第1夜 英雄を支配するモノと星の姫
悔やんでも悔やみきれない――。
固く閉じられた門を見つめながら、エステルは胸の内でそう呻いた。
町の市場で偶然耳にした役人の布令。それが運命の歯車を狂わせたのだ。
「国中から美しい若い女を集める――」
ほんの数歩、足を止めただけだった。けれどその一瞬、まるで誰かの人生に紛れ込んだように自分が自分でなくなり、気づけば運命は、別の線路を静かに走り始めていた。
役人たちはエステルを見るなり、その黒髪の美しさと端正な顔立ちを一瞥して判断を下した。有無を言わさず腕を掴み、後宮へと引き連れていったのだ。
もはや人さらいと何が違うだろう。だが、それがペルシア帝国の王命であるならば、誰も逆らえる者などいない。
役人たちは任務を果たした安堵の表情を浮かべ、晴れやかに後宮を後にしたが、彼らが置き去りにしたのは、暗闇の中に放り込まれたようなエステルだった。
目の前に広がるのは、この世で最も煌びやかな空間――後宮。皇帝クセルクセスの遊び場と化した光の豪奢は、まるで闇を隠すための化粧のようだった。
まわりに目をやると、皇妃の座を目指し、夢を膨らませて目をギラつかせた女たちがいる――。だが、エステルにはそんな夢などなかった。
火照った肌とは裏腹に、冷気じみた不安が内側から這い出し、エステルの視界は現実の輪郭を曖昧に溶かしていく。
息を整えつつ、喧騒から遠ざかるように歩き出し、後宮の門を横目にエステルは心の中で呟く。そんな椅子より、家にある質素な木の椅子がいい――。
そこで養父モルデカイが作る子羊の煮込み料理を食べながら、静かに過ごす時間を思い描く。
幼い頃に両親を亡くして以来、モルデカイはエステルにとって唯一の家族だった。そして同じように、モルデカイにとってもエステルはかけがえのない存在だった。
義父は、後宮に関わる役人だった。
特に仕事について、エステルに多くを言ってはこなかったが、後宮内が陰謀で渦巻いているのは、時折、顔に滲み出る苦労の端々から見え隠れしていた。
そんなエステルの願いはただひとつ。後宮などとは関わらずに静かに生きること。
王宮には陰謀が渦巻き、命を落とす危険すら孕んでいた。それに、先の皇妃ワシュティが廃妃された時に流れた嫌な噂が、いまだに記憶に残る。
彼女はふと、手に目を落とした。荒れた手には水仕事の痕が赤く浮いていた。考えてみれば、化粧をしたことなど一度もない。
華やかな貴族や芸事に秀でた有力者の娘たちと比べ、平凡な自分が選ばれるはずがない。役人たちも、結局は自らの保身のために、目についた娘を適当に捕らえただけではないだろうか――。
「選ばれるはずがない……よね?」
顔のこわばりがほぐれたエステルは、目立たないよう、隅にある石造りの花壇へと静かに腰を下ろした。ギラつく女たちの視線を避け、できるだけ目立たず、選ばれることのない影の薄い存在になろうと決意し、小さく嘆息する。
そうすれば、いずれ後宮から追い出されるかもしれないとも思った。
だが、その考えは甘かったのかもしれない、エステルはまだゆっくりと近づいてくる男に気づいていなかった――。
視界の隅で、女たちが一斉に姿勢を正すのが見えた。エステルが反射的に立ち上がった。心臓が一度、脈打つように跳ねる。目の前に立つ男の顔は、はっきりとは見れなかった。
「君の名前は?」
静かに響いた男の声に、背筋がこわばる。
その時に、養父の暖かい声と忠告が思い出された。本当の名前を明かしてはいけないよ――。
口の中が乾いて、うまく声が出なかったけれど、どうにか声を出していった。養父が本当の名前につけてくれた大切な名前を。
「エステル……と申します」
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激しい轟音が耳を裂き、橋桁が次々と流されていくのを、ハタクは呆然と見つめていた。ペルシア帝国の誇りとされる架橋が、荒れ狂う川に飲み込まれ、消え失せたのだ。
目の前の惨状に、ただ息を呑むしかない。これがただの失敗ならまだしも、これから始まる大戦争の前に起きた凶事――。まるで、目の前に神が立ちふさがっているように思えた。
「自然を支配する神か、英雄を統べるクセルクセスが上か、明らかにしようではないか」
険しい声が響くと、緊張が場を支配した。皇帝は、まるでその名<英雄を支配するモノ>クセルクセスを体現するかのような尊大な態度で、忌々しげに海峡を睨みつけた。
まるでその視線だけで波を鎮められるとでも言うように、皇帝の威圧感が辺りを支配している。
ハタクは皇帝の後ろに控えながら、冷たい汗が背中を伝うのを感じた。皇帝の視線を最も間近で受けているのは橋の建設監督官だった。怯えきった男の顔は蒼白で、膝は震えている。だが、運命は容赦なかった。
「300の鞭を入れよ」
ハタクの心臓が跳ね上がる。一回でも失神し、50回で死に至る拷問――。それを300回。絶望的な運命に、監督官の目には生気がなくなりつつあった。
哀れな監督者に同情の目を向けながら、ハタクが鞭を手に取ると、皇帝から鋭い言葉が飛んできた。
