席女官長も含め、こちらはどなたもお気になさりませんので、ご安心くださいませ」


柔らかく、穏やかに伝えたつもりだったが、ラジーラはますます怯えてしまい、浴場へ行くのを少しだけ抵抗するように足を止める。


「でも……わたしは……」


その震える声に、タラはふと気づく。


エステルのところにいたのが長くなってきたのがよくないなと、タラは少しだけ内心で苦笑する。


後宮内での上下は絶対的な権威の差であり、その主従は身分の違いであり、崩れることがない掟でもあった。


女官たちでさえもそうであるのに、皇妃――それも政治戦略ではなく、皇帝自身によって選び抜かれた妃ともなれば、もはや崇拝の対象ですらある。


その権威者に仕える次席女官長の衣を纏うなど、恐れ多いにも程があるということだろう。


しかし、おそらくラジーラが思い浮かべる上級女官の衣裳と、ミナが持ってくるものとでは、大きくかけ離れているだろう。


上級女官ともなれば、妃ほどでなくても、それなりの煌びやかさがあるものだが、最近のロザナは実用性を優先し、動きやすい簡素な衣を選ぶようになっていた。


それもこれも、権威者であるはずのエステルが、頻繁に下女の姿で厨房に立つせいだろう。当然、その傍で仕えるロザナも、格式ばった衣裳など着ていられなくなった。


いずれにしても、祭儀用の衣裳はともかくも、実務用にあつらえたものであれば、ロザナも笑って許してくれるだろうし、周りから見ても上級女官のものとは思われないだろう。


そんなことを考えて、タラはできるだけ、嘘偽りのない誠実そうな声で、ラジーラにもう一度伝える。


「本当にどなたもお気になさりませんので、ご安心くださいませ」


その言葉に、なぜかラジーラは、覚悟を決めたかのような表情を浮かべるのだった。


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