スリッパを忘れた(?)子はかわいい
「こんにちは、授業体験の方はこちらです!」
土曜日、僕は第一志望の高校へ、説明会と体験授業を受けに来ていた。体育館での説明会を終えて、体験授業を申し込んでいる人は、校舎の方へ向かうことになっていた。レベルが高く、地元の中学校からは離れたところにあるため、知り合いはほとんどいない。一人で校舎の方へ向かっていると、見たことのある制服を着た女子生徒を発見した。あの後ろ姿は、同じ中学校の同じクラスの子だ。確か名前は、高野さん。肩の下まで伸びる長い髪を、後ろの高い位置で一つに結んで、スカート丈も先生に怒られないくらいのちょうどの長さ。普段はあまり話さないのでどうしようか考えていると、その子のちょっと変わったところに気付いた。高校は土足禁止のため、生徒はそれぞれ学校で履いている上履きやスリッパを持ってくるように言われていた。忘れてしまうと大変なので、僕も普段使っているスリッパ型の上履きを持ってきていた。けれどその子は、なにも履かずに、靴下のまま、校舎へつながる渡り廊下を歩いているのだった。ペタペタと、足元を気にしてつま先立ちをするでもなく、歩いている。ちらちら見える、白いハイソックスの足の裏は、やや灰色に汚れてきていた。教室ではまじめな優等生という印象の高野さん。そんな彼女が忘れ物なんて、意外だな。
歴史の長い高校なだけあって、校舎は古く見える。体育館は最近建て替えられたそうで新しかった分、古さが際立つ。廊下や階段は板張りで、ワックスがかけてあるのか、ピカピカしている。端っこには掃除をしていてもたまるのか、大きなホコリがあちこちに。高野さんはそれに気づいているのかどうか、廊下の真ん中におちた大き目のホコリもかまわずふんづけながら、階段を昇って行った。
「数学の体験はこの教室です。黒板の通りに座ってください!」
先生らしき人の指示で、僕は数学の授業教室へ入った。校舎の3階で、床は廊下とはまた違ったフローリングになっている。少し新しいのかな。けれどあまり掃除されていないようで、ここにも端っこには大きなホコリが落ちていた。中へ入ると、窓際の列から、前から順番につめてすわるようになっていた。僕の席は真ん中あたりの列の一番後ろ。前の方がよかったけれど、仕方ない。ふと周りを見ると、やはり知っている人はいない。そのまま座っていると、後ろの方のドアから、さっきの高野さんが入ってくるのに気が付いた。ハンカチで手を拭いているので、お手洗いに行ってきたらしい。相変わらず、靴下のままで、高野さんはペタペタと教室を歩き、僕の隣の列の、ひとつ前の席に座った。僕に気が付いているのか、いないのか、彼女は席に座ると筆記用具などを準備して、頬杖をついて窓の外を見始めてしまった。足元はというと、椅子の下で足を組んでいて、右足の足先だけが床について、足の裏がばっちりこちらを向いていた。靴下のまま校舎を歩き回ったせいで、白いソックスの足の裏は、足の形に黒く汚れが浮かび上がっていた。あのおとなしくてしっかりものの高野さんの、汚れた靴下。床についていない左足は、足の指がくねくね、くねくねと動いている。それに合わせて、足裏の汚れもくねくね。僕はそれを見てドキドキしてしまった。別にそんな趣味はないはずなのに、どうしてこんなに気分が高揚するんだろう。
やがて先生が入ってきて、もうすぐ授業開始のため、お手洗いに行っておくようにアナウンスがあった。授業時間は約1時間ということで、僕も念のためトイレに行っておく。体育館と同じく、トイレも最近改修されたばかりなのか、教室などと比べて明らかにキレイだった。男子トイレなのに、個室も洋式が2つもついている。流石にウォシュレットはないけれど。用を足して、手を洗って、ハンカチを取り出したときに、さっきの高野さんの姿を思い出す。そして気づく。あれ、このトイレ、スリッパがない…?新しいからか、中学校と違って専用のスリッパがないタイプ。僕はスリッパを履いていたから自然に流していたけれど、高野さんは上履きの類を何も履いていない。トイレ、どうしたんだろう…?女子の方にはあるのかな…?疑問に思いながら、僕は手を拭き、教室に戻った。斜め前には、先程と同じく、頬杖をついてノートを開く高野さん。足は机の前の方に伸ばしていた。横を通る生徒の一人がその足先をちらっと見て、少し驚いたような表情をした、ように見えた。
「みなさん、こんにちは、この高校で数学を指導しています、数学科主任の高田です。今日はよろしく」
時間になって、すらっとした、40歳くらいに見える先生が入ってきた。レベルの高いこの高校で数学科の主任って、すごいんじゃないか…?