「違う。その者ではない。忌々しい海を刑に処せ」
監督官を処刑する代わりに、彼の怒りは無機質な自然――荒れ狂う海へと向けられた。
動揺を必死に飲み込み、ハタクは鞭を手にした。恐怖と混乱を押し殺し、命じられるままに荒れ狂う海へと向かう。冷たい波が足元を濡らす中、鞭を振り上げ、振り下ろす。
一振り、また一振り――。それが意味を成す行為でないことは誰の目にも明らかだった。だが、皇帝の視線を背に感じるなか、理不尽さに逆らうことなどできなかった。
風に散らされる水滴が冷たく頬を叩くが、彼の頭は熱く火照るようだった。恐怖に背中を押され、振り下ろすたび腕に痛みが広がる。数を数える余裕などなく、ただ動き続けた。
「隊長、もう大丈夫です――」
部下の声が耳に届いた瞬間、ハタクは手を止めた。
「皇帝陛下は満足されて、宿営に戻られました」
その言葉に、ハタクは心底ほっと息を吐いた。緊張の糸が切れると同時に、肩から腕にかけて痺れるような痛みが広がっているのに気づいた。鞭を握る手は震えたまま動かない。
丘に戻ると、そこには監督官の首が転がっていた。恐怖に引きつった表情を残したままの首。それでも、その表情のどこかに安らぎが宿っているように思えるのは、自分の想像だろうか。
斬首であれば、まだ苦痛は少なかっただろう。ハタクは虚しさを抱えた目で、転がる首をじっと見下ろした。
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皇位を継いだクセルクセスは、当初は遠征に乗り気ではなかったが、第一次ペルシア遠征時に次帥であったマルドニオスの説得により、バビロニアとエジプトを平定すると、ギリシア遠征を決意。
それに先立ち、首都スサでは180日に及ぶ大宴会が催されることになった。
臣民の忠誠を高め、軍部や貴族層の支持を盤石にする。皇帝の狙いは明白だった。
宴会では、誰もが思う存分に酒を飲み、甘味を貪り、贅沢の限りを尽くしていた。金銀や種々の宝石で彩られた調度品、大理石で埋め尽くされた床、その上に積み上げられた食物の山。考えうる放蕩のすべてがそこにあった。
その喧騒をよそに、メムカンはつまらなそうに杯を傾けていた。
王権の光を受ける影でしかない自分。いくらこの国の七貴族のひとりであろうと、皇帝に仕える限り、彼はただの従属者に過ぎない。煌々と照らす太陽のようなクセルクセスの権力は、メムカンの存在をいっそう無力に感じさせるだけだった。
皇帝の顔を見ることさえもゆるされないこの国において、皇帝に謁見し、助言をもたらすメムカンは国の首位に座する人物でもあったが、それでも満足はできなかった。
特に、愚王と言ってもいいクセルクセスと比べて、皇妃ワシュティは慎み深く聡明で、目の上のたんこぶだった。
今も、奔放で堕落しきったこの空間に足を運ばず、別会場で女性たちだけの酒宴を設けているのだという。
その皇妃の聡明さゆえに、メムカンは権力の掌握にあと一歩のところで足踏みをせざるを得なかった。
だが、状況は変わりつつあった。ヘレスポントスの海峡工事が頓挫したことにより、勢力図に動きが生まれ、ギリシア遠征の軍議において発言力を強めることができたのだ。
皇妃を引きずり下ろせる日も近づいた――。そう考えると、自然と口元にほくそ笑みが浮かぶ。
そのとき、侍従が慌ただしく近づいてきた。
「メムカン様、皇帝陛下がお呼びでございます」
「何ごとか?」
「ワシュティ皇妃の美を見せたいとのことです」
心の中で「またか」と毒づきつつも、表情には微笑を浮かべる。
「それは、それは。さぞ美しく着飾られて来られることでしょうな」
侍従がさらに口を開こうとして言葉を詰まらせたのを見て、メムカンは眉をひそめる。
「どうした、何か言い難いことでもあるのか?」
「はっ、ワシュティ皇妃が御前に出ることを拒まれておりまして……」
心の中で動揺が広がる。ワシュティが拒む――。どういうことだ。
「何があったのだ」
「皇帝陛下が、ワシュティ皇妃の美を損なわぬよう、そのままの姿でお越しになるよう命じられたのです」
「そのまま……?」
「お召しものをまとわず、とのご命令です」
メムカンは思わず天を仰いだ。口には出せない苛立ちを押し殺しながら、侍従に向き直る。
「それで?」
「七貴族の方々に、この件についてお知恵を賜りたいと仰せです」
世界の覇者たるペルシア帝国の中枢にして、頭脳たる七貴族の当主たちが酔っぱらいに絡まれなければならないとは、世も末だ。そんな愚痴をこぼしたくなる。
誰も周囲にいなければ、メムカンは大声で叫び散らしていただろう。だが、今は皇帝に仕える身。彼の苛立ちは、心の内に押し留められるしかない。
メムカンは心の中で大きく息を吐いてから、努めて平静を保って言った、
「王命とあれば、お応えするほかありますまいな」
燃えるような期待と、何か冷たい予感が、彼の胸に交錯していた。だがその火種が、思いもよらぬ一人の娘にまで及ぶことを、彼はまだ知らなかった。
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