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水と弓

作者: 武田章利

  1


にぎやかな生者の顔よりも

死者の沈黙と静けさに惹かれ

いつしか私も彼らに魅入られ

そうして地上をまだ歩いている

退屈と、憂鬱──

しかし気分が沈むことはなく

生者の笑いに嬉々とすることもなく

私はいつも、地平線に囲まれた場所で

わずかに白む景色を見ている


今朝は──

水があれば死者と会える、と

思い立って家を出ようとし

玄関で、姉に見つかり

声をかけられた


「そんな格好でどこに行くの?

 それに、もうすぐ朝食よ」

「ちょっとそこまで

 水が──水が見たいの」


古びた木と黴のにおいの玄関を

裸足で踏みしめ、靴を履き

行ってきます──と、姉に言う


「まただらしない格好をして」


姉の言葉は地面に落ちて

私の胸まで届かない

弓を担ぎ、玄関を出ると──

すっと流れる風が、素足をなぞっていった

露出した足に

水気を含む空気が触れる

どこか──澄んでいくような、消えていくような

それはこの地上を離れる感覚で

だけど──私は

自分の足を地上の一部だと感じ

それが今、風になぞられていることの快感を思う

気持ち良くて、視界がかすむ

そのまま一歩、一歩──世界を歩く


光が、弓を照らし

足元で、水が跳ねる

濡れる足、つたう滴──だけど

それでは、足りない──まだ

私の耳まで

死者の声は、聞こえない



  2



昨日の大雨がやみ

陽が昇り光を伸ばし

世界はそのなかで、ゆっくりと

小さな呼吸をしている

そのリズムを邪魔せぬように

私は川に向かう──そこなら

死者と会えるだけの水があるはず

道の水たまりでは、足りない

もっとたくさんの

奥深くまで覗けるような

鏡のような水がある場所──

私は、今は見えない月を思い、それが

私の下腹部にもあるのだと感じる

それはしっとり水に濡れ

豊穣の予感を示し、同時に

慈悲深い死の吐息を漏らす


そして弓のしなりが私にささやく

──お前が女であることを思え

  その内に潜ませる死の感触を

  あらゆる男の手に馴染ませよ


「そうね──」と


私は青く晴れ渡る空につぶやく

そこから光が

そこから憧れが

そしてそこから、諦めが

私の言葉を貫いていく


震える体と、緊張する足

弓のしなりが背中を押して

私は自分の姿を見つめる

それは、太陽の主ではなく

月の女王でもなく

それでも命をまとって歩き

言葉は潤い、そこに名前を浮かべている

そして矢を射る無邪気さで

満ちることと同じくらい

欠けることに心を震わす


水の気配が、素足に触れる

この先の川は増水している

はやくも使者がやってきて

私の足を急かしだす

この白い足は、死を孕む月の眷属

踏みしめるのは、太陽との中間──それは

生と死が激しく行き交う、私たちの地球



  3



轟々と濁った川が流れ

水位が上がり、今にも溢れそうになり

死の気配が強まっている

誰もが目を伏せ

気付かないふりをして

通り過ぎていく

弓が震え、弦が張り

素足の先まで伝わってきて

つま先の力加減に私の月がよろこぶ

内部から水を滲ませ

肥大していく月の衝動

吐息が漏れて、空気が色付く

私からどんどん滲む命

薄桃色の生が、ゆっくり世界に広がっていき

耳の奥でこだまする、自分の呼吸

動悸を感じ、腰掛ける木のベンチ

担いだ弓の途方もない重さが

大地に触れて景色が変わる

濁流は、死者の目により澄み渡り

私はその、漆黒の水面を見つめる

死者が集まり、弓に惹かれ

月が、私の月が

痙攣しながら愉悦を流す

ぴんと張る足、触れる弓

水面から、空へと

わずかに視線をずらし、こぼれ続ける息を聴く

誰の声が、やってくるだろう

私を知っている死者を、思い浮かべる

祖母は?

友人は、先輩は?

私とすれ違い、言葉を交わしたたくさんの人は?


