朝の珈琲とシュエのこと
ベッドに入ってうつらうつらしていると、一階から何やら揉めるような声がしていることに気づいた。
何が起こったのかと思い、ユエルはそろりと部屋を抜け出す。
夜の闇に紛れて狩りをするしなやかな猫のように音を立てずに階段まで向かう。
静かに動くことは得意だった。
獣神殿で過ごす夜は、空鯨の眠りを妨げないように音を立てずに密やかに過ごすという決まりがあったからだ。
それでも眠れない夜は、神殿にある物見櫓に登ることもあった。
眠りながら空鯨はゆっくりと地上に近づいていく。
物見櫓で星を見上げながら、雲を抜けて少しずつ墜落するように地上に近づいていく世界を見ているのが、ユエルは好きだった。
(あれは……ジルゼアム様……?)
あまりよくないことと思いながら、シュエが心配だったので階段の上から壁に隠れるようにして一階を除いた。
視界の先には、ユエルが獣失を起こした時に労いの言葉をかけてくれた、皇太子の姿がある。
(兄上……シュエラウル様……)
ジルゼアムは、シュエを兄上と呼んでいた。
怒るジルゼアムの話を、終始穏やかに、それから少し困った様子で聞いているようだった。
大きな揉め事になるような様子もなく、ジルゼアムは帰っていって、ユエルは急いで部屋に戻った。
シュエがユエルのために用意してくれた部屋は、木枠のベッドが一つと、今日一緒に買い物に行って買ってきた服などが入っているクローゼット、文机が一つある来客用の部屋だ。
シュエは「泊まるような客は来ないんだけど、一応ね」と言っていた。
ふと心配になったユエルが「恋人はいないんですか?」と尋ねると、慌てたように「いないよ」と答えていた。
柔らかく、暖かなベッドに入ってユエルは眠った。
会話から察するに、シュエはジルゼアムの兄。
けれどどうして、こんなところで一人で過ごしているのだろう。
そんなことを考えていたら、いつの間にか眠りに落ちて朝を迎えていた。
二階にある洗面所で顔を洗って、着替えをして身支度を整えると、ユエルは一階に降りる。
すでにシュエは起きていて、ユエルの姿に気づくと「おはよう」と、挨拶をしてくれた。
「おはようございます、シュエさん」
ユエルはカウンターのキッチンの前に立っているシュエの横へと向かって、背の高いシュエを見上げる。
「よく眠れた?」
「はい」
「そう、よかった」
「シュエさん、朝は何からすればいいですか? 獣操士であったときは朝は掃除からしていました。体と、空間を常に清めておくのが礼儀でしたから。掃除をしますか?」
「まだ起きたばかりなんだから、そんなに慌てて何かをしなくていいよ」
「でも」
「そうだね、それじゃあ、朝は俺と一緒に朝食を食べて、珈琲を飲もうか。それがユエルの仕事」
「……シュエさん。私は、恩を返さなくてはいけません。私に甘くするのはいけません」
「あはは……真面目だね、ユエル。じゃあ、甘やかされるのも仕事だと思って」
シュエは笑いながら、ユエルの頭を撫でた。
大きな手のひらに、優しく髪を撫でられると、何かしらの動物になった気持ちを味わった。
「パンを焼いて、珈琲をいれよう。一緒にやってみる?」
「はい!」
「珈琲豆は、街の焙煎屋のティトさんから買っていてね。そこの棚の袋に入っているから、持ってきてくれる?」
「わかりました」
棚に並んだ袋から、珈琲豆の絵が描いてある袋をユエルは持ってくる。
シュエに手渡すと、シュエは袋を調理台に置いて開いた。
袋を開いた途端に、中に入っている黒い豆から香ばしくよい香りが立ち昇った。
「いい香りがします」
「うん。そうでしょう。目が覚めるし、落ち着く匂いだね」
「はい」
「これを、珈琲ミルに入れて、豆をひくんだよ」
シュエは四角く、銀のハンドルがついている珈琲ミルを取り出した。
箱の中に豆を入れて、ハンドルを回すと、ガリガリ音がする。
シュエに促されるままに、ユエルはハンドルを手にして回した。
静かな朝の喫茶パライナに、豆をひく音が響く。
「そのぐらいでいいかな。豆からコーヒーをいれる方法はいくつかあるんだけれど、今日はペーパーフィルターを使おうか」
水さしに似た形のガラス製の器に、ペーパーフィルターをセットして、そこに砕かれた珈琲豆を入れた。
先の細いケトルでゆっくりと回すようにしながらお湯を注いでいく。
ペーパーフィルターから、ポツポツと良い香りのする茶色い液体が染み出して、ガラスの器へと溜まっていく。
シュエにケトルを渡されたユエルは、戸惑いながらシュエを見上げた。
「大丈夫。焦らないで、ゆっくり。回すみたいにしながら、お湯をそそいで」
「はい……」
慎重に、ユエルはケトルから湯をそそいだ。
細口の先端から流れる湯もまた細く、けれどケトルを傾けすぎると量が多くなってしまう。
湯量が多くなると、ペーパーフィルターの中で沸々と泡立つようにして膨らんでいる珈琲豆が、フィルターから溢れてしまう。
できる限りゆっくり、ユエルは細心の注意を払いながら手を傾ける。
「うん。上手。ユエル、上手にできているよ」
「ありがとうございます」
「時間がかかるでしょう、珈琲一杯いれるだけなのに」
「はい」
「だからね、朝から焦って何かをしなくていいんだよ。お客さんなんて昼過ぎに来たり来なかったりだしね」
「そうなのですね……」
「うん。昼過ぎまで寝ていることもあるし」
ガラスの器がいっぱいになると、シュエはユエルからケトルを受け取った。
ペーパーフィルターを外して、珈琲をカップにそそいでくれる。
昨日と同じように、カウンター席ではコアリクイのぬいぐるみがくったりと座っていた。
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