第10夜 皇帝に捧げられし者
息を吸うと、胸いっぱいにミルトスの香りが広がった。
後宮に来て一年が経ち、エステルにも皇帝の御前に出るようにという命がきた。そのため、愛と純潔の象徴であり、祝いの木ともされるミルトスの香りで燻される清めの儀式が行われたのだ。
揺れる燭台の光が壁に無数の影を踊らせる中、ミルトスの香りは濃密で、エステルの心に静かな重みを与えた。
「参りましょう」
フェリザが静かに手を取る。儀式の部屋を出た瞬間、冷たい空気の中に香りは急速に霧散し、名残の甘い余韻だけが漂った。
ミルトス――ヘブルの言葉で<ハダッサ>の香りが霧散する様は、自らの名<ハダッサ>が消え、<エステル>という名でしか生きられない運命を思わせるようだった。
待ち受けていたヘガイはエステルを見上げ、わずかに微笑むと、自身で見繕った宝飾によってエステルを彩った。
「本当にわたしが選んだものだけで良いのですか」
ヘガイが念を押すように確認をしてきた。皇帝の御前に出る際に身につける宝飾の数々は、どんなものでも手元に残すことが許されていた。それは皇妃候補だけに与えられる特権だった。
エステルを覆うのは色彩豊かな煌めく衣裳と、宝飾の数々。しかし、エステルは心の中で思った。この宝飾を手元に置いて何の意味があるのだろうか。後宮から出ることが叶わないなら――。
エステルは静かに首を横に振る。
「ヘガイ様が勧めてくださったものだけで十分にございます」
エステルが女官たちの前に出ると、女官たちが一同、低頭して祝いの言葉を次々と述べるが、どこか表情は暗い。
皇帝の招きは、ある者にとっては栄誉が与えられる可能性がある喜びの機会でもあるが、ある者にとっては恥辱が与えられる必然の時だった。
エステルにとっては後者だった。一年間共に過ごしてきた女官たちは皆それを痛いほど理解していたのである。
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コツコツと足音が回廊に響き渡る――。後宮の奥深くから皇帝の寝所へと続く道。その長い回廊は、豪奢さと静寂が絡み合い、冷たい威厳を漂わせていた。
高い天井には繊細な幾何学模様が刻まれ、銀製の燭台が等間隔に吊り下げられている。その揺れる炎の光が滑らかな
大理石の床に映り込み、淡い水面の波紋のように揺らめいていた。
足元の黒い大理石は、冷気を放ちながら薄絹を着重ねた衣裳を通り抜けて肌に忍び寄り、全身を包み込むようだった。静寂に満ちた空間で響くのは、一定のリズムを刻む足音だけ――。
その音ですら、この場所では過剰に響き渡り、重たく圧し掛かるように感じられる。
壁面には戦勝や豊穣を象徴する彫刻が彫り込まれ、鮮やかな彩色が施されている。その壮麗さは皇帝の権威と神聖さを余すところなく物語っていた。だが、その華やかさは、かえってエステルの胸に目に見えない重圧をかけるかのようだった。
回廊の先にそびえ立つ重厚な扉。その向こうに広がるのは、ペルシア帝国の中心たる王の寝所。だがそれは同時に、獰猛に食らい尽くし、獲物の骨をくわえる熊のような存在が住まう場所でもあった。
エステルは微かに震える手で胸元を押さえた――。目の前の扉は、この世の神が住まう入り口は、自身の尊厳との最後の境界線でもあるように思われた。
エステルの故国の民に好意的ではない異教の王との契りは、恥辱であり、背教であり、神への裏切りであり、純然たる苦しみそのものだった――。
肉体的な痛みだけでなく、待ち受ける運命は精神的にも霊的にも、自分にとって想像しうる限り最も過酷な試練に思えた。
幼い頃に聞かされたお伽噺が、不意に頭をよぎる。悪魔に襲われた男の物語だ。その男の妻は、夫の苦難を前にこう言ったという。
「あなた、まだ自分を堅く保って全うしようとするのですか。神を呪って死を選びなさい」
その言葉は、これまで何度もエステルの心の奥底で囁き、疼き続けていた。しかし、今は――。
もし自分がその道を選べば、命を賭して守ろうとするロザナや、共に心を通わせたミナ、タラ、ナヴァズ、そしてフェリザらが連座し、罰せられるだろう。その想像は、胸を切り裂くような痛みを伴った。
差し出される苦い杯を飲み干す――。それが、彼女たちを救う唯一の道であるならば。それが支えを受け止める覚悟ならば。
