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桜の木

「いやぁ、しかしさすが後宮のお屋敷は見事なものですねぇ。ヒノキの床に真新しい畳、それから庭にある大きな桜の木……これからこんなところで暮らせるなんて私、なんだか夢を見ているみたいです」


「大きな声を出すでない、花! 帝がお前のその銀色の髪に興味を持たれて、後宮の一員に召し上げてくださると仰っているのだぞ! お前には我が一族の命運がかかっているのだ、それをよぉく考えて、上手く立ち回ってだな……!」


 男の話をどこか呆けたような表情で聞いているのは、十代半ばほどの少女。「花」と呼ばれた彼女は月の光のように透き通る銀髪を腰まで伸ばし、この日のために誂えた上等な衣装を身に纏っている。目じりが垂れ、どこかおっとりした印象を受けるその顔つきは男のそれとよく似ていた。彼女、花は苛立たし気な男を宥めるように柔らかく口を開く。


「そう怒らないでください、兄上。帝は私にとって、雲の上にいらっしゃるようなお方。これでも相当緊張しているのですよ? それに後宮に入れば今までのように家族と、自由に過ごせる時間もございません。ですからどうか、落ち着いて笑顔で妹を見送ってくださいまし……」


「あぁもう、ごちゃごちゃ言うでない! とにかく、お前が気に入られれば私も父上も立身出世の道が開ける! 帝に気に入られ、帝に取り入り、帝の心を奪って、なんとか我が家の地位を獲得するのだぞ! 一刻たりとも油断するな、お前は帝の寵愛を受けることだけを考えるんだ!」


 兄上、むちゃくちゃなことを言いますねぇ。そう返す花を背に、花の兄はずいずいと廊下を進んでいく。顔立ちこそ花と似ている彼だがその性根は世俗的で、真面目だがそれが空回りしてしまう部類の人間らしい。それゆえ高い地位や名誉を承ることはなく、周囲から「苦労人」と揶揄されているが本人もそれは承知しているようだ。そんな彼だからこそ妹、花の後宮入りは千載一遇の機会。そのまま無礼だと言われない程度に急ぎ足で、二人の兄妹が客室に通されると一人の女官が待ち受けていた。


「ようこそいらっしゃいました、花さま。私は本日より花さまお付きの女官として働く、ねねと申します。花さまがこの後宮で何一つ不自由ない暮らしをできるよう、精一杯お手伝いさせていただきますのでどうかよろしくお願いいたします……」


 恭しく頭を下げる女官、ねねに花と花の兄もお辞儀を返す。

 歳は花の両親より少し下、ぐらいだろうか。衰えはあるもののきっちりとしたその佇まいには、女官としての優秀さと本人の真面目な性格を表しているように思える。貴族の娘が行儀見習いに女官として召し上げられたか、あるいは本人の聡明さを見抜く誰かがいたか。いずれにせよその能力は確かであろう彼女に花の兄はかしこまって挨拶をしようとするが、花はそこで眉を顰めると屋敷の中ををきょろきょろと見まわし始めた。花の兄はすかさずそれを叱責するが、花はそれを無視してねねへと尋ねる。


「ねねさん、何やら足音が聞こえてまいりますが一体何事でしょう? まさか帝がいらっしゃるこの邸宅に、曲者が入ったというのでは……」

「いえ、そのようなことは決してございません。帝の愛する妃たちを住まわせるこの場所に、部外者が入ることが無いよう周りは厳重な警備を布いております。ですが今朝方、少し大変なことが起きまして……」


「大変なこと、とは?」

「……いずれ花さまの耳にも入ることですが、実は既に後宮に入っていた妃の一人が身罷られたのでございます」


 ねねの言葉に、花の兄が礼節も忘れて驚愕の声を上げる。花はというとそんな兄を咎め、声を落とすとねねに「それはご愁傷さまです。しかし、なぜ?」と尋ねる。


「外の人間である私は、妃さま方のことをあまりよく知らないのですが……亡くなった妃さまはご病気か何かお持ちだったのでしょうか?」

「いえ……それが、首に紐で絞められたような跡が残っていて、しかしその肝心の紐がどこにも見当たらず、また近くには桜の木が植えてあったのですがそこには何の痕跡もなくて……その……」


