第11夜 後宮の静かな夕餉
「望むものを何でも与えよとの王命です」とヘガイに告げられたエステルは、部屋こそ皇妃室に移動したものの、女官たちの顔ぶれはそのまま据え置き、新たな女官を加えることを拒んだ。
通常、皇妃には直属の中級女官が20名以上、さらに下級女官を含めれば総勢100名近くが仕える。それが後宮の慣例であり、伝統だった。
女官たちは単なる従者にとどまらず、情報網の一端を担い、主の権力を象徴する存在でもある。そのため、多くの側室たちが競って影響力を広げようとする中、エステルの慎ましい姿勢は異質であった。
「先の大戦で財政が悪化している帝国の状況を鑑み、皇妃自らが後宮の負担を軽減するよう、ご配慮されたのだ」という噂が広まり、その行動は賢明さと深い配慮の表れとして評価された。
さらにエステルは、新たな女官を迎えるどころか、後宮内の自らに割り当てられた区域を改装し、自身の上級女官だけでなく、中級や下級の女官たちまでもが同じ区域で生活できるようにしたのである。その決断は、従来の慣習を大きく覆すものであった。
こうして皇妃となって数ヶ月が過ぎて、後宮は落ち着きを見せ始め、気づけば春先となっていた。陽気な暖かさが戻るにつれて、痛みで陰鬱としたエステルの心も少し晴れやかになった。
「ロザナ、今日はわたしがしばらく調理場を使ってもいいですか?」
エステルはいつものようにロザナに髪を整えてもらっていた。ロザナは慣れた調子で、「よろしいですよ」と言う。
エステルはチラリと横にいたタラとミナを見ると、「お願いね」と一言伝える。
彼女たちは心得たようにうなずくと、エステル専属の執事として、新たに当てがわれた宦官ハタクをともなって部屋の外へ出ていった。
この部屋の中で唯一の新顔であるハタクは、皇帝直々の人事であった。その存在は、エステルを補佐するためだけではなく、彼女の監視役という側面も持ち合わせているのではないかとエステルには思われた。
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「ほら、もう行きますよ」
滅多にない外出の機会とバザールの熱気に当てられ、興奮する女官たちを見て、ハタクはため息をつきながら先導した。まるで見えない縄で彼女たちを引っ張るように、足早に歩き出す。
帝国の辺境リディア出身のハタクはかつて、辺境守備軍の指揮官としてペルシア軍に所属し、数々の武功を挙げた軍人だった。しかし、増加する反乱分子への弾圧が苛烈さを増す中、彼の故郷リディアでも過剰な弾圧が行われた。
その状況を良しとせず、軍を離れたハタクは、疑惑の目を向けられることになり、やむなく皇帝への忠誠を示すため、彼は去勢し、後宮警備の任を志願したのだった。
もともとの武芸に加え、強い忠誠心、さらには辺境の出身ゆえに多言語に通じていた彼は、エステル直属の宦官として抜擢されるに至った。
「ハタクはエステル様に何をあげたら良いと思う?」
馴れ馴れしい口調でミナが尋ねる。18歳になったばかりの彼女はまだ幼さを残しつつも、屈託のない笑顔を見せる。
「でも、エステル様が何かをもらって喜ぶようにも思えないです」
タラが首を傾げながら呟く。
まだ出会って数ヶ月のハタクも、普段の自室にいるエステルの装いを思い出して、そう思う。彼女は公の場に姿を見せるとき以外、宝飾品をほとんど身に着けず、もう少ししてもいいのではないかと思うくらい、化粧もごく薄かった。
また、エステルは後宮の階級や上下の慣習を好んでおらず、女官たちにもできるだけ対等に接してほしいと言っているらしい。
後宮に来た当初は他の女官たちの振る舞いに合わせて、エステル自身も敬称で女官たちを呼んでいたというのだから、面白い。
「故郷を思い出すようなものは?」
絞り出すようにハタクが提案する。しかし、そんな提案もタラにあっけなくはねのけられたしまった。
「でもエステル様はスサ出身なんですよね」
タラの返答は意外だった。ハタクの目には、帝都近郊の人々とはエステルの顔つきが少し違うように見えていたからである。
一般的なペルシア人のまっすぐで高い鼻梁を持つ彫刻的な顔立ちとは少し異なり、エステルのやや丸みを帯びた温和さが感じられる顔立ちは、むしろ、地中海側の辺境の町々に住む人々の顔に似ているようにも見えた。
思案するハタクの耳に、タラの弾むような声が飛び込む。
「綺麗!」
見ると、彼女たちが熱心に商人と話し込んでいる。その手には、深い青色で染められた衣裳が握られていた。
