おおかみこどもの雨と雪について(前編)
先日に「おおかみこどもの雨と雪」を鑑賞した。私は映画評論家でもなければ、映画鑑賞が自らの特別的娯楽でもない。要するに私は映画に関しては、平均的、いや、それ以下の知識しかないわけであるが、私はこの映画を見ることによって、偉大な文学作品を読んだかのように、心底、味わい深い余韻に酩酊をしてしまったようなのだ。
私はとても困惑している。この酔いのせいで、現在読んでいる書物にも集中できない。私はどうにか目を覚まそうと、今回の映画評論を執筆することに決めたのだ。
私は細田守氏の映画を全て見たわけではないし、読者にはこの評論文を、一作家の心的印象を軽く汲むような態度で、読んで頂きたいと思う。
「おおかみこどもの雨と雪」は、実に難解な実存、自我に関する学問を、細田守氏の才能や努力によって、まるで絵本のように愛らしい表現で、私達鑑賞者に教えを示してくれた。
雨と雪は人間と狼のハーフとして、実存、自己同一性の問題と向き合っていく。この二つのテーマは簡単明快に提示されているので、私はこのことについては余りものを言うつもりはない。彼らは人間社会という共同体の中で、人間でも狼でもない自己自身と向き合うことで、「自分とはいったい何者なのか」というアイデンティティの問題を、母に教えてもらうわけでもなく、自らに置かれた環境と相対することで、無意識の内に自己探求を深めていく。そして彼らは人間らしさ、狼らしさというような自己的問題を超越することによって、自分らしさというこの世に一つしか存在しない、自己の主観的概念を手に入れるのだが、それもまた、彼らの母が教えたことではなく、彼らが自らの精神的成長過程による無意識的な気づきによって手に入れたのである。私達はこの映画を見ることによって、自我の芽生えによる精神的葛藤を、まるで彼らの親のような気持ちで、いつの間にか見守っていることに気付かされる。
「人は女に生まれるのではない、女になるのだ。」はボーヴォワールの有名な書に記された一文だ。雨と雪は人に生まれたわけでもなければ、狼に生まれたわけでもない。人間と狼のハーフとして生まれたわけでもない。では彼らは何として生まれたのか。答えは簡単だ。実存は本質に先立つ。私達が見た彼らとは、雨と雪の心的成長過程の可能性、そのものの存在だった。雨も雪も最後には自らの理想とする実存の仕方を、私達鑑賞者の心にまざまざと映してくれた。
自分は何者として、どのように生きていくのか。哲学や心理学の難題を、私達はアニメーション映画を通して、それは掴みどころのない問題ではあるが、それでも何かを掴めたかのように、難題に対する一種の充実感を抱くことができたのではないだろうか。しかし私がしたかった話しは他にある。この映画にはもう一つ、とても重大な問題が提示されているのだ。
雨と雪の母である花が、岩波文庫を手にしている場面が、映画の序盤に時々見られた。それも文庫カバーがされていない、表紙が茶褐色で、中央には岩波のシンボルでもある「種まく人」が認められるほどに、一冊の文庫が種的存在感を放っていたのだ。おそらく細田氏は文学や思想に対して強い思い入れがある人なのだろう。同じく細田氏監督の「バケモノの子」では、メルヴィルの白鯨が、クライマックスに勢いよく登場する。では「おおかみこどもの雨と雪」では、何か文学作品が暗示的作用を持って、私達の目の前に現れただろうか?