「……つまり『何者かに絞殺された可能性が高い』ということですか」


 花の言葉に、花の兄がごくりと息を飲む。ねねは花の問いを、沈黙で肯定したようだ。花は二人を前に腕を組み、何か思案するような素振りを見せる。


「皐月とはいえ早朝はまだ寒い……殺害に使った紐は火鉢にでも放り込まれてしまったのでしょう。遠い異国には『滑車の原理』といって紐一本を巧みに使い、重いものを軽い力で持ち上げる仕組みがあるそうですから……桜の木が近くにあるのでしたら、女人でも殺害は可能でしょうね」


 後宮内に、妃を殺した者がいる。そう断定するような物言いに、花の兄が強い口調で彼女を叱りつける。耳にする者がいればその場で切り殺されても仕方ないような内容なのだ、花の兄はねねの前でひたすら、平謝りをしてみせる。


「申し訳ございません。我が愚妹はこの髪の色ゆえ、部屋に閉じこもり書物ばかり読み漁っているもので……度々、こうしたわけのわからぬ言動をしては周囲を困らせるのでございます。ですが本日、帝に輿入れする日をそれはもう指折り数えながら待ちわびておりましたので、どうか寛大な処置を……」


 どうも謝罪が癖と化しているらしい花の兄に、ねねもまた恐縮しながら頭を下げる。互いに何度も謝り合う二人をよそに、当の花は見当違いの方を向いていた。その瞳は何かを深く考え込んでいるように見えるが、何も考えず呆然としているようにも見える。そんな花にねねは、そっと耳打ちをする。


「実は、これから花さまの顔合わせという名目で既にこの後宮に暮らしている三人の妃さまをお呼びすることになっております。帝はそのうちの一人が、殺害を企てたのではないかとお考えのようで……もちろん、花さまの身はこの私がお守りいたしますが十分にお気をつけください」


 何に、とは言われないが花にもそれぐらいのことはわかっている。


 同じ後宮の妃を殺したかもしれない姫君、美しき毒婦たちにこれから会いにいくのだ。一筋縄でいかないことは容易に想像できる。そうでなくとも、女の世界には魔が潜むもの。自らの銀髪をさんざん嘲笑され、貶されて続けてきた花はそれを嫌というほど知っていた。


 そんな花の事情を知らない、花の兄はそのまま花から遠ざけられる。ここから先、帝の妻たちが生活する場所は例え妃の親族であっても男性は立ち入り禁止なのだ。


「くれぐれも粗相をするなよ! 絶対におかしな行動をするんじゃないからな! いいな?」


 何度も念押しする兄に辟易しつつ、花は気を引き締めて後宮にいる毒花たちへ会う覚悟を決めるのだった。


 ◇


「後宮に入った女性は皆、帝から新たな名前とその名前が記された名札を授かります。例えば私のこの紫の札、『美晴みはる』と書かれているでしょう? これが私の今の名前であり、この名札が私にとっては身分証明書となります」


 花にそう教えてくれたのは妙齢の、落ち着いた雰囲気のある美女だった。形の良い目にすっと通った鼻筋、育ちの良さを感じさせる気品あるその姿は楚々とした印象を受ける。長い黒髪に着けられた紫色の蝶を模した髪飾りは、薄い羽根に丁寧な塗色がされていて今にも動き出しそうなほどだった。おそらく花と同じように後宮入りが決まった時、お抱えの職人に銘じて作らせた最高級の一品なのだろう。そんな美晴の、これもまた薄紫色の名札にじっと目をやるとすぐ花に向かって笑顔を取り繕ったのは涼やかな目元ときりりとした表情が印象的な美少女だった。彼女もまた、青い名札を取り出すと自己紹介を始める。


「私の名は雨音あまねと申します。立場としては美晴さまの次、二番目に位が高い妃となります。ですがここにいる者は皆、日々の激務にお疲れの帝を癒すために存在している者たち。お互い手を取り合って、この国の未来のために全力を注ぎましょう」


 淡々と語る雨音の口調からは、感情らしい感情が見受けられない。しかしその美貌も相まってか、彼女はどこか遠い世界から来たような神秘的で謎めいたような雰囲気がある。黒い髪を結いあげる、青い朝顔の髪飾りは何か特殊な素材でも使っているのか、つやつやとした光沢を放っている。きりりとした目が我の強さを感じさせるような、冷ややかな空気の美女。


