赤の洞窟 5
あれから、どれくらいの時間が経っただろうか。
「……っ、……う……」
想像を絶する痛みと苦しみで、どうにかなりそうだった。時間の感覚がなく、一秒が永遠にも感じられる。
魔法陣の上に突いた左手が呪いに侵食されて黒ずんでいき、全身に燃えるような痛みと熱が広がっていく。
(まだ、足りない……もっと、魔力と血が必要だわ)
血が失われていき、くらくらと眩暈がしてくる。それでも確実に、呪い自体が弱まっていくのを感じていた。
きっと、この呪いを解けるのは私しかない。こんなところで死んでたまるかという気持ちを込めて、必死に呪いを押し返していく。
「ティアナ! 一体、何を……」
背中越しにフェリクスの戸惑いの声が聞こえてきて、彼が無事にあの魔物を倒したのだと悟る。
やがて何をしているのか察したらしいフェリクスは、今にも倒れそうな私の身体を支えてくれた。
「何か俺にできることはありますか」
魔法陣に込める魔力を貸してほしいと伝えれば、彼はすぐに頷いてくれる。
「分かりました、どうすればいいのか教えてください」
もう私の魔力だけでは、限界が近い。やはり想像以上にこの呪いは強く、複雑なものだった。
昔のように私が吸収することはできないため、直接魔法陣に魔力を込めてもらうことになる。
そして私の魔力と波長を合わせなければ、魔法陣も押さえつけている呪いも、全て崩れてしまう。
私がなるべくコントロールするけれど、できる限り合わせてほしいと伝えれば、フェリクスは頷いてくれた。
(本当に、そろそろまずいかもしれない……左半身の感覚がなくなってきたわ)
言葉を発するだけで身体が軋み、痛みで意識が飛びそうになる。そんな私を見てフェリクスは唇を真横に引き結び、辛そうな表情を浮かべていた。
やがてフェリクスは魔法陣の上に、手を突く。床に描いた自身の血を通じ、温かい魔力が流れ込んでくる。
(良かった……フェリクスのお蔭で安定し始めた)
「っげほ、っ……ごほっ……う……」
そんな中、咳き込んだ私の口からは、真っ赤な鮮血がぽたぽたとこぼれていく。
左腕は完全に呪いで黒く染まり、指先ひとつ動かせなくなっていた。
視界が霞み、本当に限界が近いことを悟る。一瞬でも気を緩めればもう、意識を失ってしまうに違いない。
「ティアナ、もう──」
「っフェリクス! 集中して!」
私を止めようとしてくれたフェリクスは魔法陣から手を離そうとし、つい叱るような大声を出してしまった。その瞬間、これまでの全てが無に帰すからだ。
フェリクスはハッとしたような表情を浮かべ、再び魔法陣へと意識を集中する。
(い、今の大声のせいで内臓、やばいことになった気がする……でもやっぱり、フェリクスは優しい子だわ)
「だいじょぶ、だから……ごめ、ね……」
肩口で血を拭い口角を上げれば、フェリクスは苦しげにアイスブルーの瞳を細め、謝罪の言葉を紡いだ。
もう意識が朦朧としてきて、呼吸をするだけでも精一杯だった。気力だけで、呪いを必死に押し返していく。
(あと、少し……今、ここで全部出し切らないと)
もう声は出ず、そんな気持ちを込めてフェリクスへと視線を向ける。すると私の意志が伝わったのか彼は静かに頷き、魔法陣へと一気に魔力を込めた。
「……っ!」
(お願い、どうか──!!!)
最後の力を振り絞った瞬間、何かがぱんと弾け、目の前の霧が一気に晴れていくような感覚が広がった。
同時に痛む身体中が、温かい懐かしいもので満たされていく。これでもう大丈夫だという、確信があった。
良かったという言葉ひとつ紡げず、安堵した途端、目の前の景色が傾いていく。
「ティアナ! っ今すぐに──……」
フェリクスが私を抱き寄せ、名前を呼んでくれる。けれど途中からはもう、何も聞き取れなくなった。
(ああ、やっぱり何も変わってないじゃない)
今にも泣き出しそうなその表情は、子どもの頃と全く同じで、小さく笑みがこぼれる。
「────」
私は最後の力を振り絞って彼に手を伸ばし、大丈夫だと伝えると、静かに意識を手放した。
◇◇◇
「……っ……いっ…………」
意識が浮上した瞬間、激痛で一気に目が覚める。あちこちが痛くて、もうどこが痛いのかすら分からない。
目を開けて眼球だけを動かせば、見慣れ始めていた真っ白な天井が見えた。今はどうやら昼頃らしい。
(ここは……王城の私の部屋だわ。赤の洞窟で意識を失った後、きっとフェリクスが運んでくれたのね)
何もかもが痛くて、寝返りを打つことさえできない。痛すぎて、まともに何かを考えることすら厳しかった。
ひとまず治癒魔法でできる限り全身を治してから、一旦整理しようと思った私は、とあることに気が付く。
(魔力が、増えてる……それも今までの倍くらいに)
それと同時に、やはりあの最悪の仮説は正しかったのだと確信する。怒りが込み上げてくるのを感じながらもまずは治癒魔法を使い、身体を治していく。
「……目が、覚めたんですか」
そしてようやく寝返りを打った私は、すぐ側の椅子にフェリクスが腰掛けていたことに気が付いた。
彼も無事だったようで、心底ほっとする。無事に身体を治しきった私は、慌ててベッドから身体を起こした。
「ごめんなさい、私、気絶してしまって……あ、呪いは無事に解けましたか!?」
「…………」
そう尋ねてみても、フェリクスは何故か泣き出しそうな顔をしたまま、私を見つめるだけ。
そんなにも心配してくれていたのかと申し訳なく思っていると、やがてベッドの上に無造作に置いていた手のひらが温かい彼の手に包まれる。
フェリクスはいつかの私のように、私の手のひらを自身の元に引き寄せ、祈るように握りしめた。
これまでの彼らしくない様子に、心臓が早鐘を打ち始める。そんな私に向かって、彼はようやく口を開く。
「……なぜ、何も言ってくれなかったんだ」
「え」
そう告げられた瞬間、全てを悟ってしまう。私を縋るように見つめる空色の瞳は、確かな熱を浴びている。
「エルセ」
そして17年ぶりに呼ばれたその名前に、ひどく泣きたくなった。