授業は中学生にもわかるように、平方根の復習に始まり、そこから様々な数の世界を見ていく、という内容だった。流石に難しかったけれど、先生のお話がうまいからか、内容がすんなりと入ってきた。1時間の授業中、ずっと集中していたわけではなく、途中何度か高野さんに気をとられてしまった。始まって10分後くらいで、高野さんはまた足を椅子の下で組んで、足の裏を後ろに向けた。フチの部分がかゆいのか、片方の足先で靴下のフチの部分をこしこし、伸ばしていた白ソックスを少し下げて、そしてまた足を前に伸ばす。その後、足は何度か前後して、終了の10分前くらいには机の下にぺたりと両足を付ける姿勢になった。そうしていても、足の指がくねくねと波打っていた。
「…はい、私からの話は以上になります。みなさんと一緒に学べることを楽しみにしています」
ほぼ1時間、予定通りに体験授業は終了した。また案内役の先生が入ってきて、気を付けて帰るようにアナウンスされる。ざわざわする教室の中、高野さんはパパッと道具をカバンにしまうと、さっと靴下のまま席を立ってしまった。そして入り口の先生と言葉を交わすと、廊下に出ていく。別に何か話をしたいというわけではないんだけれど、なんとなく気になって、僕も慌てて高野さんの後を追う。廊下を進んで、階段に差し掛かると、みんなが階下に降りていく中で高野さんは一人上に向かった。特に看板などで立ち入り禁止になっているわけではないけれど、上は電気が点いていないのか、暗くなっている。僕がそれを見たころには、高野さんはすでに上っていったようで、かすかに靴下で歩く足音が聞こえていた。どうするか、いくか、帰るか…。イチカバチカ、僕は階段を上に上った。そうしないと、この先ずっと気になる、そう思った。
思った通り、校舎4階は体験授業には使われなかったようで、電気もつかず、ひっそり、ひんやりしていた。廊下はまっすぐで、4階に上がるとすぐ見えるけれど、そこに高野さんの姿はなかった。どこか教室に入っているのだろうか、僕も廊下を進み始めると、やがてトイレに差し掛かったとき、そこからパッと人が出てきた。危うくぶつかるところだったけれど、お互いにうまくかわす。
「あ…」
「わ、びっくりしたあ。…やっぱり、高見くんだったんだね」
「え、どうして…」
高野さんはさっきと同じように、ハンカチで手を拭いて、その手を体の後ろに回す。そしてやや下から上目遣いになる。背は僕より少し小さいみたい。足元は相変わらず、靴下のままだった。靴下のままで、またトイレに入っていたみたいだ。
「…授業中、あたしのこと、見てたでしょ?」
「え、い、いや…」
事実を指摘されて目が泳いでしまう。まさか気づかれていたなんて。だって、後ろ向いてたのに…。
「教室に高見くんがいて、少しびっくりしたけど、うん、君ならいいかなって、思ったんだ」
「え、どういう、こと…?」
何かわからず混乱していると、高野さんは体の前で手を合わせて、
「今日のこと、秘密にしておいてほしいんだ」
「え、今日…?」
「そう。あたしが、今日、靴下のまま、体験授業に来てたって、こと」
「ど、どうして…?」
「だ、だって、は、はずかしい、から…?」
そう言って、さっきまで何ともなかったはずの高野さんは、頬を少し赤くした。
「高見くんなら、お願い、聞いてくれるかなって、思って…。ダメ、かな?」
大きな目をウルウルさせて、なおも上目遣いにきいてくる高野さん。ドキドキがさっきからすごくって、僕は少し後ずさった。
「わ、わかったよ、今日のことは、誰にも言わない。…というか、話す人もいないし」
「やった、ありがとね、高見くん!」
僕の答えに、高野さんはとてもうれしそうで、そしてほっとしたような表情を見せた。そんな高野さんを見て、僕はひとつ、質問をすることにした。今日一日、ずっと気になっていたこと、これをはっきりさせないと、ずっともやもやしそうなこと。
「…秘密にするから、さ、ひとつきいてもいい?」
「ん、なあに?」
「今日って、上履き、忘れたの?」
僕が尋ねると、高野さんはまた少し赤くなって、
「そ、そうね、そういうことに、しておこうかな!」
どこか遠くを見て、そう応えるのだった。
つづく