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思想のメロディ(随筆集)  作者: 藤原光
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おおかみこどもの雨と雪について(後編)

 映画の序盤に花が大学の講義を受けている場面があるのだが、そのときに教授が講義していたのは、「無知の知」で有名な古代ギリシアの哲学者だった。黒板にはチョークで書かれたソクラテスの名前がはっきりと見えたはずだ。もしかするとそれらの一場面は、何かしらの暗示を私達に試みていたのかもしれない。もちろんこれは私の憶測すぎる憶測ではあるが……

 私は映画を見終えた直後、まだ十分な考察もできていなかったので、極めて愚問な意見を抱いてしまったのだ。この映画が持つ提示性をより強調するためには、講義内容をサルトルやエリクソンにすれば良かったのではないかと思った。しかしそれは極めて愚問な意見であることに後から気が付いた。この映画が私達に提示してくれる最も偉大な問題は、実存や精神発達の問題ではなくて、あの黒板に書かれた「無知の知」、その無知にこそ、雨と雪をおおかみこどもとして描かなければならなかった、特別な意味を持っているのだ。

 そもそも上記の問題を提示するだけなら、雨と雪がおおかみこどもである必要は特になかった。別に彼らが狼でなくとも二つの問題性は充分に伝わる。現実的なマイノリティーに非現実的な要素を加えることで、鑑賞者を愉快な夢心地にさせることに、彼らがおおかみこどもである必要があったと言える。この映画が狼の研究のために作られた映画でもないことは、語り手の雪がイシュメイルのように語っていないことで明らかだ。しかし彼らはおおかみこどもとして生まれることで、ある一つの問題に対する答えを、その答えに至るまでの過程を、その細田氏の思考実験を感動的な物語に変えることで、私達に心から楽しめるように教示してくれたのだ。


 私が「おおかみこどもの雨と雪」を見て最も感銘を受けたのは、人間の自然に対する絶対的無知、または人間の自然に対する不可侵領域の提示であった。ソクラテスの無知の知、その無知が、この映画では存分に表現されているのだ。

 私がこの映画で最も心を動かされたのは、花が豪雨の中で雪を探している際に、一匹の熊と遭遇する場面だった。いったいあの場面に、この映画の良いところが、どれ程に凝縮されていることだろう!

花は彼らの母親として、まだ幼い雨を守る義務があった。そのために豪雨の中を出掛けた雨を連れ戻すため、大自然の森林へと入って行く。しかし花が見たのは自然の驚異、圧倒的な自己の無力、母としての責務に対する挫折だった。そしてこの挫折は、花の目の前に、圧倒的な溝の存在を教えた。その溝とは運命的な差異、人間と自然を区別する不可視の境界線だった。

 花は全くの無知だった。それも親であるという責務からの純粋的な無知だったのだ。彼女は人間であったので、雨の人間らしいところを把握することはできた。しかし彼女は人間でしかなかったので、雨の持つ潜在的なもう一つの種的本能を見抜くことができなかった。そのためにも花は、我が子の師であった狐と、雨のように会話をする術を持たなかったのだ。

 花は一度、雨が森に入ることを禁じる。花は森という大自然、神秘をも潜ませた自然に対して、本能的な恐れを抱いている。その恐れとは偉大なものに対する未知の恐れで、それは神に似た尊厳性を持って、常日頃から私達の目の前にも現れているはずである。花が森に入ることを雨に禁じたことを、一度でも疑念する世の親など誰もいないはずだ。しかし雨はそれに我慢をすることができなかった。彼が人間である花には理解できない、重要な使命を感じていたからだ。雨は大自然の一部から抽出された、細田氏による自然の化身であるのだから、またそれが元のところに戻る行為は妥当であろう。花は雨を追った。しかし本当に無力だったのは花だった。雨が花を助ける場面はとても印象的である。私達人間は自然とは別種の生き物で、自然に対しては全くの無知である。それどころか自然を目前にしては全くの無力でもある。もし私達が自然を少しでも把握しようとする。しかしそれも私達の思う通りにはいかない。なぜなら自然には不可侵領域というものがあり、私達は自然の領域を侵略することを、自然の神秘性によって許されない行為とされているからである。自然に近づけないのではなくて、まるで自然が私達を拒むように近づかせてくれないのだ。花の圧倒的な無力は、映画の最後で、自然に対する自然的享受に変わっている。彼女は我が子の運命を肯定した。そしてこの過程が、私達に自然との共存というものを、一種の方法論として提示してくれている。


 私はここまで書いて、ようやく満足してきたみたいだ。本当に良い映画だった。「おおかみこどもの雨と雪」を制作した細田守氏、その関係者の方々に、心から尊敬の拍手を送りたいと思う。

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