流れ込んでくる、月暗色の意志

どこまでもどこまでも──

もっと、もっと──

地平線が続く光景に

私は裸足で降り立って

さらさらの、白い砂に足跡をつける

風のように意志が吹き付け

砂を舞い上げ、形を変えて──でも

すぐにまた砂は元の形に戻る


「何を見てるの?」


老婆の声がして

濁流が音を戻し

弾ける弓の弦に、地上が目覚める


「死者を、みていました」

「そうかいそうかい

 今日はまた、たくさんみられるだろう」

「でも、私に気付いてくれるか、分かりません」

「大丈夫だよ

 あんたはもう、月の人間なんだから──

 邪魔して悪かったね」


老婆は口を閉じ

私から離れて座り

穏やかな視線と、震える呼吸で水面を見つめる

それは少し、羨ましい──

私は弓を持ち、月を宿し

死者を待ちわびながら、まだ

地上を歩くことに執着している──

素足に水気が絡みつき

風が冷たく熱を奪い

水の底から、あの、どうどうと流れる川の底から

呼び声が細く伸びてくる

私の月は感じ入る

これ以上なく、全身の意志を震わせて

この体に入り込んでくるいくつもの死を迎え入れる

この、感覚──

弓と弦ががたがたと揺れ続け

月が、降りてくる

じわじわと、じんわりと、私の足に向かい

じんじんと熱に浮かされながら

どこか冷たい痺れが走る


「ああ、食事

 久しぶりの食事

 月の姿のあなたの意識を

 もっともっと食べさせてほしい」


声が、聴こえた──ああ

やってきた

やってきてくれた

私を見つけて、見つめてくれる

いくらでも、いくらでも──

私が与えられるこの全てを

残すところなく、食べ尽くしてほしい



  4



家に戻り

静かな玄関で靴を脱ぎ

まだ痺れて震える素足で

色褪せた木の床を踏む

おぼつかない足取りを

廊下はしっかり支えてくれる

我が家の小さな食堂に

人がたくさん集まって

すでに朝の食事をしていて

無口な父と

おっとりした母と

凛とした姉

年の離れた弟

祖母と祖父、それと

今日は従兄も座っている


「あんたのもあるから

 はやくお食べ」

「うん、ありがとう」


祖母の隣に座り

弟の食べ方に微笑み

姉と目が合い、すぐに、逸らす


「もうちょっとまともな格好はできないの?」

「今の私には、まだ無理」


顔は逸らして、声だけ返す

溜め息が聞こえ

続けてみんなの声が重なり

口に運ぶ食事の

あまりにも強い地上のにおいに胸が詰まる


「今日は、川を見に行ってたの?」


祖母の柔らかな声がして

うん、と答えて目を伏せる──

まだ、月が、震えている


「食事が終わったら、シャワーを浴びたい」


少しだけ、湿った声


「ごちそうさまです

 先に行きます」


逃げるように、従兄が立ち上がる

箸を綺麗にそろえて置いて

私と、目が合わないよう気を付けている


「足を、洗いたいの」


もうひとつ、湿った声を飛ばす──それは

去っていく従兄まで届いたはず


「気持ち悪い」


姉の、低く潰した声がして

生きた者のにおいが縮まる

だから私は

まだ足についている、死の感触をふんわり広げる──

がたん、と、音が立てられ

姉が立ち上がり

箸はそろえられず

いびつな足音で食堂を出ていく


「ちょっと、やりすぎだよ」


祖母が、優しく、言葉を置いた

ごめんなさい、と、目を伏せて──

でも

まだ私の月は

とろりと濡れて、呼吸をしている



  5



流れるシャワーの温かさは

どこまでも、生きた者の領域

冷たくなった足を包んで

私と死を切り放そうとする

それでも

人間はどうしようもなく死を選び

ただ死を選ぶことによってのみ

地上を生きることができる

流れ落ちるシャワーのお湯は

見せてくれるだろうか

髪をつたい

首から肩へ、そこから胸をくだり

腹部、下腹部──

舐めるように足をすべり

つま先を離れ、排水溝へと落ちていく

だけど

お湯は執拗に目を見開き

私の素肌に宿る生命を凝視するだけ──そして

手を伸ばし、触れてきて

その生あたたかい感触に筋肉が強張る

浴室に、生という幻想が充満していく

私は、どこまでも死であり続ける──そこに

もしも生があるとしたら

それは地上の所有ではない、きっと

星々の世界に属するもの

それでもお湯は流れながら

自分は生きているのだと必死に訴え続けてくる

だけど

それでも

最後には、自らの本当の姿を認めて、諦め

闇の奥へと消えていく


シャワーを止めて

水で重たくなった髪の

生からはほど遠いありようにほっとする

体をかがめて、足に触れると

まだ少しだけ、月の香りの余韻があった


「なあ、風呂から出たら

 一緒に散歩でもしないか?」


脱衣所の向こうから、声がした

あれは、従兄の声

恐れながら避けながら

それでも私という月の引力に抗えない