その布を見ると、彼の故郷から見える海を思い起こさせる神秘的な青だった。貝から抽出される染料を使ったその布は、地中海沿岸地域では珍しくないが、スサではほとんど見られない貴重品だった。
熱心にタラとミナは話し込んでいたが、やがて落胆の表情を浮かべて、そこを離れようとする。
「買わないのか」
ハタクが問いかけると、タラが言葉を返す。
「市井の特にバザールで買った布を皇妃様のお召し物にするわけにはいきませんから」
なるほど、その通りだと思いつつ、ハタクは思ったことを口にする。
「では、あなたたちが手作りをした装飾品では?」
手首や足首につける装飾品であれば、公の場では難しくとも、普段のエステルの姿を思えば問題ないようにも思えた。
ハッとしたような表情を見せたタラとミナは、合点がいったようで、ハタクに礼を述べて、織物商の露天に戻っていった。
しばらくして、戻ってきた彼女たちの手には青々とした毛糸の束があった。
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買い物から戻ると、下女が着る作業着をまとったエステルと、何か言いたげな表情を浮かべるロザナが出迎えた。その顔は、広がる困惑を静かに映していた。
その姿は、初めてエステルに会ったときのことをハタクに思い出させた。あのとき、彼女はなぜか下女のような格好をして、荷物を運んでいた。そのためにあろうことにも、ハタクは皇妃であるとは思わず、横柄な声かけをしてしまったのである。
今思い返しても、それは後宮の絶対的な権力の一角を担う存在への侮辱とも言える大失態だった。それにもかかわらず、エステルは怒るどころか、あっけらかんと笑って受け流してくれた。
その寛大さに感謝しつつも、なぜ彼女があのような紛らわしい真似をしていたのか――。当時は少しばかり苛立ちすら覚えたのを思い出す。
だが、今になってみれば、それもまたエステルらしいと納得できる。彼女は常に「特別扱い」から距離を置き、何よりも自然体であろうとしているのだ。
最初こそ、後宮にふさわしい雰囲気を、と意気込んでいた女官たちだったが、エステルの自然体の雰囲気に次第に飲み込まれ、特に皇妃となった後は、自室内に限ってはある程度は自由に振る舞わせているようだった。
とはいえ、まさか子羊を捌き始めるとは思っていなかったのだろう。皇妃室に備え付けられた専用調理場は、菓子の準備や毒味のための場所で、後宮の調理場に比べれば簡素な設備しかない。
「大丈夫ですか?」と少し不安げに尋ねるロザナに、「実家の調理場よりも広いので、大丈夫です」と、エステルは少し見当違いな答えを返す。
ロザナの心配をよそに、最初こそエステルはナヴァズに子羊を押さえるのを手伝ってもらいながら、皮を剥ぎ取っていたものの、腹を切り開き、ひとりで内臓をひとつひとつ丁寧に取り出していく、そのさまは手慣れたものだった。
今回の買い物の目的は、宗教行事用の一頭の子羊を手に入れることだった。ゾロアスター教を篤く信仰する王侯貴族が暮らす帝都では、規定に従った血抜きがされた子羊が売られているが、ちょうど先日、新年の祭り<ノウルーズ>が終わったばかりで品薄となっており、手に入れるのに苦労した。
エステルは子羊を長い串にしっかりと固定し、火床の上にそっと載せた。じわじわと炭から立ち上る熱が子羊全体を包み込み、皮の表面がゆっくりと黄金色に変わり始める。脂が溶けて滴り落ちるたび、炭の上で弾ける音がかすかな香りと共に漂ってくる。
ハーブとオリーブオイルを混ぜた液を手際よく塗り重ねるたび、表面には深みのある光沢が浮かび、焼けた皮が滑らかな層を成していく。その下には、火の温もりでじっくりと熱が伝わり、肉が柔らかく煮詰まっていくのが感じられた。
串をゆっくりと回しながら火加減を均一に保つと、皮と肉の間から湧き出る香りが、調理場全体に広がった。やがて肉の表面には絶妙な焦げ目がつき、焼けた香ばしさが一層深まる。光と影が入り混じるようなその見た目は、芸術的な輝きを放っていた。
焼き上がった子羊を串から外すと、厚みのある肉がまるで繊細な絹を裂くようにナイフで切り分けられていく。その断面からはほんのり湯気が立ち上り、豊かな香りが一層際立つ。肉はしなやかな層を成し、見る者に柔らかな口当たりを予感させた。
「どうぞ、みなさん、気楽に座ってください」
エステルの促しに、おずおずと席に着く女官たち。はた目に、どちらが主人なのかがわからなかった。こうして、おそらく後宮が建てられて以来初めての、皇妃の手料理による晩餐会が静かに幕を開けたのである。
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