シュエラウル・イスフィミア
ユエルは、もう寝ただろうか。
一階にある喫茶店の店内のカウンター席に足を組んで座って、シュエは耳を澄ませる。
ユエルは自分から率先して色々と話をする方ではないし、生活音もとても小さい。
ともすれば共に暮らしているのを忘れそうに──は、流石にならないが、一人暮らしが気楽だったシュエにとってユエルの存在は、同じ家で暮らしていても全く気にならなかった。
それぐらい、ユエルという女性は遠慮がちで大人しい。
華奢で小さな体に、雪原を思わせる白い髪。秋の紅葉を思わせるアプリコットの大きな瞳。
ふっくらとした薔薇色の頬に、桜色の唇。
獣失が起こってしまい本来の黒髪は失われてしまった。それでもユエルは、ただそこに立っているだけでも人目を引くぐらいに美しい女性だ。
女性というには少し若いだろうか。けれど、少女というには年嵩な、中途半端な年齢だ。
聖イスフィミア皇国では十八はすでに大人とみなされているので、女性といいきってしまっていいのだろう。
けれどどうにも、ユエルを女性と言ってしまってはいけないような、それは禁忌であるような妙な拒否感がシュエの体を支配している。
それはまるで、誰も触れたことのない新雪に不躾に靴跡をつける行為に似ている気がする。
ユエルはシュエを信頼している。
それは、ユエルの視線や表情や声や言葉を聞いていれば、分かる。
シュエは今までずっと一人を好み、他者を必要以上に側に置かない生活を送っていたせいで他者の感情に鈍感になっている可能性があるとはいえ、それぐらいは分かる。
その信頼を、裏切りたくない。
ユエルを女性だと思ってしまうことは、自分が男だと認めることと同義だ。
シュエは男ではあるが、ユエルにとっては安心できる肉親──兄のような、存在でありたい。
長らく獣操師として働き、家族に見捨てられ、皇国の人々から冷たい視線を向けられて傷ついたユエルを、安心させてやりたかった。
「……はぁ」
カウンターに肘をついて、額に手を置いてため息をつく。
(恋人なんて、言ってしまった……)
妹のように思っていると言ったのに。
兄のように思って欲しいと、考えていたのに。
まるでユエルをいないもののようにして話しかけてくるメルディに苛立って、余計なことを言ってしまった。
それは正しかったとは思う。面倒なことに巻き込まれたくはない。
ユエルを傷つけたくもない。
よく知らないウェイトレスの女性よりも、光玉がシュエの元へと案内して、その姿を一目見て手を差し伸べると決めたユエルの方が、シュエにとってはよほど大切だ。
ビストロアメリアに行かなければよかったのだろう。
けれど、エスナのことが気になり、それとなくウェイトレスの姿を見るつもりだった。
まさか痴情のもつれの渦中に自分自身がいるとは、思わなかったのだ。
恋人だと告げた時のユエルの驚いた顔と、一生懸命シュエの言葉に口裏を合わせようとしてくれていた健気な様子を思い出す。
その素直で飾らない言葉は、嘘と欺瞞に塗れて生きてきたシュエにとってはとても、心地よく響く。
誰かから向けられる感情は苦手だ。
けれど、それがユエルであれば。
別に、構わない。それどころか、嬉しいと、感じる自分に気づいている。
同居人として、穏やかな暮らしを送りたい。送らせてあげたいと、思うのに、だ。
「……ん?」
ふと人の気配を感じて、シュエはカウンター席から立った。
時刻は午前零時を回っている。どうにも眠れそうになくて、こんな夜更けに珈琲を飲んでいたシュエの眠気は、さらにどこかに飛んでいってしまった。
二階にユエルが眠っていると思うと、今日はあまり、近づかない方がいいような気がしている。
そう思っているのに、それとは真逆で、安らかに眠っている寝顔を見てみたいとも思いそうになるのだから、困ったものだ。
こんな夜更けにこの場所を訪れる者はまずいない。
夜は完全に、喫茶パライナは閉じている。
シュエの魔力で、空間を捻じ曲げて、誰もこの場所に足を踏み入れることができないようにしているのだ。
ユエルのような、光玉が選んで導いた、例外を除いて。
「……誰かな」
おおよその検討はついていた。
この場所にこの時間に来ることができる者など、シュエは一人しか知らない。
「……シュエラウル兄上」
玄関の扉を開くと、そこには夜に紛れるように黒いマントに身を包んだジルゼアム──シュエの腹違いの弟が佇んでいた。
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