序章:獣失
──視界が白く濁っていく。
その時、大きく目を開いているはずのユエルの瞳には誰の姿も映っていなくて、差し伸べた手を掴む人間も誰一人としていなかった。
実際にはほんの一瞬のことだったのだろうが、ユエルには世界がゆっくりと傾いていくように感じられた。
水の入ったグラスを覗き込んで世界を眺めるように、傾いてゆらゆらと揺れる世界の揺れが収まった時、ユエルは床にしたたかに体を打ちつけて倒れていた。
一瞬、息が止まった。
見開いた目には、幾何学模様のある天井がうつっている。
幾何学模様の中に小さな鳥を見つけて、(とり……)と思った瞬間、世界に音が戻ってきた。
音が戻ると同時に、体も痛みだした。
どくん、どくんと、心音が刻むリズムと共に、ズキズキと背中や腰が痛む。
(私、倒れたんだな……)
さっきまでは、普段通りに生活していたのに。
数秒前、倒れる前の自分と今の自分は、別人のように感じられた。
床に倒れるユエルの、目深に被っていたフードから、長い黒髪が顕になる。
髪は、魔力を溜め込む。
聖イスフィミア皇国ではそれが信じられていて、獣操士としての力が発現した者は、髪を切ることを許されなかった。
ユエルの髪は十歳から、十八になる今までずっと伸ばしていて、毛先は今や腰の下よりも長い。
床に広がる黒い髪が、毛先から白く、色を変えていく。
「獣失だ……!」
「ユエルさん、あぁ、なんてこと……!」
同じ獣操士の仲間の悲鳴じみた声が、ユエルの鼓膜を揺らした。
祈りの間で獣の碑石に祈りを捧げるのが、ユエルの務めだった。
それはユエルだけではなく、この国にうまれた希少な獣操の魔力を持つ者たち皆の役割だ。
獣操士が祈りの間で祈ることで、聖イスフィミア皇国を支える『空鯨』に力を与え、また、癒し、進路を指示することができるのだ。
「ユエルは、もう駄目だ。獣失が起こった獣操士に魔力が戻ることはない。かわいそうだが、お役目はこれで終いだ」
倒れたまま動くことのできないユエルを見下ろして、獣官長のシルヴァが言った。
(そう……獣失……私はもう、使えない……)
ユエルは、目を伏せる。
八年間、働いた。
獣操の力が発現した者は、瞳が神秘的な翡翠色に変わる。それは空鯨の色。空鯨に生命力を分け与えられる者の証だ。
瞳の色が変わった者が現れると、各地の神殿へと報告がいく。
それから、神殿から神官の迎えが来る。
獣操士を管理しているのは神官である。
家族の生活を保証するかわりに、獣操士は国のために働くことになる。
けれど、八年目にして唐突に、ユエルはその役目を終えた。
優しいお兄さんにひたすら甘やかされる女の子の話が書きたかったのです。




