鯨の恩赦
聖イスフィミア皇国の皇都エルヴァーンにあるワルファス大神殿の最奥、神殿から続く空中回廊を抜けた先に獣神殿がある。
獣神殿の『祈りの間』は、六角形の部屋の中央に大きな翡翠色の石である、獣の碑石が置かれている。
獣の碑石は、別名『鯨の瞳』と呼ばれている。
ユエルの瞳は獣操士の力が発現してから、その石と同じ翡翠色に変わっていた。
けれど、嫋やかな黒い髪はぱさついた白に、神秘的な翡翠色の瞳は元々の色であるありふれたアプリコット色に戻っていた。
倒れたユエルは神官たちによって、医務室へと運ばれた。
獣失が起こると、丸一日は動くことができない。
獣失が起こる理由ははっきりとは分かっていないが、長らく命を削り空鯨にそれを魔力として分け与えることを続けていると、体が限界を迎えて、魔力が体から抜けてしまうからと言われている。
それは空鯨の恩赦とも言われている。体が限界を迎えても尚、獣操士としてのお勤めを続けていると、全ての生命力を失い死んでしまうからだ。
獣失が起こらずにお勤めを続けて、若くして命を落とす獣操士も多い。
けれど――空鯨に命を与える仕事は名誉だ。
獣操士の多くは、獣失を起こさずにお勤めを続けて、空鯨の糧となり殉じたいと願っている。
ユエルもその一人だった。
(私は、空鯨と共に、生きて死にたかった)
医務室のベッドに横たわりながら、ユエルはそう思っていた。
獣失が起こった以上は、十歳からずっと暮らしている――この場所に、いることはもうできない。
獣操士の仲間たちと、お別れを言うこともできない。
獣操士とは国で保護するべき貴重で稀有な存在だ。もう獣操士ではないユエルと彼らの間には、一瞬にして深い溝ができてしまった。
ただの人となったユエルは、彼らに会うこともできない。
「残酷な処遇だと思うかしら、ユエル。長年共に務めた仲間に会いたいと思うだろうけれど、かつてそれを許した際に、獣操の力を失ってしまった我が身を嘆き、獣操士を殺めた者がいたのよ」
医務室を預かっている治療師のエルジナが言う。
一日、ユエルの面倒を見てくれた。治療の魔法が使える神官である。
「……仕方ないことと思います。私は、力を失ってしまったのですから」
「そう、悪いことではないわ。獣操士であれば国に一生を捧げなければいけない。けれど、あなたはもうそうではない。あなたは若くして、鯨の恩赦を得られたのだから」
「空鯨様は、私を嫌ったのでしょうか」
「それは違う。空鯨様はあなたに許しを与えたの。命を失わないようにね。あなたは若いのだから、まだ先がある。これからは自分の人生を生きなさい」
ユエルはベッドに横たわりながら、涙をこぼした。
十歳で獣操の力を発現した時は、なにがなんだか分からなかった。
気づけば獣神殿に連れてこられていて、獣官長の指導の元、お勤めがはじまった。
獣官長シルヴァは、ユエルにとって実の父よりも、父らしい存在だった。
けれど、もう会うこともできない。
涙がはらりと零れて、目尻を流れて髪をしっとりと濡らした。
(自分の人生……)
そんなもの、考えたこともなかった。
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