地上の悲しみと死の誘惑に従順な従兄

だから──

私はこの従兄を

水の奥底に引きずり込んでやりたいと思う


「あなたと一緒にいたら

 姉が機嫌を悪くするの

 それでも、一緒に行きたい?」

「君さえよければ」

「じゃあ、私の部屋で待ってて」

「ゆっくりでいいよ、急がないから」


月が

また、昇ってくる

欠けたはずの退廃が膨らんでいき

私は、指先にまで満ちる鋭さを感じる

それは研ぎ澄まされた刃のようで

だけど

大きくしなる弓の強さを持って

彼を、抱きしめたいと願う

全身から滴る水が

足元に溜まっていって

そこに──

死のかすかな呼吸が聴こえた



  6



服を着て

まだ水気の残る素足に触れる

これが、私の足

壊すことで輝く命のための

死により彫られた地上の一部

ここに

月の柔らかな光が浸透し

私は、弓を担ぎ

儀式の回廊のような、この家の廊下を歩く

わずかに残る足裏の水気が

古びた木材に反応する

それは老いた生に与える死

そして、私自身の輪郭の

その形態の性を際立たせる

生と死の間の誘惑

内側にしまいこんでいるものの

もったいぶった開示

目を、背けられるかもしれないもの

それは美しさよりも醜さを表し

私のものが、誰かのものでもあると知る時

きっと

多くの人が、穴に頭を埋めるはず

じゃあどうして──

どうして私は、私たちは

死を湛えた肉体という水袋のなかで

生きた者の顔ではなく

死者の呼吸と窪んだ眼窩を求めるのか


ぎしぎしと、床を鳴らして

階段をのぼる

弓が揺れて

早朝の晴れた空の

白く光る月の代わりとなる

弓が昇り

私の内の月は降りる

乾いた水気を補うように

私から、したたり出る水


揺れる弓が、私にささやく

──私を引け

  力強く目一杯に

  どんどん満ちる月となって

  世界のあらゆる水と融合せよ


「そうね」と


私は暑く火照った息を出す

いずれ崩れてなくなるものの

その虚しさの陰に隠れた

見えない命の微笑みを思う

部屋の前に立ち

ノブを握り、ドアを開ける──この先は

生と死の中間、私と従兄の

豊穣と破壊と、包容の時間



  7



したたるものの気配を感じ

従兄が顔を上げる

期待と緊張に満ちた、純粋な表情

今からこの世界に

供儀として捧げられるのはどちらなのか

屠る者と、屠られる者が

同じ水のなかで見つめ合う──そして

私から、手が伸ばされ

弓が張られ

月が大きくなって私を圧迫する


「行こう

 川沿いに歩いてみたいんだ」

「町中が水に満ちてるの

 気を付けないと、溺れるかも」

「僕は大丈夫だよ」

「生きてる人は、みんなそう言うの」


従兄の手を取り

彼の内に流れる水を思う

私と彼を隔てる、皮膚という絶対

肉体を持つことの、悲しい限界

だけど私たちは流れる水を含み

時間のなかで溶け合うことができる

ほら──と

弓の弦が従兄に触れて

彼の目が

膨らみ続ける月を見つける

息を飲む音

焼けるような鼓動

私の月に触れる顔──

さあさあと、流れる水の感触が

命の境を曖昧にする

やってくる──やってくる死者たちの声

どこまでも続く白い地平の彼方から

一瞬でやってくる、彼らの細い腕

私たちは、叩かれる

肉体という開かずの扉を

力一杯叩かれながら、水として生きる私たちは

激しく揺れる意識を

言葉の底から感じている──


手に──


痛みが走った

そして従兄の叫び声

床が割れそうなほどの、引き攣った恐怖の声

手から血が

赤い血が、私の水から流れ落ちていく


「無理だ!」


それは腰を抜かした従兄が発する

空虚な地上の音

私は手を伸ばす

彼は怯え、後ずさりし、滲み漏れる彼の水が

私の足元まで広がる──それは

温かい死と、繕い続けた生の感触


「何をしてるの!」


大声を出す、姉

怒りに満ちた表情で、ドアの向こうに立っている


「彼と散歩に行ってたの

 どこまでも広がる、何もない地平を見ながら

 ここでなら

 彼と溶け合える、って

 そう思えたけど──」

「僕には無理だ!」

「そう、否定されたの」


月が、消えていく

だけどそこに満ちた水は

最後に破裂して、この部屋を沈めていく


「あんたはいつも、だらしない格好で

 何もかも、何もかも──」

「でもね、本当に生きているのは

 この水のなかを自由に泳げる

 死者たちじゃないかって、そう、思うの」


手が、伸びてくる

それは溺れかけた従兄のもの

だけど助けることはできない

水は部屋から溢れ出し、姉を飲み込み

そのなかで

私は二人の、本当の声を聴く

弓がしなって、震えている

優しく、優しく

またいつか昇ってくる月を慕う

そんな湖面の光のように

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