 そんな雨音と対照的に、「それなら私はぁ」とやたら大仰な仕草で可愛らしさを表現してみせたのは髪の色素が薄く、どことなく赤茶けた色に見える女。くりくりとした目と愛くるしい表情が合わさり、その姿は小動物を連想させる。年齢はこの三人の中で一番若いか、ひょっとしたら花より年下だろうか。こちらもまた技巧を凝らしたであろう、菊を模した髪飾りを着けた彼女はそっと黄色い札を見せて彼女は花に、にっこりと可愛らしい笑顔を向ける。


「私は、雷火らいか。立場としては今朝、お亡くなりになった霧絵きりえさまより一段上となります。でも私たちはみんな後宮に住む仲間なのだから、気軽に接してくださいねぇ」


 鼻にかかった甘ったるい声は、聞く者によっては不快感を抱くかもしれない。しかし雷火のその可愛らしい表情は、その嫌悪感を払拭するような輝きを放っている。三人の美女を目の当たりにした花はそんな雷火に丁寧に挨拶を述べた後、「ところで」と切り出した。


「後宮に住む妃さまは、亡くなった霧絵さんを含めるとあなた方四人だけなのでしょうか? 美晴さま、雨音さま、雷火さま、霧絵さま……他にお妃さまはいらっしゃらないのでしょうか?」」


「あら、その通りでございますが……」


 わずかに表情を曇らせて、答える美晴に雨音と雷火も二人そろって花に訝し気な目を向ける。帝の掌中にある三人の美女に見据えられ、花の後ろに控えていたねねはわずかにたじろいだようだが花は気にせず答えた。


「帝は独特の感性をお持ちですねぇ。晴れ、雨、雷……今ここにいらっしゃる三人の妃さまは全員、名前に天気を現す漢字が入っています。ですが今日、逝去された妃さまの名前は『霧絵』……私だったら次は『雪』が入った名前を選ぶと思うのですが、いきなり『霧』に飛ぶのは不思議だなぁと思いまして……」


 その瞬間、美しい女たちの間に形容しがたい緊迫した空気が走る。


 一瞬、ほんの一瞬だがそれは愛憎入り乱れたどす黒くおぞましいものだった……ねねはその空気の鋭さに卒倒しそうになるが、自分は後宮仕えをしている女官だという誇りをもってそれを耐える。どうやら花は思った以上に、厄介な性格のようだ。冷や汗をかくねねを前に平然としている花と、視線を彷徨わせる三人の妃。その静寂を破ったのはどこか、不穏な空気を纏う雨音だった。


「別に、おかしいことではないでしょう。それを言うなら風も嵐もないじゃありませんか。花さま、あなたは帝の感性に口出しできるほど自分が偉いとでも思っているのでしょうか? でしたら、とんでもない思い違いですわよ。帝はやんごとなきお方、下の者が下手なことを口にすると首を撥ねられることもあるとお思いくださいまし……」

「うーん、そうですねぇ。わかりました、今からそうします」


 要領をえない花の返事に「本当にわかっているのか?」と返したくなったのは、雨音だけではないだろう。だが真剣な空気を和ませるように、あえて華やいだ声を上げた者がいる。同性と異性でその評価が真っ二つに割れそうな素振りをする、雷火だった。


「きっと花さまにも帝が素敵な名前をつけてくださいますよぉ。今日はとりあえずお茶にしましょう? 外国から取り寄せた、変わったお茶があるのです。ぜひ、お飲みになってください」


 雷火の言葉に、彼女専属らしい女官がそそくさと茶の準備をする。湯気が立ち上がると同時に辺りに仄かな香りが広がり、その場は一時的に穏やかな空気が漂った。


「このお茶は私たちの国のお茶と違って、砂糖や柑橘類の果汁を入れて楽しむことができるらしいです。色もまるで紅葉のようで、とっても素敵でしょう?」

「あら、本当に変わっているんですねぇ。夕焼けのように赤く、綺麗で……飲むのがもったいないぐらいです」


 茶碗に注がれたそのお茶を、花はうっとりしたように見つめる。雷火はそんな彼女に親し気に微笑みかけているが、雨音は二人の様子に気に障るものがあるらしく「でしたら飲まなくても結構なのでは?」と棘のある口調で告げる。


「雨音さま、そのような言い方をなさるものではありません。花さまはまだこの後宮に入ったばかりなのですから……せっかくのお茶です、皆さまでいただきましょう」


 穏やかに取りなすような口調の美晴に、雨音も強く言い返せないのかそのまま和やかに四人の妃は茶を嗜む。ねねはそれを内心はらはらしながら見つめているのだが、傍から見れば四人の美女が穏やかに笑いあうその姿は実に麗しいものなのであった。

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