たとえ、それが恥辱にまみれ、背教と罵られ、神に見放されたかのように感じられるものでも――。
エステルは自分の覚悟をもう一度反芻する。自分だけが安らかに清く眠り、彼女たちに眠れぬ苦難と悪夢を与えることはできない。
深い暗闇の中で、自分の心がついてこなくても、頭では先がわからなくても、それが正解かどうかもわからないままであっても、身体を動かすことはできる。
静かにエステルは頭を下げ、葛藤を飲み込むように深く息を吸った。そして、足元に確かな力を込めながら、ヘガイが押し開いた部屋の中に入る一歩を踏み出した――。
内側から豊かな香油の香りと暖かな空気が溢れ出し、瞬く間にその場を包み込む。その香りは甘美でありながら重たく、鼻腔に絡みついて離れない。
それは、皇帝の夜を飾るためのものであり、それは同時に、女性たちにとっては試練の香りでもあった。皇帝の歓心を得ることは栄誉であり、権力への道が開かれることを意味する。だが、それは多くの場合、彼女たちの意思を問われるものではなかった。
エステルは、逃げ出したくなる衝動を押し殺し、緊張に押しつぶされそうな胸の内を静めるように、深く息を吸い込んだ。
寝台の周囲には、香炉がいくつも置かれ、金色の煙がゆらゆらと立ち昇りながら、宙に複雑な模様を描いて消えていく。
突然、暖かな空気を消え、冷気が身を包んだように感じた。それは何かを失ったかのような感覚でもあり、冷たい汗が背中を伝う――。
それは、まるで何かがわたしから剥がれ落ちたかのようだった。
神から見放されたような思いがエステルを激しく襲ってきた。もはや、自分は神に愛される者ではないのだろうか。
ずっと、神はわたしを見てくださっていると信じていた。どんなに小さな祈りも、どんなに孤独な夜も、神はわたしのそばにいてくださると信じていたのに――。
今、この瞬間はひとりであるかのように思われた。神は、わたしを見捨てたのだろうか――。
これでいいのだろうか――。
胸が詰まるような感覚が押し寄せる。浅い息が胸の奥で絡まり、鼓動が耳の奥で跳ね回る。冷たさと静けさだけが、全身を締め付けていくようだった。
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煌びやかな宝石も、数が増えればただの石。舌を打つ料理も毎日食べれば、やがては飽きる――。同じように、どれだけの夜を過ごしても、クセルクセスの欲望が満たされることはなかった。
やがて、それらは日々の食事のように、何の特別さもない「日常」へと成り下がり、彼の心から興味を奪い去っていった。
扉の外からヘガイの声が響く。クセルクセスは横柄に応じた。間もなく扉が静かに開き、彼女が現れる。
柔らかなミルトスの香りに包まれたような彼女は、素朴な美しさに満ち、知性が漂うその面立ちは、どこか特別だった。今まで目にしてきたどの女性とも違っている。その佇まいには品性が滲み出ており、一瞬でクセルクセスを惹きつけた。
彼女の瞳には、野望も欲望も怯えもなかった。それどころか、自分に向けられた慈愛さえ感じられる気がした。それは、あまりにも場違いで不思議な感覚だった。
その高貴な輝きを持つ眼差しに触れるたび、クセルクセスの心には何かが疼く。それは、自らの下劣な品格を見透かされたような、微かな譴責の念だった。
だが、それ以上にその輝きを曇らせたいという罪深い欲望が、ゆっくりと胸の内を満たしながら、熱を帯びていく。
野望に燃える貴族の娘の顔でもなく、怯えきった町の娘の顔でもない。気品に満ちたその姿は、かつてのワシュティを思い出させると同時に、彼女を自らの支配下に置きたいという抑えがたい衝動を掻き立てた。
クセルクセスは立ち上がり、一歩踏み出し、そして――。エステルに手をかけ、肩を引き寄せた。
それから一ヶ月後、エステルは<シャーサーレ>――皇帝に奉納された高貴な存在として、公に宣言され、正式に皇妃の座に就いた。
皇帝は冠をエステルの頭上に抱かせ、多大な贈り物を下賜した。さらに、諸州には税の免除を布告し、盛大な戴冠の祝宴を催したのである。
だが、その祝宴の余韻が冷めやらぬうちに、二回目の皇妃候補の選定を告げる布令が、王宮の内外に鈍く響き渡った――。
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